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フナダマ
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船内の小さな神棚に塩と洗米を供え、ゴロージは恭しく拍手を打った。
出港前に船のすべてを検め、最後に神棚に礼拝するのは、ゴロージが船頭になってから欠かさない習慣だった。
かつて、船を新造するとその帆柱の根元に古銭や近しい女の髪などを納め、船の魂の拠り所としたという。
「フナダマ」と呼ばれるそれは、船と船乗りたちを守る霊力をもつと信じられ、時代が変わったいまもゴロージは頑なにその伝統を守っていた。
こうして礼拝を終えると、ゴロージは出港前のほんの一時だけ、必ずヨシノのことを思い出した。
ヨシノはゴロージがまだ駆け出しの船頭だったころに通い詰めた、遊郭の女だった。
その時のゴロージよりは少し年嵩だったが、色白で愛嬌があり、それでいて氷細工のようにたおやかな女だった。
小さな船を一人きりで操って、時には無茶な荷運びもこなしていたゴロージは、懸命に金を貯めていた。金を貯めて、もっと大きな船を誂え、大所帯の船頭になるつもりだった。
そして身体の弱いヨシノに苦界での勤めから足を洗わせ、女房として迎えるのが夢だった。
今度の船出から帰ってきたら、俺は大きな船を買って船頭になるんだ。
そうしたらおめえ、俺と一緒にこの郭から出港しようじゃねえか。
そう言ったゴロージに、ヨシノは満面の笑みを浮かべ「宜(よ)う候(そろ)」と、船乗り言葉を返し、彼の胸に顔を埋めた。
船出の朝、ゴロージはヨシノから小さな包みを渡された。今回の船出が何か特別なものであることを察して、祝いの品を用意していたのだという。
ゴロージは心底、この女が愛おしいと思った。
船を出す前から、こんなに帰港が楽しみだったことは初めてだった。
焦りが無かったとは言えない。だが、自然の猛威の前にゴロージは無力だった。彼の船は抗いようのない力でもみくちゃにされ、前後左右の感覚も失ってただただ流されるだけになった。
とっくに灯かりを点すこともできなくなり、真っ暗ななか星々の放つ恐ろしいほどの燐光の群れが、ゴロージを責め苛んだ。
船には多くの非常食は積んでいなかった。僅かな水をすすりながら飢餓に耐えていたゴロージは、ふとヨシノから渡された包みのことを思い出した。
緩慢な動作で包みを解いていくと、そこには小さな小さな角樽と、杓文字に塗りつけた焼き味噌が入っていた。
祝いの酒肴だ。
ゴロージは微かに微笑むと、小さくヨシノの名を呼んだ。
杓文字を持ってはじの方から少し齧りとると、焦げた味噌の香ばしさが脳天に突き抜けた。
噛みしめると蕎麦の実の食感が、ついで柚子の香りが口いっぱいに広がった。ゴロージはゆっくりと咀嚼しながら、角樽の酒を少しずつ、少しずつ、胃の腑に流し込んでいった。それは生死の境にあってなお、不思議なほど甘美な一献だった。
他の船がすぐ近くを通りかかったのは、僥倖というよりほかなかった。九死に一生を得たゴロージは、港に戻ったその足でヨシノのいる郭へと急いだ。
焼き味噌と酒が、命の瀬戸際を救ってくれた。ヨシノに助けられたも同然だ。早く会って、落籍の金子を楼主に叩きつけ、そのままヨシノを郭から連れ出すのだ。
だが、ゴロージが通い詰めたヨシノの部屋はもぬけの殻となっていた。
線香の煙がうっすらと漂う寒々しい部屋には、白木の位牌がぽつんと置かれているだけだった。
ヨシノの身体が弱いのは承知だったが、助からない病にかかっていたことをゴロージは見抜けなかった。まさに彼が難破していた時、誰にも気付かれず眠るように息を引き取ったのだという。
ヨシノの骨を納めた寺に参りに行くと、和尚から包みを渡された。中にはヨシノの髪が入っていた。余命について感じることがあったのだろうか、自ら切り取った髪を、ゴロージに届けてほしいというのがたった一つの遺言だった。
ゴロージは大きな船を誂え、船頭になった。
新しい船にヨシノの遺髪を納めて、それをフナダマにした。
船出のたびにゴロージはヨシノを思った。そして無事にひと仕事が終わると、必ず船の上で焼き味噌を肴に、ひとり酒を飲むのだった。
神棚への礼拝が済んだゴロージは、ゆっくりと舵座へと向かった。
そこには腕ききの船乗りたちが、万全の準備を整えて出港の下知を待ち構えているのだ。
「船頭、船出の用意が済んでおりやす」
いつも通り、最古参のモヘエが進言する。
ゴロージはしっかりと頷き、居並ぶ船員たちを見回した。
ゼンサク、イチゾウ、タロベエ、皆それぞれの持ち場につき、眼前のコンソールに浮かぶ数値のチェックに余念がない。
「これよりササン星系、ベータ2番港へ向けて出航する。機関始動」
おごそかなゴロージの宣言に、機関始動、の声が繰り返される。
続けてゴロージが指示を出していく。
「イカリ揚げ」
「イカリ揚げーい! イナーシャル・アンカー抜錨!」
「帆を揚げえ」
「帆ぉ―を揚げーい! ワープ・セイル展帆!」
出港直前の胸の高まりが、ゴロージの身体を熱くする。大昔、まだ宇宙ではなく、本物の海を渡った船乗りたちもきっとそうだったのだろう。
「機関、前進微速。安全に航海するぞ」
「宜(よ)う候(そろ)」
船乗りたちの威勢のいい返事とともに、ゴロージの船は光となって星の海へと漕ぎ出した。
出港前に船のすべてを検め、最後に神棚に礼拝するのは、ゴロージが船頭になってから欠かさない習慣だった。
かつて、船を新造するとその帆柱の根元に古銭や近しい女の髪などを納め、船の魂の拠り所としたという。
「フナダマ」と呼ばれるそれは、船と船乗りたちを守る霊力をもつと信じられ、時代が変わったいまもゴロージは頑なにその伝統を守っていた。
こうして礼拝を終えると、ゴロージは出港前のほんの一時だけ、必ずヨシノのことを思い出した。
ヨシノはゴロージがまだ駆け出しの船頭だったころに通い詰めた、遊郭の女だった。
その時のゴロージよりは少し年嵩だったが、色白で愛嬌があり、それでいて氷細工のようにたおやかな女だった。
小さな船を一人きりで操って、時には無茶な荷運びもこなしていたゴロージは、懸命に金を貯めていた。金を貯めて、もっと大きな船を誂え、大所帯の船頭になるつもりだった。
そして身体の弱いヨシノに苦界での勤めから足を洗わせ、女房として迎えるのが夢だった。
今度の船出から帰ってきたら、俺は大きな船を買って船頭になるんだ。
そうしたらおめえ、俺と一緒にこの郭から出港しようじゃねえか。
そう言ったゴロージに、ヨシノは満面の笑みを浮かべ「宜(よ)う候(そろ)」と、船乗り言葉を返し、彼の胸に顔を埋めた。
船出の朝、ゴロージはヨシノから小さな包みを渡された。今回の船出が何か特別なものであることを察して、祝いの品を用意していたのだという。
ゴロージは心底、この女が愛おしいと思った。
船を出す前から、こんなに帰港が楽しみだったことは初めてだった。
焦りが無かったとは言えない。だが、自然の猛威の前にゴロージは無力だった。彼の船は抗いようのない力でもみくちゃにされ、前後左右の感覚も失ってただただ流されるだけになった。
とっくに灯かりを点すこともできなくなり、真っ暗ななか星々の放つ恐ろしいほどの燐光の群れが、ゴロージを責め苛んだ。
船には多くの非常食は積んでいなかった。僅かな水をすすりながら飢餓に耐えていたゴロージは、ふとヨシノから渡された包みのことを思い出した。
緩慢な動作で包みを解いていくと、そこには小さな小さな角樽と、杓文字に塗りつけた焼き味噌が入っていた。
祝いの酒肴だ。
ゴロージは微かに微笑むと、小さくヨシノの名を呼んだ。
杓文字を持ってはじの方から少し齧りとると、焦げた味噌の香ばしさが脳天に突き抜けた。
噛みしめると蕎麦の実の食感が、ついで柚子の香りが口いっぱいに広がった。ゴロージはゆっくりと咀嚼しながら、角樽の酒を少しずつ、少しずつ、胃の腑に流し込んでいった。それは生死の境にあってなお、不思議なほど甘美な一献だった。
他の船がすぐ近くを通りかかったのは、僥倖というよりほかなかった。九死に一生を得たゴロージは、港に戻ったその足でヨシノのいる郭へと急いだ。
焼き味噌と酒が、命の瀬戸際を救ってくれた。ヨシノに助けられたも同然だ。早く会って、落籍の金子を楼主に叩きつけ、そのままヨシノを郭から連れ出すのだ。
だが、ゴロージが通い詰めたヨシノの部屋はもぬけの殻となっていた。
線香の煙がうっすらと漂う寒々しい部屋には、白木の位牌がぽつんと置かれているだけだった。
ヨシノの身体が弱いのは承知だったが、助からない病にかかっていたことをゴロージは見抜けなかった。まさに彼が難破していた時、誰にも気付かれず眠るように息を引き取ったのだという。
ヨシノの骨を納めた寺に参りに行くと、和尚から包みを渡された。中にはヨシノの髪が入っていた。余命について感じることがあったのだろうか、自ら切り取った髪を、ゴロージに届けてほしいというのがたった一つの遺言だった。
ゴロージは大きな船を誂え、船頭になった。
新しい船にヨシノの遺髪を納めて、それをフナダマにした。
船出のたびにゴロージはヨシノを思った。そして無事にひと仕事が終わると、必ず船の上で焼き味噌を肴に、ひとり酒を飲むのだった。
神棚への礼拝が済んだゴロージは、ゆっくりと舵座へと向かった。
そこには腕ききの船乗りたちが、万全の準備を整えて出港の下知を待ち構えているのだ。
「船頭、船出の用意が済んでおりやす」
いつも通り、最古参のモヘエが進言する。
ゴロージはしっかりと頷き、居並ぶ船員たちを見回した。
ゼンサク、イチゾウ、タロベエ、皆それぞれの持ち場につき、眼前のコンソールに浮かぶ数値のチェックに余念がない。
「これよりササン星系、ベータ2番港へ向けて出航する。機関始動」
おごそかなゴロージの宣言に、機関始動、の声が繰り返される。
続けてゴロージが指示を出していく。
「イカリ揚げ」
「イカリ揚げーい! イナーシャル・アンカー抜錨!」
「帆を揚げえ」
「帆ぉ―を揚げーい! ワープ・セイル展帆!」
出港直前の胸の高まりが、ゴロージの身体を熱くする。大昔、まだ宇宙ではなく、本物の海を渡った船乗りたちもきっとそうだったのだろう。
「機関、前進微速。安全に航海するぞ」
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船乗りたちの威勢のいい返事とともに、ゴロージの船は光となって星の海へと漕ぎ出した。
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