86 / 104
第十三章 攻防、鉄道郵便零号車
海上鉄道
しおりを挟む
「おぉぉぉぉ! 海! 海! ほんとに海の上走ってるぜ! すっっげえぇぇぇぇっ!!」
車輛から身を乗り出して、子どものように大興奮している草介。
蒸気機関が唸りを上げ、体験したことのない速度で海上のレールを疾駆してゆく。
吹き流れてくる黒煙もなんのその、空いた窓から黎明の海に向けて草介は再び叫んだ。
しっとりした空気に垂れこめた雲。海面がそうと分かるのは漁火のおかげだ。
「よかったなあ、草介。落ちるなよ」
傍らでそう声を掛ける隼人は、打って変わって居心地悪そうに腰掛けている。
「はーさんも見てみろよ! まだ薄暗ぇけどよう! 海の上走ってんだぜ!」
「うん、うん、心得てはおる」
初めての機関車にはしゃぐ草介に対して、どうやら隼人はこの乗り物が好きではないらしい。
日本初の鉄道路線。
それは新橋と横浜の間、1872(明治5)年の旧暦9月に開通したものだ。
隼人と草介が乗り込んだのはまさにその路線で、草介が「海の上」と興奮しているのは特設レールのことを指している。
この路線では芝浦の辺りから品川停車場までの約2.7㎞を、陸地ではなく海上に建設された築堤上を走る。
高輪築堤だ。
二人が乗る機関車は横浜を発し、今まさに高輪築堤を品川から新橋へ向かって通過していくところだった。
が、明治も早や13年の夏を迎えたものの、隼人はいまだこの乗り物に抵抗感がある。
「はえぇなあ! はえぇなあ!なあ、はーさんもよっく見やがれよお!」
「あまり騒ぐものではない。務めを忘れてはならぬぞ」
隼人と草介が汽車に乗り込んでいるのは物見遊山ではない。御留郵便の任務の一つだった。
この時代、既に郵便物を鉄道で運搬するという試みはなされていたが、作業用の専用車両を設けてその中で仕分けなどを行う「鉄道郵便局」は1892(明治25)年に開始される。
二人が乗っているこの便はその実験車輛であり、いわば鉄道郵便の零号車とも呼べるものだった。
そしてその荷には、重要な御留郵便も含まれている。
故に隼人や草介のような剣客逓信が、その護衛任務に就いたというわけだ。
新橋~横浜間の所要時間は53分、うち高輪築堤を走る新橋から品川までは8分の旅で、創業当時は一日9往復が運行されていた。
当初は単線だったものが1876(明治9)年には新橋~品川間で複線となり、一日13往復に増便されている。
運賃は新橋~横浜間で上等・1円12銭5厘、中等・75銭、下等・37銭5厘。
米10㎏が明治元年時点で55銭だったことを考えると、安い金額ではない。
はしゃぐ若者を前に、隼人はしばし物思いに耽った。
御留郵便の特別便として、暁闇に横浜から乗り込んだこの鉄道。
重要な品物を運ぶに際しての護衛任務といえば聞こえはいいが、鉄道郵便の本格的な導入は剣客逓信の終焉を意味してもいるのだ。
そもそも維新から十年以上が過ぎた今、届けるべき幕末からの預かり荷は既に多くはない。
郵便脚夫という職と任務はまだまだ不可欠であろうが、それに練達の剣士を充てる必要性は薄らいできたといえるだろう。
陸奥宗光の後任としてM卿になった三浦休太郎は、こうした剣客逓信の不要論者だった。
大阪で会津藩兵の遺児・瑠璃駒を巡る騒動を起こしたことで、隼人は三浦卿から激しく譴責されていた。
草介のことは庇えたものの、隼人は「時代遅れ」「郵政のお荷物」「旧幕の負債」等々ありとあらゆる罵倒を受けたのだった。
今後鉄道網が全国に敷設され、多くの手紙や品物が圧倒的な速さで安全に届けられるようになれば郵便の価値が変わる。
そして間違いなく、剣客逓信も歴史の影に姿を消していく運命だろう。
隼人らが鉄道郵便実験車輛の護衛を命じられたのは、そうした現実への見せしめのようでもある。
が、それでいいのだと隼人は思う。
やがてこの務めが終わりを迎える日はくるだろう。
剣士は不要でも、草介のような頑健な心身をもった若者たちが一層求められる世になるはずだ。
だが、隼人の胸中は最後の心残りで占められていた。
「北」で何か事が起こると予言して消えた東堂靫衛、そして任那征士郎少佐ら海軍特務の動向だ。
彼らが何をしようとしているのかは分からない。
それでも隼人は、任務の仕上げに為すべきことがまだあることを確信していた。
機関車は汽笛を鳴らし、減速を始めた。間もなく新橋駅だ。
既に夜は明け始めているものの、いつの間にか立ち込めた濃い霧のため辺りは白い闇に閉ざされたかのようだった。
車輛から身を乗り出して、子どものように大興奮している草介。
蒸気機関が唸りを上げ、体験したことのない速度で海上のレールを疾駆してゆく。
吹き流れてくる黒煙もなんのその、空いた窓から黎明の海に向けて草介は再び叫んだ。
しっとりした空気に垂れこめた雲。海面がそうと分かるのは漁火のおかげだ。
「よかったなあ、草介。落ちるなよ」
傍らでそう声を掛ける隼人は、打って変わって居心地悪そうに腰掛けている。
「はーさんも見てみろよ! まだ薄暗ぇけどよう! 海の上走ってんだぜ!」
「うん、うん、心得てはおる」
初めての機関車にはしゃぐ草介に対して、どうやら隼人はこの乗り物が好きではないらしい。
日本初の鉄道路線。
それは新橋と横浜の間、1872(明治5)年の旧暦9月に開通したものだ。
隼人と草介が乗り込んだのはまさにその路線で、草介が「海の上」と興奮しているのは特設レールのことを指している。
この路線では芝浦の辺りから品川停車場までの約2.7㎞を、陸地ではなく海上に建設された築堤上を走る。
高輪築堤だ。
二人が乗る機関車は横浜を発し、今まさに高輪築堤を品川から新橋へ向かって通過していくところだった。
が、明治も早や13年の夏を迎えたものの、隼人はいまだこの乗り物に抵抗感がある。
「はえぇなあ! はえぇなあ!なあ、はーさんもよっく見やがれよお!」
「あまり騒ぐものではない。務めを忘れてはならぬぞ」
隼人と草介が汽車に乗り込んでいるのは物見遊山ではない。御留郵便の任務の一つだった。
この時代、既に郵便物を鉄道で運搬するという試みはなされていたが、作業用の専用車両を設けてその中で仕分けなどを行う「鉄道郵便局」は1892(明治25)年に開始される。
二人が乗っているこの便はその実験車輛であり、いわば鉄道郵便の零号車とも呼べるものだった。
そしてその荷には、重要な御留郵便も含まれている。
故に隼人や草介のような剣客逓信が、その護衛任務に就いたというわけだ。
新橋~横浜間の所要時間は53分、うち高輪築堤を走る新橋から品川までは8分の旅で、創業当時は一日9往復が運行されていた。
当初は単線だったものが1876(明治9)年には新橋~品川間で複線となり、一日13往復に増便されている。
運賃は新橋~横浜間で上等・1円12銭5厘、中等・75銭、下等・37銭5厘。
米10㎏が明治元年時点で55銭だったことを考えると、安い金額ではない。
はしゃぐ若者を前に、隼人はしばし物思いに耽った。
御留郵便の特別便として、暁闇に横浜から乗り込んだこの鉄道。
重要な品物を運ぶに際しての護衛任務といえば聞こえはいいが、鉄道郵便の本格的な導入は剣客逓信の終焉を意味してもいるのだ。
そもそも維新から十年以上が過ぎた今、届けるべき幕末からの預かり荷は既に多くはない。
郵便脚夫という職と任務はまだまだ不可欠であろうが、それに練達の剣士を充てる必要性は薄らいできたといえるだろう。
陸奥宗光の後任としてM卿になった三浦休太郎は、こうした剣客逓信の不要論者だった。
大阪で会津藩兵の遺児・瑠璃駒を巡る騒動を起こしたことで、隼人は三浦卿から激しく譴責されていた。
草介のことは庇えたものの、隼人は「時代遅れ」「郵政のお荷物」「旧幕の負債」等々ありとあらゆる罵倒を受けたのだった。
今後鉄道網が全国に敷設され、多くの手紙や品物が圧倒的な速さで安全に届けられるようになれば郵便の価値が変わる。
そして間違いなく、剣客逓信も歴史の影に姿を消していく運命だろう。
隼人らが鉄道郵便実験車輛の護衛を命じられたのは、そうした現実への見せしめのようでもある。
が、それでいいのだと隼人は思う。
やがてこの務めが終わりを迎える日はくるだろう。
剣士は不要でも、草介のような頑健な心身をもった若者たちが一層求められる世になるはずだ。
だが、隼人の胸中は最後の心残りで占められていた。
「北」で何か事が起こると予言して消えた東堂靫衛、そして任那征士郎少佐ら海軍特務の動向だ。
彼らが何をしようとしているのかは分からない。
それでも隼人は、任務の仕上げに為すべきことがまだあることを確信していた。
機関車は汽笛を鳴らし、減速を始めた。間もなく新橋駅だ。
既に夜は明け始めているものの、いつの間にか立ち込めた濃い霧のため辺りは白い闇に閉ざされたかのようだった。
1
あなたにおすすめの小説
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる