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第二章 惑星(ほし)にひとりで
6 逃避
しおりを挟む「逢瀬」の日がやってくる。
今回のそれは二人にとって、それぞれに特別な意味のあるものだった。
少年はハッチのそばで、いつものように服を脱ぎ捨て、ばちんと自分の両頬を手のひらで叩いて気合を入れた。
男は男で、《胎》の中ほどで浮かんだまま、少年を待ち構える。体はいまだに、やっと臍のあたりまで再生が終わったところだ。
やがてAIが《胎》の稼働停止を宣言し、少年はすぐに羊水の中に潜って底を目指した。
いつものように、男の腕の中に飛び込む。
力をこめて抱きしめあい、しばらく互いの唇を求め合う。すでに互いに、この程度のことなら遠慮はしなくなっていた。
やがて少年はそっと男から唇を離すと、真正面からその蒼い瞳を見つめた。
『ね……パパ。訊きたいことがあるんだけど』
『ああ。俺もだ』
男のほうでも、真っすぐに少年を見返してきた。
《胎》の中での音声は、空気を通す場合のように明瞭には聞こえない。水の中でのようにぼやけてしまうその言葉を、AIが仲介することで聞き取りやすく変換してくれている。
『このところ、随分様子がおかしいようだが。やっぱり何かあったんだろう』
『うん』ちょっと目を伏せ、少年が頷く。『パパ。訊いていい? ……僕の名前のことなんだけど』
『なに……?』
男の目が見開かれた。少年は構わず続ける。
『僕の、名前だよ。【フラン】っていうのは、もともと僕の名前じゃないよね?』
『…………』
男は思わず絶句した。まじまじと見返すと、少年の目の色がどんどん暗くなっていくのが見て取れた。
『……やっぱりそうなんだ』
零れるように出た言葉は、こぽりと吐息の泡になって上昇していく。
『いや……それは』
『いいんだよ。もう分かってるから』少年は眉をさげて寂しく笑った。『最近、地球の歴史の単元をかなり進めてたんだ』
『…………』
『そこで、見つけた。【ノア計画】のこと──』
男は絶句して、しばらくは穴があくほど少年の顔を見つめるしかなかった。
知られた。
この子に、知られてしまったというのか。
しかし──。
男の瞳には、そんな内面がありありと見て取れた。
『パパにとっては、【フラン】はとっても大事な人の名前だったんだよね? パパたちにとって、その名前はとても重要だった。その人はパパにとって、たった二人でこの惑星に世界を創り出す、大切なパートナーだったんだものね』
『フラ──』
『やめて!』
突然、少年は大声をあげた。が、驚いた男の表情を見て、すぐに後悔したように項垂れた。
『……イヤ、なんだ。今はその名前で……呼ばれたくない』
『…………』
男は何も言えず、しばし口を噤んだ。眉間のあたりに陰鬱なものを漂わせる。その表情を逐一読み取ろうとしながら、少年はゆっくりと口を動かした。
『……パパ。僕はなんなの。パパにとっての僕ってなに?』
どうして赤ん坊の状態から、あなたに育てられてきたの。
どうして僕に「フラン」なんて名前をつけたの。
あなたの「フラン」は、どこへ行ったの。
自分のことを「パパ」なんて呼ばせておいて、そのくせこんな、キスなんかして。抱きしめて、服を脱がせて……あの日は、それ以上のことまでしようとした。
それには、どういう意味があったの。
どうして、どうして、どうして。
あなたが欲しいのは、いったい誰なの──?
溢れ出す気持ちを全部、うまく言葉にするのは難しかった。訊きたいことは山ほどあるのに、それらは胸の中で渦巻いてぐちゃぐちゃに乱れ、ほとんどは喉のところにくるまでにねばっこく煮凝ってしまう。
石のように固くなったそれらが詰まって、ひどく息苦しい。代わりに鼻の奥が痛くなって、目もとが危うくなっていく。
男は非常に暗い瞳をして、じっと少年を見つめるだけだ。
『パパは、その人を……愛してたの』
頑張ったつもりだったが、最後のところはどうしても声が掠れた。
男の瞳がわずかに揺れる。たったそれだけの反応で、少年の胸は切り裂かれるような痛みを覚えた。
『じゃあ……僕はなに? パパのなに』
『…………』
男は眉間に深い皺を刻んで答えない。
空白の時間があればあるだけ、少年の胸にむなしい虚があいてゆく。
『パパ……パパ』
引きつれた喉からやっと出た声は、どうしようもなく歪んでいた。
『僕は、その人の……代わり、なの』
返事はなかった。
少年の胸に、細かな皹がぴしぴしと走り始める。皹は胸全体に広がって、ぱきぱきと金属製の音をたてた。
恐ろしい沈黙だけがその場を支配した。男はしばらく、ただ暗い瞳で少年を見返していた。が、やがて視線をふいとそらした。
少年の胸が、遂に破裂した。
(ああ……!)
目に見えない傷がぱくりと開いて、どくどくと真っ赤なものを噴きだし始める。
『フラン──』
『やだっ!』
次の瞬間、少年は男の胸を突き飛ばした。
あとはもう、一目散に羊水を蹴り、両手でかいて水面を目指す。ハッチの外へ出、咳き込みながら走り出した。
両目から熱いものが溢れて止まらない。それは、肺の中から羊水が排出されて空気と入れ替わることによる苦しみのためばかりではなかった。
少年は無我夢中で通路を駆け下り、階下の格納庫へまっすぐ走った。
(バカ。パパのバカっ……バカやろう……!)
自分の知りうる、ありとあらゆる悪態を吐きながら、少年は飛行艇に飛び込むと、操縦席のコンソールパネルを滅茶苦茶に叩きまくった。
「飛んで! 早く! 飛んでええええっ……!」
砂ばかりの惑星から、一機の宇宙艇が飛び出していく。それはあっさりと大気圏を離脱すると、即座に異空間航行へと移行した。
もやもやと現れた黒い異空間に溶け込んで、機影はすぐに見えなくなる。そうして何事もなかったように、異なる空間への扉は閉じた。
あとにはただ、瞬かぬ星々の撒き散らされた、真っ黒な宇宙空間が広がっているばかりである。
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