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第七章 兄
8 激怒
しおりを挟む『……お前に何がわかる。お前らに──』
背後から地を這うような声がした。
もちろん、彼の兄のものだ。歯列の間から押し出されるようなその声は、先ほど少し下がったはずの殺気のレベルが、再び上昇し始めたことを告げている。
じわじわと怒りのボルテージが上がっていくのが、ヴォルフにですら手に取るようにわかった。
『肝心な記憶のブッ飛んでいるお前に、一体なにが分かるんだ。それで偉そうに俺に説教をたれるつもりか? ふざけるなッ……!』
『アジュール……?』
フランは呆気にとられているようだった。相変わらず血みどろの手でしっかりと卵をだきしめながらも、まっすぐに兄を見ている。
『ねえ。じゃあ、やっぱりそれなんだね? それ、あの時のことでしょう。僕の記憶が飛んじゃってる部分のこと。その時、一体なにがあったの? 今まで、どんなに訊いても答えてくれなかったよね……?』
『やかましい!』
言うなり、再び男の腕の刃が飛んできた。それは凄まじい速さでビュッと弧をえがき、フランとヴォルフの脇を掠めてそばの岩にぶち当たった。
激しい音とともに、その岩もまた破砕される。ヴォルフは反射的に卵ごとフランを抱きしめ、飛んでくる岩くずから彼を庇った。がつがつと背中や後頭部に衝撃が走る。
『貴様ッ! いい加減、フランから離れろ!』
男の怒号。
「お断りだ」ヴォルフは遂に、相手の目を見据えて言い放った。「あんたこそいい加減にしな。それでも兄貴のつもりかよ」
言葉が通じないことは百も承知だ。そしてフランが決して自分の言葉を通訳しないだろうことも。たとえそうでも、こいつには言っておかねばならないことがある。山ほどある。そう思った。
「ヴォルフ! だめ……!」
フランが胸元から必死に顔を上げて叫ぶ。傷ついたその指で、ヴォルフのシャツの胸元にすがるようにしている。
「刺激しないで。お願いだよっ……」
「黙ってな。いいから言わせろ」ヴォルフは彼の後頭部をかるく叩いた。「んで、頼むから通訳してくれって。な? お互い、このまんまじゃイライラしていけねえや」
「…………」
「どうせ死ぬなら、ちゃんと言いてえこと言って死にてえ。……な? フラン」
それでとうとう、フランは渋々うなずいた。
キィン、と何か高周波の音が耳の奥に聞こえた感覚がある。
即座にアジュールがニヤッと口の端を引き上げた。
「やっと役割を果たす気になったか」
往生際の悪い奴だ、と少し肩をすくめている。
「ってことで、改めて言うがな、お兄ちゃんよ」
ヴォルフは相手をじろっとにらんだ。
ごく低い声で、言い含めるように言う。
「いったい、どう思ってんだ。このままこんなこと続けてて、フランは幸せになんのかよ。あんた自身はどうなんだ。赤ん坊も俺も殺して、これですっかり元通り。本当に、それでいいと思ってんのか」
アジュールは気味の悪い光をぎらぎらと双眸にたぎらせてヴォルフを睨み返した。
「フランの結論は分かってる。でなきゃ、俺らをこの星に呼び寄せたりしないはずだからな。フランは子供が欲しかったんだ。まあ、相手は別に俺でなくてもよかったんだろうが」
「そんなっ……」
途端、泣きそうな声で抗議されたが、ヴォルフは無視した。
「別に、なんも損はねえじゃねえか。俺さえいなきゃ、あんたはフランとこの子供とで新しい世界を創れる。このまま子供を増やしていきゃあ、この星だっていずれは人でいっぱいの場所に生まれ変われるはずなんだ。……なんで、そうなっちゃ困るんだ?」
「やめて。やめて……」
フランが必死に首をふり、ヴォルフの胸に顔を寄せてくる。
ヴォルフがしゃべっているうちに、彼は卵を後ろのくぼみに隠し、再び翼を出現させて自分の背後を守るようにしていた。
「あんたがフランを大事にするってえんなら、俺はそれでいい。こいつと子供たちをしっかり守って、大事にしてやれ。できるだけ、笑顔を守ってやれよ。それ以上のことなんざ望まねえわ」
アジュールは相変わらず、今にもヴォルフを屠りたそうな目でこちらを見据えているだけだ。
「いいこと、教えてやらあ。人間の、古いふるーい宗教の経典にな。こういうのがある」
──『夫は妻を、自分の体のように愛せよ』。
それはヴォルフたち人類の母星、地球と呼ばれた星にあった古い宗教の経典だ。宗教そのものとしては今では廃れてしまった教えだけれども、それでもその価値と内容の一部は今に至るまで伝承されてきている。おもに歴史学者たちの専門分野ではあるけれども。
もしも、つがいである相手を自分の体のように愛するのであれば。
人は通常、自分の体をわざわざ痛めつけたり、不必要に行動を制限したり、精神を疲弊させたりはしないものだ。
体を切り刻むことも、故意に食事をさせないことも。
さらに、体のつながりを強要することも。
「こんな短え言葉だけどよ。大事なことがちゃあんと含まれてんだろ? 昔の人ってなあ、結構大したもんだったのよ。別に愚かでもなけりゃあ、知能が未発達なわけでもねえ。……ま、それを今の人間のほうでちゃんと守れてりゃあ、色々と世話あなかったわけなんだがよ」
ヴォルフの声にやるせない自嘲が混ざった。
まったく、自分で言っておきながら情けない話だ。そもそもそれが守れる人類であったなら、こうしてアジュールから目の敵になどされていないのだから。
が、男はさらに冷笑しただけだった。
「大したもんだ。ゴリラごときがこの俺に説教をたれるとはな」
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