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第三章 惑う心
7 胸の痛み
しおりを挟む「殿下。お風邪を召しますぞ、殿下」
長椅子でそのままこくりこくりと首をゆらし始めた殿下を、藍鉄はそれでもしばらくは見守っていた。が、お体がかくりとかしいだ瞬間に駆け寄って、すんでのところで抱き留めた。そのままでは椅子の下へずり落ちてしまいそうだったからである。
(無理もない)
玻璃殿下と配殿下のご婚儀の前後から、殿下はずっと睡眠が足りておられない。さすがの藍鉄も不眠不休ではいられないので深夜の時間帯には自室に戻るが、その間、宿直をしてくれる忍びから報告は受けているのだ。
何度も寝返りをくりかえされ、時おり寝具のなかからぐすぐすと嗚咽をかみ殺す様子が窺えるらしい。
そんな時にお傍にいられない自分を歯がゆく思う。
あまりお体に触れているのは気が引ける……というか、なにか説明のつかない罪悪感のようなものが湧きあがるので、藍鉄はすぐに横抱きに抱え上げて寝室へ向かった。
今日の公務は終わられているし、眠れるときには眠っておかれたほうがいい。腕の中の御方のお体は、男子とは思われぬほど羽根のように軽く感じた。
殿下のご寝所はひろい一間になっており、中央部に上質な錦で飾られた御帳台が据えられている。部屋の中にまた小さな小高い部屋があるようなものだ。
四つの柱の間には幾重にも薄絹が垂らされており、寝具はその中に敷かれている。アルネリオ式ならちょうど、天蓋付きのベッドのようなものだろうか。確か東宮ではユーリ殿下のために、玻璃殿下がそちらを据え付けられたと聞いている。
朝になれば側付きの女官たちが新しいものにとり替えるので、御帳台の中はすでに整えられた状態である。
ちなみに水中でお暮らしの時には、皇族の皆さまはゆらゆらと水に漂ってお眠りになる。変なところへ漂い出ないように絹の紐でゆるやかに柱に体を括りつけておかれるのが普通だ。
藍鉄は瑠璃殿下のお体をそっと寝具へおろすと、狩衣の袍を少しゆるめて差しあげた。
思わず一瞬だけ、お抱きする腕に力が籠ったかも知れぬ。それはまったく無意識のことだった。すぐに腕の力を緩め、褥にお寝かせした。
上掛けを引き上げて、ふとそのあまりに長い睫毛に目を奪われる。お目を閉じておられると、余計にその長さと美しさに目を引かれる。
はらりと額にこぼれた紺の髪を指先でよけて差し上げる。まるで壊れ物に触れるように。
だが、不器用な指はうまく動かず、殿下の白いこめかみに一瞬指先が触れてしまった。
「……ん」
殿下がきゅっと眉をひそめて、睫毛を震わせる。慌てて手を引いたら、すぐに元通りの安らかなお顔になって寝息をたて始められた。
……どのぐらいの時間、そうしていただろう。
藍鉄はハッと我に返って、急いで御帳台からおりた。
(なにをやっているんだ、俺は)
そのまま部屋の隅へ戻ってまた跪く。宿直の者らがしているのと同様のことだ。
御帳台から、ごく静かで規則的な殿下の寝息が聞こえてきた。
(いつか──)
膝元に目線を落とし、ふと埒もないことを考える。
いつか、この中からだれかに抱かれる──あるいは、だれかをお抱きになる──あの方のお声を聞くような日がくるのだろうか。
それは殿下が心から愛しく思われるひとだろうか。
そうであるならいい。
殿下がいつまでも、今のような虚しいお気持ちでいることこそが堪らない。
殿下が心から慕う人、愛おしむ人とお幸せになっていただければよいと思う。
それを目にし、耳にするようなことになったとて、何もお恨みする筋はないのだ。たかが護衛の忍びごときに。
ずっと自分にそう言い聞かせてきた。このところはそうする頻度がどうしても増えているという気はするが、だからどうということでもない。
殿下がお幸せであればそれでいい。
一日も早く、殿下のお心にも玻璃殿下とユーリ殿下のように想い想われる御方が現れてくれるように。
嘘ではない。そう思う。
……ただ、それと同時に起こる胸の疼きには気づくまいと思うけれども。
◆
瑠璃は、ふわふわと夢を見ている。
だれかに抱かれて、揺られていた。
優しくて強くて、太い男の腕だ。厚い胸板。……兄上のような。
いや、兄上よりは少し体は小さめだけれど。
兄上よりもずっと武骨で、無口で、不器用で。
でもとても温かい。
だから、ここにいると安堵する。
この男は、この男だけは絶対に自分を裏切らぬからだ。
いや、裏切ることもあるかもしれない。だってそれが人間だもの。
でも、そうなったら許さない。
地の果てまででも追いかけて、きっときっと思い知らせる。
私の顔をじっと見つめるお前を睨みつけ、その首をかき切ってやる。
いいか、藍鉄。覚悟しろよ。
(……気持ちがいい)
男の匂いがする。兄上とは違う。
違うが、いつまでもここでこうして揺られていたい。
──と。
(え……?)
ぎゅっと体を抱きしめられた感覚があって、瑠璃は目をつぶったまま心の中で首を傾げた。
男の匂いが強くなった。
武骨な指が自分の髪をよけてくれている。その先が、ほんのわずかにこめかみに触れた。
不快ではない。むしろ、もっとこうしていて欲しいと思った。
と、あっさりと自分の身体が褥に横たえられ、男の気配が去っていった。
ぽつねんと自分の寝床に取り残されて、うつらうつらしながらも瑠璃は不満を覚えた。
なんでもっとそばにいない。
どうしてもっと、私のそばに来ないんだ。
(……バカ。意気地なし)
夢うつつに悪態をつく。
が、瑠璃の意識はそのまますとんと夢のなかに吸い込まれていった。
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