ルサルカ・プリンツ 外伝《瑠璃の玉響》

るなかふぇ

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第五章 主従

2 挑戦

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「この、私というのではどうだろうか」
「…………」

 藍鉄の体とともに、部屋の空気が凍りついた。

「申し訳ありませぬ。おっしゃる意味が、よく──」
「とぼけるなよ」
 藍鉄が引こうとする手を、瑠璃はさらに強く握りしめた。
「私が渡す褒美など、たかが知れているだろう。皇室の財物はすべて、別に私が自ら手に入れたものではない。結局は国民の血税だしな。便宜上、私の財産ということになってはいても、別に私が自ら稼いだものではない。そんなものを右から左へ『さあ褒美だ、受け取るがいい』と言うほうがおかしかろう?」
「…………」
「厳密なことを申せば、この身体とて私だけのものとも言えぬがな。食事から何から、民の血税で賄われているのだし」

 瑠璃は軽く自嘲ぎみな吐息をついた。

「それでもまあ、なにがしかの財物よりかは私自身に近かろうよ。心からの礼をしよう、褒美を与えようと思うなら、を与えるのが最も道理にかなっている。これに勝る褒美は考えつかぬ。そうは思わぬか?」

 瑠璃が自分の胸を指さしてそう言うのを、藍鉄は黙って聞いていた。眉間に深い皺が刻まれている。

「……おたわむれをおっしゃいますな」
 藍鉄の声はひどく低くて掠れている。ときおり光の加減で緑に見える黒い瞳に、いまや異様な光が宿っていた。
「戯れかどうか、試してみればよいであろう?」

 わざと嘲るような声を作って、瑠璃は答えた。ゆっくりと頭を傾け、婀娜あだに見えすぎない程度に耳元の髪を指で梳く。藍鉄の目がぎらりとその動きを追ってくるのを見て、少し安堵した。よかった。不快なわけではないらしい。

「お前だって、もう知っているだろう。私はずうっと、実の兄上に甲斐のない懸想けそうをしてきた男だぞ? いまさら女子おなごに興味など持つはずもなし」
 沈黙したままの藍鉄を見ながら、瑠璃は少し肩をすくめた。
「いい歳をして、いまだ誰ともしとねを共にしたこともなし。情けない限りよな」
「左様なことは」

 藍鉄がてこでも動かないので、瑠璃は自ら男のそばへ身を寄せ、男の手を自分の胸に引き寄せた。

「……それとも。私ごとき、お前には何の褒美にもならないか」

 挑むように真正面から睨みつける。
 藍鉄は絶句して目線を落とした。顔の下半分を覆った黒いマスクの下で、きりっと小さく奥歯の音がする。握った拳が恐ろしい力で握りしめられていることがそのまま手のひらに伝わってきた。

「そうではありませぬ」
 とうとう藍鉄は押し殺した声で答えた。
「そうではない、とは?」
「……たっとすぎると……申すのです」
 絞り出すようだった。
「貴い。私が?」
「左様です。自分ごときに、左様なことをおっしゃるものでは──」

 ふはっと自然に声が出た。

「どこが? どういう風に? こんな情けない男のどこが、そんなにも貴いと?」
「殿下──」
 藍鉄が苦しげに眉根を寄せた。
「皇子としての器量には欠ける。文武とも、さして見るべきところもない。体力もなく、心も弱い。唯一見られるのは顔ぐらい。……皆がそう申しているのを、私が知らぬと思ってか」
「殿下……!」
「ふん」

 瑠璃は藍鉄の手を放り出して立ち上がった。
 大股に濡れ縁の方へ歩き、腕を組んでぐいと顎を上げる。

「嘘をつくな。どうせ、私なんかじゃイヤなだけだろう。お前自身が、イヤなだけだ。褒美どころか、ほとんど懲罰だと思ってる。そうだろう」
「殿下──」
「正直に言ってしまえばいいんだ! 別に罰するつもりなどない。それならそれで私だって、さっさと諦めてもやろうというのに!」
「違いまする!」

 大きな声に驚いて振り向けば、藍鉄がすぐそばの板敷に両膝をついてひれ伏していた。床に額をこすり付けるようにしている。

「自分は、ただの忍びにございまする。警護対象たる主人あるじに懸想し、あまつさえ──剰え、お身体に手をかけるようなことは、決して犯すべからざる禁忌。御法度にございます」
「知っている。お前に講釈をたれられるまでもない」
 瑠璃は冷ややかな目で藍鉄を見下ろした。
「まして自分は、出自も卑しき凡百の徒の一人いちにんに過ぎぬ者。とてものこと、殿下のような貴きお方に触れるなど許されざる仕儀にござりますれば」
「意気地なしめ」

 言い放って、瑠璃は男の目の前に無造作に片膝をついた。
 拳でどん、どんと我が胸を叩きながら言い募る。

「私が、私自身が『それでよい』と申しても? 『私をお前のものにしろ』と命じてもか」
「……まこと、畏れ多く。身に余る仕儀にて」
 藍鉄の額は床を離れない。
「『命令だ』と申しても? 貴様、自分を『卑しい』と言いながらあるじの命に逆らうのか」
「どうか……お許しを」

 拒絶の言葉を舌に乗せつつ、男の声には苦渋の色が滲んでいる。

「私が、皇子でなければいいのか? そなたの警護対象でなければよいと?」
「…………」
「だったら、約束せよ。私が皇子でなくなった暁には、この褒美をまちがいなく受け取ると」

 低い声で耳に囁くようにしてやったら、藍鉄は少し顎を上げた。
 瑠璃は虚を衝かれた。
 男の目の奥のほうで、哀愁とも怒りともつかぬ何かがゆらめいていた。

「いかなる意味にございましょうや。殿下が、皇子殿下でなくなる……とは」
「言葉通りだ。兄上とユーリ殿下のあいだには、もうすぐ御子様がお生まれになる」
「はい」
「その御子さまのあとも、まだまだお生みになることだろう。睦まじいお二人のこと、当然の仕儀であろうよ。すでに『遺伝情報管理局』にはお二人の遺伝情報が多量にストックされていることであろうし」
「…………」
「そうなれば、凡庸な第二皇子なんぞにどんな意味があるものか。むしろ皇位継承者として邪魔な存在にしかならぬ」
「殿下──」

 瑠璃はすうっと息を吸うと、一気に言った。

「御子様ご誕生後、しばらくしたら。私は臣下に降下する」
「……!」

 藍鉄が目を見開いた。

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