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第6章 丹生都姫と八百比丘尼、裏天野の無陣流剣術

八百比丘尼

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真っ直ぐの振り下ろしに加えて納刀の稽古。
どうにか鞘に収めることはできるものの、手元を見ずにするなんてまだまだ夢のまた夢に思える。

納刀の瞬間に木刀の革鍔が右手親指の付け根に何度も当たり、アザになって腫れ上がった。
左手も木刀の峰を滑らせるときに擦れたり肉を挟んでしまったりで、摩擦傷が常にヒリヒリしている。

右の手のひらも全面に豆となる前の水ぶくれができて、無理に開こうとすると鋭い痛みとともに、みりみりと表皮と真皮が剥がれていく。

でも、思えばこんなに一生懸命、集中して身体を動かすのなんて初めての体験だ。
天野の里に来てから日数でいえばいくばくもないのに、連続した時間としてとても長い間こうしているような気がする。

「雑賀せんせい、ちょうどよかったわあ。おべんとしたさかい、一緒にお昼食べろらよ」

雨の中来てくれたのは、清月師範の奥さんだ。
天気が悪くて外での作業ができなくても、農家さんには様々なお仕事がある。
それを縫って、奥さんはなんやかやと食べ物や甘いものなどを持って様子を見に来てくれているのだ。

わたしはご厚意に甘えて、ありがたくいただくことにしていた。
地場の天野米でつくられたおむすびや、保温マグに入れてくれた熱いおつゆなど、沁み入るようにおいしい。

道着袴の着付けも改めて見てくれながら、奥さんは天野の色々な伝説や昔ばなしを教えてくれた。

丹生都比売の""は水銀、辰砂のことともされるが神格は"水神"とも考えられ、いまだに議論が絶えないこと。

かつて西行法師の妻と娘がここに暮らした証という墓や、平家に仕えた斎藤時頼との悲恋が伝えられる"横笛の恋塚"などのこと。

実に800年もの昔の記憶が風化せずに伝えられていることに、歴史に関わる者としていいようのない感動をおぼえた。

なかでも面白かったのは、"八百比丘尼やおびくに"の伝承だ。

かつて人魚の肉を口にしたことで不老長寿となった八百比丘尼は、800年とも1000年ともいわれる長い人生を過ごした。
全国を旅した彼女はこの天野の地を訪れたことがあり、神鏡を奉納したという。
また、丹生都比売神社の池に映るいつまでも変わらぬ己の姿を嘆き、懐中の鏡を水面に投げつけたともいう。

それがため、太鼓橋の架かるこの池を"鏡池"というのだと――。

奥さんの話を聞きながら、わたしは橋の上で出会った不思議な女性、ちとせさんのことを思い出していた。

まさかとは思ったけれど、インカメラに写るその顔は、とてもとても悲しそうに見えていたから。

それはまるで、悠久の時を生きてきた八百比丘尼の、誰とも分かち合うことのできない悲しみと重なるかのように感じられた。


その日、清苑さんは白い道着に身を包み、真剣の小太刀を携えて現れた。

「一度しかしませんさかい。よう、"見取って"ください」

先の尖った棒を備えた台を置き、そこに畳表を巻いた"巻藁"を刺す。

一礼して小太刀を腰に差した清苑さんはその前に立ち、すうっと両手を下げた。

数瞬ののち、静かに柄へと手掛けした清苑さんはそのまま一歩踏み込み、ゆっくりと抜刀しながら横薙に小太刀を一閃した。

はさっ、と音がしたかと思うと、立てられた巻藁が切断面から向こう奥へとずり落ちていった。

清苑さんはその場で小太刀を返して上段にとり、間髪入れず空に向かって水分みくまりに斬り下ろす。
そしてぴゅっと小太刀を横に払い、納刀。

一分の無駄もない、なんという美しい動きなのだろう。

礼をして脱刀した清苑さんに促され、巻藁の斬り口をあらためる。
横一文字と思い込んでいたのは見間違いで、実際には手前から奥に向けて傾斜した太刀筋で斬られている。
それで、巻藁は向こう側へと滑り落ちていったのだ。

「これは相手が抜刀しようとした瞬間、こうして斬り留める技や」

清苑さんは手刀でさっきの太刀筋をゆっくりと再現する。
なるほど、刀を抜こうとする前腕を上からやや下向きの横斬りで留めている。

「これは無陣流の"居合"です。初太刀で防御か先制、必要なら二の太刀の水分みくまりで勝負。あとは血振るいして、納刀」

そうか。
これで一連の技、ひとつの"かた"になっているのだ。
ぞくっと鳥肌が立つような、静かな感動を覚える。

「居合の定義は様々やけど、平たくいうと抜刀術です。"居"ながらにして急に"合"する、急襲されたとき即座に"居合わせる"技です」

清苑さんはそう言って、わたしに真剣の小太刀を持たせた。

「危ないものやさかい、ほんまは持たすつもりはありませんでした。せやけど、これから何を振るうにしても、"刀の代わり"をさせるためには本物の刀を知らなあかん。もし使わはるなら、ゆっくりと稽古してください」

清苑さんの言葉に頷き、わたしは躊躇なく小太刀を腰に差した。
木刀とは比べ物にならない、ずっしりとした重み。
これからしようとしていることへの覚悟を、最後に問われているかのようだ。

清苑さんの前で、わたしは小太刀の柄に手を掛け、ゆっくりと抜刀していった。


その夜のユラさんたちの稽古は、いつもと違っていた。

ユラさんの前で木刀を構えているのは、清苑さんではなく清月師範。
それにこれまではユラさんが打ち込んでもう一方がそれを受ける形だったけど、清月師範は受けた瞬間に同じ太刀筋で反撃し、それをユラさんがまた受けるという構成になっている。

"互懸たがいがけ"という、無陣流の上位稽古法らしい。

水剋火の太刀に始まり、火剋金から土剋水まで五行相剋の太刀を互懸けで通す。

圧倒的な気迫、速さ、そして強さを示したのは、老齢のはずの清月師範だった。

――恐い――。

唸りを上げる木刀の軌跡は激しくも冷徹で、"あやかし狩り"の剣技を伝える人の、生涯をかけた鍛錬の凄まじさを物語っている。

形を終えると、ユラさんは肩が上下するほどに息が上がっていた。
が、清月師範は額に汗を浮かべてはいるものの、即座に呼吸を整えている。

「由良。では、頼む」

清月師範が声をかける。
何が始まるのかと固唾を飲むわたしの前でユラさんは頷いて目を閉じ、胸の前で静かに印を組んだ。

ユラさんが再び目を開いたとき、そこにはあの人が顕現していた。

「お久しゅうございます。――六代様」

清月師範が片膝をついて礼をし、離れていた清苑さんもそれにならう。

〈――清月……?ずいぶんと……老けたものよ〉

歴代最強のあやかし狩りと称された六代目の由良様は、道場の隅々を眺めて、ほんの少しだけ目を細めた。
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