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第四章 海に棲むもの

6 嵐

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 船乗りの禁忌を侵してまで《神々の海》の奥深くまで入ろうとする者はなかったので、そこからは本当に調査隊の面々だけでの航海になった。

 いやもちろん、船長ウラムは反対したのだ。「熟練の船乗りのひとりもなしにあそこへ行くなんざ。無謀ってもんじゃねえですぜ、ダンナ」と、かなりしつこく。
 だがシンケルスは飽くまでも「忠告には感謝する。だが行かぬわけにはいかんのだ」と首を横にふりつづけた。
 しまいにはウラムもとうとう折れた。そうして羊皮紙にこと細かに海路図を書き、要所要所に印をつけて「いいですかい? 絶対に目印を見落としちゃいけませんぜ」と何度も言いながら懇々こんこんとシンケルスやほかの兵士らに操舵の要点を教えてくれた。

 とはいえ謎の《神々の海》の奥深くまで入って生きて戻った者などほとんどいない。たとえいたとしてもとっくにこの世の者ではなくなっている。海路図は途中からどうしようもなく白くなり、その先はどうなっているものか、あのウラムにですら皆目わからないという話だった。
 その後、ウラムはこのあと近くの島に寄港して、十日間だけシンケルスたちを待ってくれると約束してくれた。シンケルスは約束の金のうち半分を彼に支払い、のちにこの船を一緒にもとの港へ返してくれたら残りの金を支払うと約束した。

 いま、その海図を手にしてシンケルスは船の舳先へさきのところにいる。少年はそのすぐ後ろのところに座って、やっぱり青い顔をしていた。ようやくのこと船酔いはましになり、もどす回数は減ってきている。
 船倉の漕ぎ座には、調査隊の兵らがそれぞれ櫂を手にして必死に水をかいていた。大きな軍船で採用される三段櫂船トライリムなどとはまったく違い、こちらの小さな船には一段しか漕ぎ座はない。それはそのまま、推進力の差にもなってしまう。

 実のところ、シンケルスは海図そのものにはあまり目を落としていない。どうやっているのかはわからなかったが、兵らに見られないよう背を向けて常に例の青玉サファイルスのペンダントを凝視している。そうして時おり操舵の者に声をかけ、船の進路を変更させているのだった。

 少年は船酔いでさっぱり回らない頭で、ぼんやりと自分の紫のペンダントを見つめていた。恐らくは紫水晶アメディストス(アメジスト)であろうと思われるこの石は、陽にすかしてみると余計に美しかった。まるで少年の瞳そのもののように。
 どうやらこの石には遠くの人と話すほかにも、いろんな機能があるようだ。自分にはまだよくわからないけれども。

 と、その時だった。帆柱にのぼって周囲を見回していた兵の一人が遠くを指さして大声をあげた。

「閣下、嵐です! 遠くに黒い雲が見えますッ!」

 言われて指さすほうを急いで見ると、確かに遠くにどす黒い雲が広がっているのが見えた。こちら側は本当に澄んだ青空と海の色に満ちているのに、そこだけが不気味にくすんだ灰色の世界になっているのだ。
 ぱっと見上げると、シンケルスが非常に厳しい目になって同じ方角を睨んでいた。

「雲が広がってきています! このままでは巻き込まれます!」

 言われるまでもなかった。
 黒雲の群れは恐るべき早さで迫ってくると、遠くから不穏な強い風を送ってきたのだ。

「帆を巻き上げろ! 左舷櫂おさめ!」

 シンケルスの命令で、すぐに十名ばかりの兵士たちが慌ててバタバタと動きはじめた。みな腰のところを荒縄で縛り、船のあちこちにくくりつけている。高波に襲われて船から放り出されればまず助からない。そのための用心だ。
 シンケルスは手早く自分と少年の腰を荒縄で結び付けた。が、なぜかその端を船に結び付けることはしなかった。

「え、なんで──」

 だが少年にはその理由を訊く暇もなかった。シンケルスは兵らに次々と指示を出すことに忙しく、それ以上少年に構っている余裕はなさそうだった。
 シンケルスの指揮により、船はできるかぎりの速さで回頭し、黒雲に尻を向ける形で逃げ出そうとした。まさに尻に帆をかけて逃げる形だ。

 だが、遅かった。
 というよりもその嵐の足が速すぎた。
 嵐はあっというまに船全体を飲みこんで、激しい雨と風がごうっと甲板に叩きつけられ始めた。船の上は何もかもがあっという間に水びたしになった。
 強い風にあおられて、今の今まで穏やかだった海が突然牙を剥きだした。船は高波の先にぐいぐいと持ち上げられたかと思うと、次の瞬間には深い谷底に叩き落とされる。まるで木の葉のようだった。

(ひいいいっ……!)

 少年にはなにもできなかった。必死でシンケルスの腰のあたりにしがみつき、頭上から降ってくる猛烈な滝みたいな海水で投げ飛ばされないようにする以外は。
 周囲は風と波の音でごうごうと渦巻いて、兵らの悲鳴があちこちから聞こえた。
 船から投げ出されないまでも、あまりにも激しく波がぶつかってくるだけで怪我をする者もいる。帆柱や船端で激しく頭や体を打ち付けて呻いている者もいた。

「シ、シンケル、スッ……!」

 ちょっとでも口を開けると思い切り海水がぶちこまれてくるので、ろくに息もできない。それでも少年はずっと男の名を叫び続けていた。

 と、次の瞬間だった。
 ふっと体が持ち上がったと思ったら、足の下から甲板の感触が消えた。

(うわっ……?)

 視界がぐるぐる回転し、ふたたび滝のような水が襲ってきて、ふと見ると船がはるか下方に見えた。

(ええっ……?)

 わけがわからなかった。
 いったい自分はどうなってしまったのだろう……?
 船はきりきり舞いをしながら、風に舞い散る枯れ葉のように波の中で放り投げられ、次々に波に襲い掛かられて、やがて高波の向こうに見えなくなった。

「シ、シンケル──」

 自分の腰のあたりをがっちりと抱えているのが男の腕であることに気が付いて少年は目を上げた。
 全身ずぶ濡れのシンケルスが、これまで見たこともないような厳しい目をして波の向こうに消えて行った船のほうをじっと見ていた。

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