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~元聖女の皇子と元黒竜の訳あり令嬢はまずは無難な婚約を目指すことにしました~

皇子の療養休暇 ⑭真実

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 あの日、生まれた日を誰にも祝ってもらえないのが当たり前の王女は、どんな思いであの場所を訪れたのだったか?誰にも構ってもらえない寂しさ?王族の孤独?両親への憤り?

 今となっては、はっきりとは思い出せない。けれど、たぶん、そのどれでもなかった気がする。
 自分自身のせいではない以上、現実を認めて受け入れるしかないとわかっていた。得られるはずがないものを請い求めても、みじめなだけだ。

 アマリアーナは、年の割にきわめて現実的な、全く感情的ではない子供らしからぬ子どもであった。

 だから、あの光景は衝撃的だった。

 お気に入りのベンチにいたのは、立派な鎧を身に纏った、一目で名のある騎士だとわかる男。
 なのに、その男は泣いているように見えた。
 めったに人が訪れない、見捨てられた温室の片隅で。

 力なく丸められた大きな背中。悄然と俯いた横顔。顔を覆う指の隙間から見えた眉は苦し気に顰められ、閉じられた眦に涙が滲んでいるように見えた。

「許してくれ、バイオレッタ。俺のせいだ。俺が君を殺したようなものだ・・・許してくれ、バイオレッタ・・・」

 何度も繰り返される苦渋に満ちた懺悔。悲し気に、愛し気に繰り返される名前。
 おそらく彼にとって何よりも大切だったのに、永遠に失ってしまった女性の名前。

 なんだろう、この感覚は?

 急に沸き上がってきた痛みに、アマリアーナは胸を押さえた。そして思った。
 こんなに強い感情を向けられているバイオレッタ。彼女はどんな女性だったのだろう?

 どれくらい、息を殺して見つめ続けていたのだろうか?

 漸く人の気配に気づいたのか。
 男が顔を上げ、振り返り、大きく目を見開いた。

 その双眸は珍しい灰青色ブルーグレイをしていた。
 そこにあるのは、涙ではなく、押し殺された感情と諦めにも似た強い覚悟の色。

 似ている気がした。両親にあまり愛されていない事実を受け入れ、王女としての矜持を持ち続けなくてはならない自分自身と。

「大丈夫ですか?」

 なぜえてそう問うたのかは、アマリアーナ本人にもわからなかった。
 騎士の気持ちを思いやるなら、素知らぬふりをすべきであることは十分にわかっていたのに。

 醜態を見られたことを悟り、案の定、騎士はバツの悪そうな顔をした。
 その手がベンチに無造作に置かれた仮面に伸びる。瞬時に、その大きな背中が戦士の威厳を取り戻した。先ほどまでの姿がウソのように。

「無様な姿を見せた。忘れてほしい」

 おそらく平民の恰好をした彼女を庭師の娘とでも思ったのだろう。

「お嬢さんの場所に、勝手に入り込んでしまってすまない」

 凛とした、人に指示するのに慣れた声は、彼女の耳には好ましく響いた。とても好ましく。

 去り行く騎士を見送りながら、その鎧の背にある4本の槍で描かれたひし形の紋章を、彼女は記憶の奥底に刻み込んだのだった。

*  *  *  *  *

「アマリアーナ、けがは?」

 あの時と寸分違わぬ灰青色ブルーグレイの瞳が、彼女を心配そうに覗き込んでいる。

 こちらの色の方が、やはり本当の色なのかしら?
 ぼんやりとそんなことを考え、可笑しくなる。
 瞳の色よりも、今、驚くべきなのは・・・

「アマリアーナ、痛いところはないか?」

「私は平気よ。あなたのおかげで」

 アマリアーナは、自分を横抱きに抱えている男の背に片手を回し、翼の付け根にそっと触れて、その暖かさを確かめる。
 間違いない。これは、翼だ。彼女を救ってくれた『イ・サンス』と名乗った男の背には、作り物ではない、本物の翼が生えている。

「バカなことをしたな、イ・サンス。放っておけばよかったものを」

 軽やかな羽音とともに、声が上空から降ってきた。
 小柄な影が大きな黒い翼を緩やかに羽ばたかせながら、木々の間からふわりと舞い降りた。
 やはりスカートは慣れない、と呟きながら、裾を両手で抑えて。

「ル・ボウ・・・」

 アマリアーナが瞠目して呟いた。

 辺境伯の片腕と呼ばれる、弓隊隊長は、いつもは無造作に後ろでまとめているこげ茶の髪をカチューシャでしっかりと止め、いつもの軍服ではなく、なぜか、メイド服を身に纏っていた。
 その背に広がるのは、男と同様の、いや男よりもはるかに大きな黒い翼だ。

「申し訳ありません、おさ

 男が、首を垂れて、唇を噛んだ。

「ヒト族の前で翼を見せるとは。どんな理由があれ、許されることではない」

 機能性を重視したシンプルなメイド服は、それなりに彼女に似合っていた。そのような装いにもかかわらず、その立ち居振る舞い、その声には、長と呼ばれるに足るだけの威厳が感じられた。

 目の前にいるのは、彼女が知る辺境伯の忠実な部下ル・ボウとは全く異なる、強烈なカリスマだった。

「周囲に簡易結界を張った。幸い、あの混乱の中で、お前の翼をはっきり見た者はおるまい。どうすべきか、わかっておろうな?」

 翼人族『ハルピュイア』
 アマリアーナは、子どもの頃読んだことがある城内図書館の資料を思い出していた。
 かつて、この大陸に生息していたらしい黒い羽根を持つ、女だけの魔族。激しい攻防戦の末、皇国の始祖たちはこの美しくも悍ましい亜人の王国をうち滅ぼして、この地に平和を築いたと記されていた。

 翼ある魔族の美しい長は、冷たい笑みを浮かべて、イ・サンスを、そしてアマリアーナを睥睨していた。

*  *  *  *  *

 眼前でル・ボウの大きな翼が折りたたまれたかと思うと、ふっと消え失せた。

「お前ができなければ、私がやろう。その女をこちらに・・・イ・サンス?」

 男は、アマリアーナの身体をそっと地面に下ろすと、庇うように立ちふさがった。まるで盾のように翼を大きく広げたまま。

「彼女は渡しません。いくら、長、あなたの命令であっても」

 ル・ボウの顔に怪訝そうな表情が浮かぶ。

「何を言っている?あの場でお前の翼をはっきり見た者は、いないはず。その女さえ始末すればいいだけのことだろう?」

「嫌です。自分にもうウソをつくことはできない。私は、彼女を、アマリアーナを大切に思っている。傷つけたくない。あなたが彼女を害しようとするなら、長、私にだって覚悟があります」

 イ・サンスの声にある断固とした意志を、アマリアーナは驚きと喜びを持って聞いた。

「その女は王の娘。王の手の者。お前もよく知っているはずだ。古より人間たちが我らに、どんな仕打ちをしてきたか。今、彼らに我らの存在が知られれば、我らが悲願、ようやく手に入れた安息の地を失うことになるやもしれぬのだぞ?」

「彼女を説得して見せます。わが命にかけて、誓います。だから、どうかご慈悲を」

「説得?一度、私はお前にそれを許した。その結果、お前の妻だった女がどうしたか、お前は覚えているはず。お前の愛を否定し、お前を化け物だと手ひどく罵り、逃げ出したではないか?」

 アマリアーナには、男のたくましい背が微かに震えるのがわかった。

「あの女が都にたどり着く前に事故で死んでくれたのは、我らにとって、まこと、僥倖だった」

「バイオレッタのことをそのように言うのは止めてください」

 喉の奥から絞り出すように、イ・サンスが言った。あの日のことを彷彿させる、後悔に塗れた声で。

 嫌だと思った。その表情が見えなくてよかったと思った。自分を裏切った女を思って苦悩する顔なんて見たくなかった。
 だから、アマリアーナは男の腕をそっと握って自分の方に引き寄せた。

 「まさか、私が気づかないと思ってたの?変装すれば、見破れないと?」

 驚いて振り向いた男に、アマリアーナは笑いかけた。
 それから、その頬に平手打ちを一つぶちかました。

「イ・サンスと言うのがあなたの本当の名前なのかしら、エドモンド・サリナス辺境伯?私の愛しい旦那様?」

 頬を押えて硬直している男を満足げに見やると、アマリアーナは一歩前に進み出た。
 これまた呆気に取られているル・ボウと面と向かって対峙する。

「ル・ボウ、いえ、翼ある一族の族長様。父アルメニウス一世の名代として改めてご挨拶申し上げます」

 アマリアーナは、最大級の敬意をこめて、翼人族の長に優雅に淑女の礼をとった。

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