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36. 皇子、同意する

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 ほどなく泣き止んだシャルが、アルフォンソの胸から顔を上げた。

「すまない。心配をかけて」

 レンズの奥の濡れた瞳が瞬いた。
 アルフォンソはエルサがこれ見よがしに置いていったハンカチを手に取ると、シャルにそっと渡してやる。

「私こそ、すみません。私のせいでアルフォンソ様が大変なことに」

 シャルが眼鏡を外し、ハンカチで涙をぬぐった。さらに曇ったレンズを拭きながら俯く。
 貴方のせいじゃない、と言おうとして、アルフォンソは力なく咳き込んだ。
 治癒術である程度肉体は保たれていたとしても、長らく何も口にしていなかったであろう身体はすっかり弱っていた。
 食欲は全く感じないが、喉は痛いほど渇ききっている。
 慌ててシャルが水を取りに行く。
 差し出されたグラスを一気に呷って、アルフォンソは盛大に噎せた。

 噎せながら、彼女の前で噎せたのは、これで二度目だな、などとしょうもないことが脳裏に浮かんだ。
 なんだか、彼女には、らしからぬかっこ悪い場面ばかり見せている気がした。

 咳が止まるまでの間、シャルは心配そうに、何度も背中をさすってくれた。

「アルフォンソ様、水はたっぷりありますから。ゆっくりと、ゆっくりと飲んでください」

 再び差し出されたグラスを受け取ると、今度は少しずつ口の中で含むようにして水をひりつく喉に流し込む。その間も、シャルはベッドサイドから離れることなく、アルフォンソの背をそっと支えてくれていた。

「ありがとう」

 礼とともにグラスを返す。
 まさに生き返った気分だった。水がこんなに美味しいと感じたのは初めてかもしれない。
 彼女手ずから渡してくれた水は、なんだか特別な味がした気がした。

 動いた拍子に感じた左肩の違和感に、右手で触れてみる。
 幾重にも巻かれた包帯に、少し上下に動かして具合を確かめてみた。
 おそらくこの傷はあの黒い刃が突き刺さったときに負ったものだ。
 多少の痛みはあるが、出血は止まっているようだ。少なくとも、今現在は。
 
「私はどれくらいの間、眠っていたのだろうか?」

「丸6日は。旧教会で私を助けてくださってからずっとお眠りになっておられたんです」

 6日か。

 エクセルに彼女シャルを託したことはかろうじて覚えているが、それ以降の記憶はぷっつりと途絶えている。
 情けないことになったものだ。いつもなら、自分の術ヒーリングでどんな深手でも治してみせるのに。

「もしかして、自分はかなり危ない状態だったのだろうか?」

 今更ながらの問に、シャルは檄して何かを言いかけ、それから弾かれたように、彼の背から手を離した。深呼吸を一つすると、立ち上がり、空のグラスをテーブルに戻しに行く。

 彼女の手の感触を恋しく感じつつも、アルフォンソはふと侍女が残した『力加減』という単語を思い出す。

 今の一瞬、自分の背中は危なかったのかもしれない。

 戻ってきたシャルの目はもう潤んではいなかった。
 レンズの奥の瞳は、どちらかと言うと怒っているように見える。

「もしかして、じゃありません。アルフォンソ様は、、命が危なかったんです。術師も医者もなぜ意識が戻らないのかわからないと言うばかりで。これ以上こん睡状態が続いたら、打つ手はないと」

「貴方は?シャル嬢は、どこも怪我はしていないのか?」

 自分のことより、まず彼女シャルの方を気遣うアルフォンソの態度に、シャルはキッと視線をきつくした。

「もっとご自分を大切になさってください!みんな、心配してたんです。エクセル様も黒騎士団の方々も、うちの家族も騎士団も。こんなことじゃ、安心して結婚なんてできません」

「その、結婚の申し込みのことだが・・・貴方が気が進まないなら、取り消そうと思う。これ以上、貴方を巻き添えにしたくはない。貴方を私の事情に巻き込むことは、私の本意ではない」

 彼女シャルは、あの刺客の女から何か聞いたはずだ。少なくとも、『銀の聖女』と自分アルフォンソとの関係を。おそらく、『銀の聖女』が犯した、この世のことわりに反する罪についても。
 それに・・・。
 彼女は思い出したのだろうか?自分自身の前世について?

 あの礼拝堂で、彼が覚悟を決めた時、現れた彼女の姿。あれは、明らかに、彼女、本来のシャル・ベルウエザーではなかった。あの時、彼女は確かに彼を『リーシャ』と呼んだ。あの、聞き間違うはずがない、懐かしい『口調』で。

 あの時、彼女を動かしていたのは、まごうことなく黒竜ゾーンだった。なぜ、そんなことが起こりえたのかは、彼にもわからないけれども。

 はたして、あの時のことは、彼女の記憶に残っているのだろうか?

 残っていないなら、その方がいい。自分さえ傍にいなければ、二度と、黒竜ゾーンの意識が現れることはないだろうから。そうすれば、彼女は普通に~多少は普通じゃないところもあるかもしれないが~子爵令嬢として平和に生きていくことができる。

 自分はこのまま『穴』が開ききる前に、何事もなかったかのように彼女の許から去ればいい。そして、あれからずっと繰り返してきたように、ひっそりとこの世から消え去るのだ。今度こそ、永遠に。
『銀の聖女』の願い自体は、あの瞬間、叶ったのだから。

 生まれ変わる度に運命を共にしてくれたあの黒い輝石。どの生でも『リーシャ』であった者を守り続け、支え続けて、今生では術の成就を教えてくれた、魔石ゾーンの欠片。それも、あの戦いで砕け散ってしまった。最後まで、彼を、『リーシャ』を守りきって。
 黒竜が残した唯一の形見、彼と黒竜をつなぐ確かな物は、今度こそ消え失せたのだ。永遠に。

 だから、彼女シャルにはもう会えない。いや、会わない。そう考えるだけで、ひどく胸が痛んだ。それでも・・・彼女の幸せを願うなら、これ以上、そばに居てはいけない。彼女を自分の罪に巻き込んではならない。
 自分の存在が消えれば、おそらく術の効力も消える。現世を全うした後は、自分がゆがめてしまった魂も本来の形に戻るかもしれない。

 アルフォンソは今回の件で思い知ったのだ。いかに自分が甘かったか。

 ほんの少しの期間とは言え、自分はなんと都合の良い未来を夢見ていたのだろう?わかっていたはずなのに。彼女を、ゾーンの魂を、自分の贖罪に縛りつけてはならないと。家族にも周囲にも恵まれた彼女シャルは、呪われた罪人である自分アルフォンソとは、もう関わらない方が幸せだ。それでも・・・

 探るように、すがるように見つめるアルフォンソの視線を受け止めたまま、シャルは何やら真剣に考え込んでいるようだった。

 やがて、決然とした表情で口を開く。

「アルフォンソ様、お手数とは思いますが、結婚のお申し込みは、もう一度、正式にやり直していただけますか?できれば、次回もお手製の差し入れ付きで。体調が回復されてから、改めて仕切り直しってことで」

 ?

 予期せぬ答えに、アルフォンソの思考が一瞬停止した。

 その表情が面白かったのだろう。シャルが可笑しそうに笑った。そして、いたずらっぽい口調で続ける。

「多少のトラブルなんて、我がベルウエザー一族は気にもしません。婚約を考え直す必要なんて全然ありません。あなたがベルウエザーに婿に来て下さる限りは」

 髪も瞳も同じ色合いなのに、なぜ、こんなに印象が違うんだろう?
 アルフォンソは呆けた頭でそんなことを想った。
 同じ名前の二人、リーシャとシャル。こんなに似ている二人なのに、その笑みは、きっと全く違う。

「本当にいいのだろうか?私は『銀の聖女』の現身で、世界を破滅に導くかもしれない存在もの。その上、今は、命を狙われる身でもあるのに?」

 震える声で問いかけると、彼女は、もちろん、と大きく頷いてくれた。

「ややこしいことになってるみたいですけど、それは、まあ、お互い様ってことで。それに、巻き添えにしたくないなんて、変ですわ。古の『銀の聖女』様が何をされたのかはよくわかりませんが、私がここに在ること自体が、その『巻き添え』の成果ですよね?今更、アルフォンソ様が気に掛けるべきことではないのでは?」

 誰よりも強く賢かったのに、どこか抜けてて楽観的で、信じられないほどお人好しだった黒竜ゾーン。

 『銀の聖女リーシャ』の執着が地に縛り付けてしまったあなたの魂を持つ人は、こんなにも強く、驚くほど前向きだ。

「あのね、アルフォンソ様、黒竜ゾーンは全然、不幸ではありませんでした。最後まで、彼はリーシャを守れたことを誇りに思っていました。心残りといえば、ただ一つ」

 いきなり、シャルに両手で抱きしめられて、アルフォンソは全身を硬直させた。

 力を入れ過ぎないように注意しながらの、あくまで優しい彼女からの抱擁。

 驚きのあまり瞬きさえ忘れた彼の、傷ついていない方の肩に顔をうずめて、シャルはゾーンの最期の想いを告げる。

「黒竜ゾーンはリーシャを抱きしめてみたかった。一度でいいから。人間たちが大切な人にするように。ほら、こうして・・・だから、ね、もういいんですよ」

 密着した部分から伝わる柔らかなぬくもりに、アルフォンソの体温が一気に上昇する。

 シャルが抱擁を解いた頃には、その、男にしては白い頬には、ほのかに血が上っていた。

「アルフォンソ様の中に『銀の聖女』がいるのは知っています。でも、あなたは彼女じゃない。彼女があなたの一部であるだけ」

 ささやかれた言葉は、アルフォンソの耳には優しく響いた。とても優しく。

「同じ様に、私の中には、確かに黒竜ゾーンがいる。だけど、私は私。ゾーンじゃない。、あ、この私、リーシャルーダ・ベルウエザーなんです。だから、約束してください。決して一人で逝かないと。世界の運命なんて、、ですわ」

 同じくらい頬を赤くしたシャルの令嬢らしからぬ言葉遣いに、アルフォンソの目が大きく見開かれた。

「どこで、そんな言葉を?」

「もちろん、父上から。ね、心情的にぴったりでしょ?」

 得意げに言ったシャルは、すぐに、しまったとばかりに付け加えた。

「あ、どうか、母上には、これは内緒にしてくださいね。あの人、礼儀作法にはとってもうるさいんです」

 上目遣いのお願いに、アルフォンソが思わずクスリと笑った。その黒い瞳がみるみる潤んで、泣き笑いのような表情になる。

 究極の美形って、どんな顔でも十分に鑑賞に値するんだわ、とシャルは改めて思う。
 垣間見えたその無防備な感情は、シャルの胸を熱くする。
 やはり、この人は、可愛い人だ。
 誰よりも強い戦士のくせに、その精神は、昔と変わらず、傷つきやすくて愛らしい。

 今は、あの父を選んだ母マリーナの気持ちがよくわかる。

 誰よりも強いひとなのに、私にだけは『可愛い』なんて最高。だから、私にだけ微笑んで。あなたが何でも、私が何でも気にしないから。
 大切なのは、何であったかではなく、だから。

 エルサが勧めてくれた恋愛小説では、こういう時、ヒロインはどうするんだっけ?
 少し考えてから、シャルは、皇子の方を向いて顔を上げ、そっと目を閉じてみせた。

 心の奥のどこかで、黒竜の『笑い声』が木霊した気がした。

*  *  *  *  *

 そうだ。全ては、彼女シャルの望み通りに。

 伝説の『銀の聖女』は、はるか昔に死んだのだ。その罪も、世界の運命も、とりあえずは・・・彼女シャルの言う通り、『クソくらえ』でいいのかもしれない。

 今の自分には世界よりも何よりも大切な者がいる。
 自分は、どんなことをしてでも、彼女を幸せにするのだ。彼女のためにこそ、自分アルフォンソは生まれてきたのだから。

 たとえ、問題が山積みであったとしても。

 彼女こそが、ようやく見つけた運命の人なのだから。

 アルフォンソは、目の前で待ち受ける赤い唇に、求められるまま、そっと己の唇を重ねた。



    The End of the First Story.

   

    
  ※ ここまで読んでいただき、ありがとうございました。できましたら、評価
    あるいは感想をいただければうれしいです。
      
  ※ この後の話も今のところ書くつもりです。
    で、これから先の短編というか中編?連作は、この先の第二話へ続く前の
    エピソードとして気楽に読めそうな話を描いています。
    続けて読んでいただけることを、願っております。




 
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