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第六章
天覧(3)
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強い―。
以前戦った時とは比べものにならないほどの力をヒギトは身に付けているようだ。だが、この震えが恐怖ゆえではないことも充分に理解している。
強敵と戦うことに対する、言いようのない歓喜が全身を震わせているのだ。
ふらつく足取りで戻ってきたオオヒコに、カザトは無言で拳を差し向けた。
気付いたオオヒコは苦しい顔に微笑を浮かべ、カザトの拳に己の拳を軽く打ち合わせる。
「力は多分……カザトどのより強い。ご武運を」
カザトは黙って頷くと、ゆっくりと仕合場へと歩を進めた。
大隅のヒギトがじっとこちらを見つめている。
敵意も闘志も、何一つ感情の読み取れない冷たい光を宿した眼だ。いつかの月夜の邂逅を思い出す。
東方・西方ともに最後の遣い手が立ち合う大一番に、会場から渦のような声援が送られている。
貴志麻呂も、その姉も、そして大伴旅人やオオヒコ、ほかの仲間たちも声を限りにカザトを応援している。
だが、カザトは一歩踏み出すたびにそれらの音が少しずつ遠のき、やがて何も聞こえなくなっていくのを感じていた。その耳が待ち受けているのはただ一つ、差配役の発する仕合開始の掛け声だけだ。
カザトはヒギトと、正面から向かい合った。
「はじめ!」
カザトは地を蹴って、矢のようにヒギトに突っ込んで行った。
だがやみくもに組み付くのではない。肘を真横に折りたたみ、その先端で相手の顎をかち上げるように攻めていくのだ。
しかし、ヒギトの踏み込みの方が数瞬早い。そのまま胸で肘の攻撃を受け止められ、深く組み合う格好になった。
ヒギトの力は予想をはるかに超える強さだ。
これなら体格差のあるオオヒコに力負けしなかったことも頷ける。それゆえ、長く組み合っては不利だ。消耗したところを投げ飛ばされてしまうだろう。
短期決戦にしか自分の勝機はない―。
そう思ったカザトは、一瞬強く前に向けて圧をかけ、押し返してくる手ごたえを感じた刹那、左向きに反転して上腰に相手を乗せるように投げを打とうとした。
しかし、ヒギトはぐっと腰を落として踏みとどまる。
間髪いれず、今度は右回転で身体を切り返し、同じ形の投げを放った。今度はヒギトの身体が浮き上がるのを感じる。
だが、ヒギトは先ほどの仕合そのままに、投げられながら身を翻し、その勢いを利用して逆に投げを返してくる。
咄嗟に重心を落としてどうにかこらえたカザトだったが、次へと技をつなげることはできなかった。ふたたび深く組み合い、次の展開を目まぐるしく脳裏に浮かべる。
途端に、会場に渦巻く歓声や声援が耳に蘇った。
何も聞こえなくなるほどの集中が途切れてしまったのだ。
苦しい。
短い時間だが、全力で繰り出してきた技のため、呼吸が圧迫されるかのような苦痛を感じる。このままでは組み合うだけの力にさえ耐え切れなくなるだろう。
集中力を欠いたせいだろうか、組み合ったままの視線の先に、ミカドの乗った輿を捉えてしまった。
翳を押しのけるようにして身を乗り出し、食い入るようにこちらを見つめている初老の婦人が眼に入った。今上のミカドだ。
誰もかれもが仕合に夢中で、観客たちの中にもミカドが素顔をさらしているのに気付いている者はいないようだ。まさか、こんな形で龍顔を拝することになろうとは。
そう言えば、かつて朝廷で大隅隼人と阿多隼人がスマイの仕合を披露したのは、「大海人(おおあま)」と呼ばれた今上の祖父帝の御世だったと聞き及んでいる。
そしてその戦いのゆくえは大隅隼人の勝利で幕が下りたのだ。
また、祖父帝の崩御後、その跡を継がれた祖母帝の時代には飛鳥の寺で隼人のスマイを民衆が観戦したという。
そして今、その御孫たるミカドの御前でふたたび大隅と阿多の隼人が戦っているというのは何かの因縁なのだろうか。
大隅の武勇にヤマトの朝廷が一目置いているのは間違いない。もっと有体に言えば恐れていると言ってもいいだろう。
もしこの仕合でヒギトが勝てば、同じようにミカドは大隅隼人の力に対して畏怖の念を抱くのだろうか。
もしそうなれば、ヤマトと大隅の緊張関係にも何らかの変化がもたらされるかもしれない―。
カザトがそんなことを考えたのはほんの一瞬にも満たない間のはずだった。
しかし、その刹那に途切れた力の流れを見逃すヒギトではない。
しまった、と思った次の瞬間、カザトの視界はぐるりと一回転し、受け身をとる間もなく背中から地面に叩きつけられ、後頭部を強打した。
眼の前が真っ白になり、ぐっと息が詰まる。
―完敗だ。
見事なまでに投げ落とされた。
苦しい息の中、まいった、と声をかけようとしたその時、胸に強い衝撃を受けて思わず呻き声を上げた。
何としたことか、勝者のはずのヒギトが馬乗りにのしかかり、さらにカザトの首を絞めにかかっている。
止めを刺す気なのか―。
首の動脈を圧迫されたカザトは逃れようもなく、徐々に意識が遠のいていく。
だが、差配の貴志麻呂やオオヒコ、東西の遣い手たちが駆け寄り、一斉にヒギトを止めにかかった。さしものヒギトも大勢の力には抗いきれず、強引にカザトから引きはがされる。
たくさんの人間の怒号や叫び声が入り乱れているような様子だが、朦朧としたカザトの耳にはどこか夢の中の出来事のように、曖昧な音としか聞こえなかった。
仰向けに転がったまま眼を泳がせると、ぼやけた視線の先にミカドの龍顔が浮かび上がっている。くすり、と微笑むと、そのまま多数の翳の影に覆い隠されてしまった。
その時、会場の騒乱を一喝するかのように衛門府の役人が大音声を発した。
「皆の者鎮まれ! ミカドより御言葉を賜る。控えるよう」
観客も東西の遣い手たちも、皆が一斉に平伏した。
ミカドの玉音を拝するなど異例のことだ。もしや、仕合の醜態に対するお咎めなのだろうか。
「いずれのつわものも、実に見事なたたかいぶりであった」
思いのほか優しげで、ゆっくりと歌うかのような声だ。
どうやら先ほどの仕合ぶりについて、お褒めにあずかっているらしい。
「殊に、大隅の隼人、阿多の隼人の武勇、ともに頼もしい限りである」
たったそれだけの玉音を残して、輿が遠のいていく気配がする。平伏していた観客たちも三々五々面を上げ、会場に賑わいが戻ってきた。
「カザトにヒギト、お前たちはこちらに来い」
振り向くと、右大衣のソバカリと左大衣のサシヒレが険しい顔で立っている。
隼人統括の責任者であるこの二人に呼び出されるということは、やはり先ほどの醜態について何らかの咎めがあるのだろう。
無理もない。ミカドの御前で無様な騒ぎを起こしたのだ。
いかにミカドからお褒めの言葉を賜ろうと、許されることではないのかもしれない。しかしなぜ、ヒギトは完璧なまでの決まり手で勝ちをおさめながら、なお止めを刺しにきたのか。
腑に落ちないままカザトは二人の大衣に従った。ヒギトも黙ってついてくる。
二人が連れて行かれたのは、隼人の楯が納められている武器庫だった。
サシヒレが燈明皿に火を点し、薄明かりに楯の鉤模様が浮かび上がる。ソバカリが居並ぶカザトとヒギトに向けてお前たち、と言いながらずいと歩み寄る。
「実に、いい仕合だった」
意外な言葉だった。
てっきり叱責を受けるものと覚悟していたカザトは思わず緊張を緩めてしまう。
「隼人の戦いぶりはああでなくてはいかん。二人とも闘志あふれる見事な技前だった。なあ、サシヒレ殿」
ソバカリに同意を求められたサシヒレは、目を細めて黙って頷いている。
両大衣が先ほどの仕合を認めてくれたのは望外の喜びだ。
「お前たち二人に、伝えておきたい技がある」
そう言ってソバカリは上衣を脱ぎ捨て、大きく両手を広げてみせた。
どうやら彼みずから、稽古をつけてくれるようだ。
またとない貴重な機会に思わず胸が弾むのを覚える。さすがのヒギトも素直に教えを授かる姿勢だ。
「二人がかりでわしを締め付けてみろ。絶対に動けないようにな。首を絞めても構わんぞ」
挑発するように言い放つソバカリに、カザトとヒギトが組み付いた。
二人がかりで背後から肘・肩・首を同時に封じる固め技を選択した。普通なら万が一にも動くことなどできない、鉄壁の締め付けだ。
しかも二対一という過酷な条件下で、はたしてどのような技を発動するというのか。
「本気で力を込めたか。では、一度きりだ。いくぞ」
ふっ、と身体が軽くなり、さっきまでソバカリを締め付けていた手応えがまるで空を掴んだかのように消え去った。
次の瞬間、まるで突風に呑み込まれたかのようにカザトとヒギトは仰向けに地面に叩きつけられており、しっかりとソバカリの関節を締め上げていたはずの腕は逆に捩じられた状態になっている。
激痛に耐えながら、カザトは頭の中で技の分析を試みていた。
ふいにソバカリの感触がなくなったかと思うと、何やら激しい渦に巻き込まれるようにして投げられたのだ。しかも、いつの間にか腕の関節を逆に極め返されてしまっている。
いったい何がどうなっているのか皆目分からない。
ヒギトも信じられないといった風に瞠目している。
ソバカリが力を緩め、二人とも痛みから解放される。この技は……一体何なのだろう。
「〝風〟だ」
ただ一言、ソバカリはそう口にした。いつか隼人の楯を前に語ったのと同じ言葉だ。
「この技は、いかに言葉を尽くしたところで理解できるものではない」
ソバカリの後を受けてサシヒレが口を開いた。
「自らこの技を受けて、身体で覚えるしかないのだ。ただ一つ言えることは、己の内なる〝風〟を呼び起こすこと。二人とも、実に良い稽古相手がいるではないか。互いにとくと修練せよ」
そうか、二人の大衣が今、この技を自分たちに伝授したのは単に先ほどの仕合ぶりを評価してのことだけではないのだ。
今後の技の練磨を通じて互いの絆を深めてほしい、という願いが込められていたのだ。
ソバカリとサシヒレの真意に思い至ったカザトは思わず胸が熱くなる。
大衣たちに深々と頭を下げて武器庫を後にした。
風を呼び起こす―。言わば〝風招(かざお)ぎ〟とでも呼べるあの高度な技は一朝一夕に修得できるものではなかろうが、二人の大衣が自分たちに託そうとした心だけは、しっかりと胸に刻み込まれた。
「今度いっしょに稽古をしないか」
少し先を無言で歩むヒギトに、カザトは明るく声をかけた。
むしろ何故これまでこの言葉を彼にかけようとしなかったのかが不思議なほどだ。
だがヒギトは足を止め、ゆっくりと振り返るとまるで何も聞こえなかったかのように冷たく言い放った。
「大隅に華を持たせたつもりか……」
何を言おうとしているのかは一瞬で理解できた。
ヒギトは先ほどの仕合でカザトが最後にわざと力を緩め、勝ちを譲ったと思っているのだ。それ故に、勝負が決した後も激情に駆られて思わず躍り懸かったにちがいない。
もし、本当に勝負の最中に手心を加えたのだとしたら、戦士にとってこれ以上の侮辱はないだろう。
「言い訳などない。全力で戦って、そして負けた。君の勝ちだ」
虚ろにしか聞こえないだろうことが分かっていながら、カザトはそう言わずにはおられなかった。
ヒギトは本当に強い。集中力が切れなかったところで勝てたとは限らないのだ。
だが、ヒギトは微かに首を振るだけだ。
あまり感情を表に出すことのない彼から、言いようのない淋しさのようなものが伝わってくる。
「……俺たちが例え命を懸けて戦ったところで、ヤマトの連中にとっては見せ物でしかないのだ。そんなこと、分かり切っていたはずなのにな」
そう言って踵を返すと、ヒギトは足早に去っていった。
遠ざかる彼の背中にかける言葉も見つけられず、カザトはただその場に立ち尽くすばかりだった。
以前戦った時とは比べものにならないほどの力をヒギトは身に付けているようだ。だが、この震えが恐怖ゆえではないことも充分に理解している。
強敵と戦うことに対する、言いようのない歓喜が全身を震わせているのだ。
ふらつく足取りで戻ってきたオオヒコに、カザトは無言で拳を差し向けた。
気付いたオオヒコは苦しい顔に微笑を浮かべ、カザトの拳に己の拳を軽く打ち合わせる。
「力は多分……カザトどのより強い。ご武運を」
カザトは黙って頷くと、ゆっくりと仕合場へと歩を進めた。
大隅のヒギトがじっとこちらを見つめている。
敵意も闘志も、何一つ感情の読み取れない冷たい光を宿した眼だ。いつかの月夜の邂逅を思い出す。
東方・西方ともに最後の遣い手が立ち合う大一番に、会場から渦のような声援が送られている。
貴志麻呂も、その姉も、そして大伴旅人やオオヒコ、ほかの仲間たちも声を限りにカザトを応援している。
だが、カザトは一歩踏み出すたびにそれらの音が少しずつ遠のき、やがて何も聞こえなくなっていくのを感じていた。その耳が待ち受けているのはただ一つ、差配役の発する仕合開始の掛け声だけだ。
カザトはヒギトと、正面から向かい合った。
「はじめ!」
カザトは地を蹴って、矢のようにヒギトに突っ込んで行った。
だがやみくもに組み付くのではない。肘を真横に折りたたみ、その先端で相手の顎をかち上げるように攻めていくのだ。
しかし、ヒギトの踏み込みの方が数瞬早い。そのまま胸で肘の攻撃を受け止められ、深く組み合う格好になった。
ヒギトの力は予想をはるかに超える強さだ。
これなら体格差のあるオオヒコに力負けしなかったことも頷ける。それゆえ、長く組み合っては不利だ。消耗したところを投げ飛ばされてしまうだろう。
短期決戦にしか自分の勝機はない―。
そう思ったカザトは、一瞬強く前に向けて圧をかけ、押し返してくる手ごたえを感じた刹那、左向きに反転して上腰に相手を乗せるように投げを打とうとした。
しかし、ヒギトはぐっと腰を落として踏みとどまる。
間髪いれず、今度は右回転で身体を切り返し、同じ形の投げを放った。今度はヒギトの身体が浮き上がるのを感じる。
だが、ヒギトは先ほどの仕合そのままに、投げられながら身を翻し、その勢いを利用して逆に投げを返してくる。
咄嗟に重心を落としてどうにかこらえたカザトだったが、次へと技をつなげることはできなかった。ふたたび深く組み合い、次の展開を目まぐるしく脳裏に浮かべる。
途端に、会場に渦巻く歓声や声援が耳に蘇った。
何も聞こえなくなるほどの集中が途切れてしまったのだ。
苦しい。
短い時間だが、全力で繰り出してきた技のため、呼吸が圧迫されるかのような苦痛を感じる。このままでは組み合うだけの力にさえ耐え切れなくなるだろう。
集中力を欠いたせいだろうか、組み合ったままの視線の先に、ミカドの乗った輿を捉えてしまった。
翳を押しのけるようにして身を乗り出し、食い入るようにこちらを見つめている初老の婦人が眼に入った。今上のミカドだ。
誰もかれもが仕合に夢中で、観客たちの中にもミカドが素顔をさらしているのに気付いている者はいないようだ。まさか、こんな形で龍顔を拝することになろうとは。
そう言えば、かつて朝廷で大隅隼人と阿多隼人がスマイの仕合を披露したのは、「大海人(おおあま)」と呼ばれた今上の祖父帝の御世だったと聞き及んでいる。
そしてその戦いのゆくえは大隅隼人の勝利で幕が下りたのだ。
また、祖父帝の崩御後、その跡を継がれた祖母帝の時代には飛鳥の寺で隼人のスマイを民衆が観戦したという。
そして今、その御孫たるミカドの御前でふたたび大隅と阿多の隼人が戦っているというのは何かの因縁なのだろうか。
大隅の武勇にヤマトの朝廷が一目置いているのは間違いない。もっと有体に言えば恐れていると言ってもいいだろう。
もしこの仕合でヒギトが勝てば、同じようにミカドは大隅隼人の力に対して畏怖の念を抱くのだろうか。
もしそうなれば、ヤマトと大隅の緊張関係にも何らかの変化がもたらされるかもしれない―。
カザトがそんなことを考えたのはほんの一瞬にも満たない間のはずだった。
しかし、その刹那に途切れた力の流れを見逃すヒギトではない。
しまった、と思った次の瞬間、カザトの視界はぐるりと一回転し、受け身をとる間もなく背中から地面に叩きつけられ、後頭部を強打した。
眼の前が真っ白になり、ぐっと息が詰まる。
―完敗だ。
見事なまでに投げ落とされた。
苦しい息の中、まいった、と声をかけようとしたその時、胸に強い衝撃を受けて思わず呻き声を上げた。
何としたことか、勝者のはずのヒギトが馬乗りにのしかかり、さらにカザトの首を絞めにかかっている。
止めを刺す気なのか―。
首の動脈を圧迫されたカザトは逃れようもなく、徐々に意識が遠のいていく。
だが、差配の貴志麻呂やオオヒコ、東西の遣い手たちが駆け寄り、一斉にヒギトを止めにかかった。さしものヒギトも大勢の力には抗いきれず、強引にカザトから引きはがされる。
たくさんの人間の怒号や叫び声が入り乱れているような様子だが、朦朧としたカザトの耳にはどこか夢の中の出来事のように、曖昧な音としか聞こえなかった。
仰向けに転がったまま眼を泳がせると、ぼやけた視線の先にミカドの龍顔が浮かび上がっている。くすり、と微笑むと、そのまま多数の翳の影に覆い隠されてしまった。
その時、会場の騒乱を一喝するかのように衛門府の役人が大音声を発した。
「皆の者鎮まれ! ミカドより御言葉を賜る。控えるよう」
観客も東西の遣い手たちも、皆が一斉に平伏した。
ミカドの玉音を拝するなど異例のことだ。もしや、仕合の醜態に対するお咎めなのだろうか。
「いずれのつわものも、実に見事なたたかいぶりであった」
思いのほか優しげで、ゆっくりと歌うかのような声だ。
どうやら先ほどの仕合ぶりについて、お褒めにあずかっているらしい。
「殊に、大隅の隼人、阿多の隼人の武勇、ともに頼もしい限りである」
たったそれだけの玉音を残して、輿が遠のいていく気配がする。平伏していた観客たちも三々五々面を上げ、会場に賑わいが戻ってきた。
「カザトにヒギト、お前たちはこちらに来い」
振り向くと、右大衣のソバカリと左大衣のサシヒレが険しい顔で立っている。
隼人統括の責任者であるこの二人に呼び出されるということは、やはり先ほどの醜態について何らかの咎めがあるのだろう。
無理もない。ミカドの御前で無様な騒ぎを起こしたのだ。
いかにミカドからお褒めの言葉を賜ろうと、許されることではないのかもしれない。しかしなぜ、ヒギトは完璧なまでの決まり手で勝ちをおさめながら、なお止めを刺しにきたのか。
腑に落ちないままカザトは二人の大衣に従った。ヒギトも黙ってついてくる。
二人が連れて行かれたのは、隼人の楯が納められている武器庫だった。
サシヒレが燈明皿に火を点し、薄明かりに楯の鉤模様が浮かび上がる。ソバカリが居並ぶカザトとヒギトに向けてお前たち、と言いながらずいと歩み寄る。
「実に、いい仕合だった」
意外な言葉だった。
てっきり叱責を受けるものと覚悟していたカザトは思わず緊張を緩めてしまう。
「隼人の戦いぶりはああでなくてはいかん。二人とも闘志あふれる見事な技前だった。なあ、サシヒレ殿」
ソバカリに同意を求められたサシヒレは、目を細めて黙って頷いている。
両大衣が先ほどの仕合を認めてくれたのは望外の喜びだ。
「お前たち二人に、伝えておきたい技がある」
そう言ってソバカリは上衣を脱ぎ捨て、大きく両手を広げてみせた。
どうやら彼みずから、稽古をつけてくれるようだ。
またとない貴重な機会に思わず胸が弾むのを覚える。さすがのヒギトも素直に教えを授かる姿勢だ。
「二人がかりでわしを締め付けてみろ。絶対に動けないようにな。首を絞めても構わんぞ」
挑発するように言い放つソバカリに、カザトとヒギトが組み付いた。
二人がかりで背後から肘・肩・首を同時に封じる固め技を選択した。普通なら万が一にも動くことなどできない、鉄壁の締め付けだ。
しかも二対一という過酷な条件下で、はたしてどのような技を発動するというのか。
「本気で力を込めたか。では、一度きりだ。いくぞ」
ふっ、と身体が軽くなり、さっきまでソバカリを締め付けていた手応えがまるで空を掴んだかのように消え去った。
次の瞬間、まるで突風に呑み込まれたかのようにカザトとヒギトは仰向けに地面に叩きつけられており、しっかりとソバカリの関節を締め上げていたはずの腕は逆に捩じられた状態になっている。
激痛に耐えながら、カザトは頭の中で技の分析を試みていた。
ふいにソバカリの感触がなくなったかと思うと、何やら激しい渦に巻き込まれるようにして投げられたのだ。しかも、いつの間にか腕の関節を逆に極め返されてしまっている。
いったい何がどうなっているのか皆目分からない。
ヒギトも信じられないといった風に瞠目している。
ソバカリが力を緩め、二人とも痛みから解放される。この技は……一体何なのだろう。
「〝風〟だ」
ただ一言、ソバカリはそう口にした。いつか隼人の楯を前に語ったのと同じ言葉だ。
「この技は、いかに言葉を尽くしたところで理解できるものではない」
ソバカリの後を受けてサシヒレが口を開いた。
「自らこの技を受けて、身体で覚えるしかないのだ。ただ一つ言えることは、己の内なる〝風〟を呼び起こすこと。二人とも、実に良い稽古相手がいるではないか。互いにとくと修練せよ」
そうか、二人の大衣が今、この技を自分たちに伝授したのは単に先ほどの仕合ぶりを評価してのことだけではないのだ。
今後の技の練磨を通じて互いの絆を深めてほしい、という願いが込められていたのだ。
ソバカリとサシヒレの真意に思い至ったカザトは思わず胸が熱くなる。
大衣たちに深々と頭を下げて武器庫を後にした。
風を呼び起こす―。言わば〝風招(かざお)ぎ〟とでも呼べるあの高度な技は一朝一夕に修得できるものではなかろうが、二人の大衣が自分たちに託そうとした心だけは、しっかりと胸に刻み込まれた。
「今度いっしょに稽古をしないか」
少し先を無言で歩むヒギトに、カザトは明るく声をかけた。
むしろ何故これまでこの言葉を彼にかけようとしなかったのかが不思議なほどだ。
だがヒギトは足を止め、ゆっくりと振り返るとまるで何も聞こえなかったかのように冷たく言い放った。
「大隅に華を持たせたつもりか……」
何を言おうとしているのかは一瞬で理解できた。
ヒギトは先ほどの仕合でカザトが最後にわざと力を緩め、勝ちを譲ったと思っているのだ。それ故に、勝負が決した後も激情に駆られて思わず躍り懸かったにちがいない。
もし、本当に勝負の最中に手心を加えたのだとしたら、戦士にとってこれ以上の侮辱はないだろう。
「言い訳などない。全力で戦って、そして負けた。君の勝ちだ」
虚ろにしか聞こえないだろうことが分かっていながら、カザトはそう言わずにはおられなかった。
ヒギトは本当に強い。集中力が切れなかったところで勝てたとは限らないのだ。
だが、ヒギトは微かに首を振るだけだ。
あまり感情を表に出すことのない彼から、言いようのない淋しさのようなものが伝わってくる。
「……俺たちが例え命を懸けて戦ったところで、ヤマトの連中にとっては見せ物でしかないのだ。そんなこと、分かり切っていたはずなのにな」
そう言って踵を返すと、ヒギトは足早に去っていった。
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母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
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