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第三章 アジュール
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しおりを挟むその瞬間、全身の毛が逆立った。
《助けて……! アジュール》
その「緊急シグナル」を受け取ったのは、アジュールがドーム内でいつものように作業の日課をこなしていたときだった。
弟の思念は、絶望の断末魔に他ならなかった。
アジュールは即座に仕事のすべてを放り出し、すぐさまドーム内の宇宙艇ドックへと走った。
ロールパンの形をした飛行艇とは違い、宇宙艇には小型の「胎」が内臓されている。万が一弟の身に最悪のことが起こっていても、これがあればなんとかなる可能性が高かった。
だが、遅かった。
アジュールがそこに到達した時、ほとんどのことは終了していた。
地下の「楽園」、その森の片隅で、弟はとっくに食い散らかされ、ただの肉片になり果てていた。
宇宙艇から翼を開いてそこへ飛び、舞い降りながらすべてのことを見て取って、アジュールは憤激した。
その場の空気に満ちみちているのは、薄汚い人間どもの体液と、フランの豊潤な甘い体液と、そして血のにおいだった。
奴らはフランを犯したのだ。それも、何人もでよってたかって。
自分たちの体液は、人間にはひどく甘く感じるものらしい。そればかりでなく、相手の理性を狂わせる作用もある。初体験であろうそれを急に大量に浴びてしまって、彼らは酩酊状態に陥ったのだ。
狂乱状態になった彼らは、ついに文字通り弟を食った。食い散らかした。
男のうちの何人かは、少し離れた場所に気を失って倒れていた。その他の奴らはまだ元気で、フランの体の欠片を手に持って、ぐじゅぐじゅとそれにかぶりついていた。その顔も体も、すっかり朱に染まっている。
「きっ……さま、らあアアアアアアッ!」
アジュールの脳は真っ赤に染まった。どす黒い紅蓮の炎が丹田の奥から湧きおこる。体全体が発火するのではないかと思った。
そこから何をやったのか。アジュール自身、具体的なことは覚えていない。
ともかく弟の体から奴らを離れさせるべく薙ぎ払い、その体を寸刻みにした。
誰一人、生き残らせなどしなかった。気絶している奴のことも無差別に、ともかく全員を抹殺した。
人間どもの臭い血や脂肪がべったりとまとわりついた両腕を、アジュールは全身から放った熱気で一瞬で蒸発させ、振り払った。
怒りのあまり、身体全体が発火したようになっている。周囲の土が足もとからぶすぶすと焦げはじめ、森の一部がくすぶり始めていた。
アジュールはもとは弟だったものの傍にのろのろと近づいた。そうして人型に戻した両手で、丁寧にそれを拾い集めた。
一刻も早く、彼をあの「胎」に戻してやらねばならない。
もう間に合わない確率は高かったが、そうしないわけにはいかなかった。皹が入りそうなほどにぎりぎりと奥歯を噛みしめ、沈黙して作業を続けた。
フランのごく小さな肉片すら残すことなく「胎」へ浸し終わり、すぐさまドームに取って返すと、アジュールはまたすぐにドームの巨大な「胎」へとそれを移した。
《フラン様の再生を始めます》
いつも通りの無機的な声でAIがコールする。
その途端、アジュールは頭を抱えて「胎」の脇にずるずるとしゃがみこんだ。
全身をひどい倦怠感が襲っていた。
しばらくは、立ち上がることもできなかった。
(助かってくれ)
たったひとりの、大事な兄弟。
唯一無二の、俺の弟。
(なんでもいい。戻ってきてくれ──)
何に縋ればいいかもわからず、ただ祈った。
「宗教」というものを、「愚かな旧人類の遺物」という知識としてしか知らない彼にとっては、「神」など意味のない代物だった。
だが、その時ばかりは誰でもいいからとにかく祈った。
頼む。
頼む。
そのためだったら、なんだってする。
だから。
どうか、俺からこいつを奪わないでくれ──。
◆
それから弟とどうにか意思の疎通をはかれるようになるまで、百日以上を要した。
最初のうち、薄緑に光る「羊水」のなかでばらばらに浮かんでいるだけだった肉片は、やがて少しずつ合わさって体積を増していった。それらが脳にあたる組織らしいものに綺麗に再構築されていくのを、アジュールはずっと呆然と見守っていた。
その脳のなかで知的な生命体としての思考が始まっていることは、AIからの報告によって理解していた。だが、話ができない状態には変わりない。もはや物理的に思えるほどの痛みが胸をかきむしり、アジュールからあっさりと欲という欲を奪った。
食べたくない。
眠りたくない。
働く気になんて、もちろんならなかった。
だが、そうやって日がな一日「胎」の前で弟の体の一部を見つめてぼんやりと過ごすだけのアジュールに、AIは口うるさくあれこれ言った。
《アジュール様。お食事をお摂りください》
《それではお体を壊します》
《フラン様がお目覚めになったとき、さぞや心配されるでしょう》
《ドーム内と森での仕事にも支障が出てきております。いつもの日課をそろそろこなして下さいませんと》──。
皮肉なことに、それはまるで人間の母親か何かみたいな口ぶりだった。
アジュールは頑固にそれらを拒否した。
鬱陶しそうに半眼になり、片手を振って黙らせる。「胎」の表面にほとんど張り付くようにして座り込み、ろくにその場から離れなかった。
だが、この時の彼には勿論、まったく予想だにしないことだった。
やがてはるか未来にあって、ほかならぬ自分自身が、とある少年にまったく同じ思いをさせることになろうとは。
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