38 / 51
第五章 主従
1 褒美
しおりを挟む「いや、良かった。まことに良かった」
離宮を訪ねた玻璃兄が、瑠璃の手をとって喜んでくださったのは、そこから数日後のことだった。
あれから瑠璃はすぐに帝都へ連絡させ、「かもめ園」の皆との別れを惜しんで、帝都へ戻った。その後、医療AIと皇室づきの御典医たちの診察を受けたのだ。
結果、言葉を失っていたことによる障害等々はいっさい残っておらず、言語を発する機能も脳の状態も極めて良好との診断を勝ち取った。
「父上も俺も、必ず治ると信じてはいた。が、どれほどの時がかかることかと、それだけは心配だった。早く治ってまことによかった」
離宮の応接の間でにこにこ笑っている兄を見返して、瑠璃は静かに微笑んだ。
「それもこれも、皆様のお陰にございます。藍鉄に連れられて参りました『かもめ園』の皆様にも、ひとかたならぬご恩を受けました。心より感謝しております」
「そうだったな」
言って兄は、姿を隠さずに控えている藍鉄の方を見やった。
「藍鉄。此度のこと、俺からも心より礼を申すぞ」
「いえ。自分はなにも」
いつもどおり、藍鉄はごく控えめに答えて頭を垂れるだけだった。
「近いうちに父上にも顔を見せに参れ。大変ご心配なさっていたゆえ」
玻璃兄はそう言い残すと、東宮御所へ戻っていかれた。
聞けば「遺伝情報管理局」にてお育ちの御子様は、大きな問題もなくすくすくとご成長中とのことである。そろそろご誕生予定とのことだった。すでに男子であることははっきりしており、お二人はあれこれと頭をひねって、御子のお名前を考え中らしい。
(……ふしぎだ)
そういう話を聞いても、あまり心が波だたない。少し前であったら、胸を切り裂かれるような痛みを覚えて寝込んでいたことだろうに。今の瑠璃の心は、嘘のように凪いでいた。少なくとも、兄たちの件に関しては。
今後の出仕に関しても、少し様子を見て養生のうえ、ゆっくり出てくればよいと玻璃兄が請け合ってくれた。そちらもまた、これまでの内容を議事録からあれこれと予習しておかねばならない。やらねばならないことは山ほどある。
私室に戻って長椅子に座り、女官の持ってきた緑茶をひと口飲んで、瑠璃はひとつ息をついた。
「藍鉄」
「は」
いつもの通り、空気の中から溶け出るように黒々とした巨躯が現れる。
「兄上も申されていたが。此度のことは、だれよりお前のお陰。お前の手柄だと思っている。心より感謝するぞ」
「いえ」
藍鉄は静かに首を横に振った。
「自分がなにもせずとも、殿下はいずれ必ずご快癒なさったでしょう。それがたまたま、あの島で起こっただけのことにございまする」
瑠璃は湯飲みを静かに茶托に戻して苦笑した。いかにもこの男らしい返事だと思った。
「そうかも知れぬ。だが、お前があの『かもめ園』に連れて行ってくれていなければ、何倍も、いや何十倍も時間がかかっていただろう。私はそう思う」
藍鉄は沈黙し、床に視線を落としている。
「だから、礼を申す。褒美も取らすぞ。もちろん『かもめ園』の皆にもな。なにか困っていること、欲しいものなどがあれば、なんなりと侍従長に申せ。できるかぎりのことはさせてもらうゆえ」
「有難う存じまする。さぞや子どもらが喜びましょう」
藍鉄が頭を下げた。
瑠璃は目の端で男を一瞥した。
「お前自身のこともだぞ。何か欲しいものがあるか?」
「滅相もなきこと。何度も申しますが、臣下として当然のことをしたまでです。自分のことはどうぞ、お気遣いのなきように」
「そうはいかないよ」
瑠璃はふいと立ち上がると、すたすたと藍鉄に近づいた。男が微妙に体を固くしたのがはっきりわかった。瑠璃は彼の目の前にしゃがみこむと、その片手を半ば強引に引き寄せて両手で包み込んだ。
「これは、気持ちの問題だから。そなたがそばに居てくれなければ、私はいつまでもあのままであったろう。ぐじぐじと兄上と配殿下のことをお恨み申し上げて、布団の中でいつまでも丸まっていただろう」
「……左様なことは」
藍鉄の目線が珍しく脇へ流れた。
この男が何を考え、どう思って自分のそばにいるのか。そのあたりはほとんど分からない。訊けばどうせまた「仕事だから」と答えるだろう。だがそれは、恐らくこの男の真意ではない……と、感じる。
自分の内面を易々と他人に見せるなど、貴人の警護たる忍びとしてふさわしくないのは当然だ。だがそういうこと以前に、もともとこの男はそういうことが不得手なのではないかと思う。
人のことが言えないのは百も承知で言うが、要するに不器用なのだ。
藍鉄は、かつて不慮の事故によって家族を喪い、幼いころから身よりもなく生きて来た男である。幸いにしてあの「かもめ園」という温かな場所があったゆえ、心まずしく育つという不遇は免れた。が、それでも寂しい思いはあったはずだ。
年の離れた弟を亡くしていることから、もしかしたらこの自分のことも、どこかで弟を見るような目で慈しんでくれていたのやも知れぬ。
(だが)
と、瑠璃は思う。
(『弟』では……つまらぬ)
それでは、兄上と何も変わらぬではないか。
いくら大事にしてもらっても、ある一定以上の距離を詰めることは叶わない関係。
そんな関係、もうこれ以上必要ないのだ。
「……殿下」
藍鉄が、まだ握られたままの自分の手を、さも居心地悪そうに引こうとした。
瑠璃は両手に力を籠めて、その手を放そうとしなかった。
「そうだ、藍鉄。褒美といえばな。ひとつ考えていることがあるのだ。聞いてもらってもよいか」
「はい」
藍鉄は訝しげに頷いた。
瑠璃は彼の手をにぎったまま、まっすぐに両目を見据えてにっこり笑った。
「この、私というのではどうだろうか」
「…………」
藍鉄の体とともに、部屋の空気が凍りついた。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
【完結】 男達の性宴
蔵屋
BL
僕が通う高校の学校医望月先生に
今夜8時に来るよう、青山のホテルに
誘われた。
ホテルに来れば会場に案内すると
言われ、会場案内図を渡された。
高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を
早くも社会人扱いする両親。
僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、
東京へ飛ばして行った。
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話を倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる