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第五章 主従
4 告白
しおりを挟む「……藍鉄。お前が……好きなんだ」
その、言葉。
藍鉄はふたたび停止した。
「このままでいることでお前と共に生きられぬというなら、こんな身分はさっさと返上する。私の警護役であることが問題だというなら、異動も許そう。とにかく、お前とともに幸せになる。……それ以外の道など許さん」
「殿下──」
「でも」
殿下は頬から耳、首のあたりまで朱に染めながらそっと言った。紺色の長い睫毛が目の前で心細げに震えている。
「お前がイヤだと言うなら……無理は言わぬ。お前にだって、好みというものがあるだろうし」
言いながら、次第に声も震えてくるのを必死にこらえておられる。藍鉄の胸元に置いた手が震えてくるのも止められないらしい。
「お前は……どうだ? 私と、そういう風になるのは──」
いやか、という最後の言葉は、形よい唇の奥へ今にも消え入りそうだった。
するりと離れていきそうになる殿下のお手を、藍鉄は思わず引き留めた。
殿下がびくりとこちらを凝視した。藍鉄はもう片方の手で自分の頭を抱えつつ、吐息と共に言った。
「なんと……申し上げればよいものか」
「簡単なことだ。私は男なのだしな。好きか、嫌いか。抱けるか、抱けぬか。『男なんてイヤだ、気持ち悪い』というなら、それで終わる話であろうし。この世には、そういう男の方が多いんだから──」
藍鉄は絶句した。
(『抱けるか、抱けぬか』……だと?)
殿下は横を向いて俯いている。そのお顔に、長い前髪が落ちかかって表情が見えなくなった。
「す、すでに好いた者がいるなら遠慮なく言ってくれ。決して無理を言うつもりはないから。お前にだって、色々と都合もあるだろうし」
不思議にお口だけが、急速に回転を速めている。
「私の身分のせいで断りにくいことは重々わかっている。本当に、無理は言わないから。だから──」
「いえ」
(まったく……。この方は)
なんだろうか、この初々しさは。
こんなに突然に可愛くなられても困る。まったく理解が追いつかない。二重三重に蓋をしてきた理性の箍が、今にもはじけ飛びそうだ。
それでも究極まで己が自制心を発揮しつつ、藍鉄は胸が熱くなるのを止められなかった。
(殿下……)
いつもわがままで、精神的に幼くて。気分の上下が激しくて、好き放題で。気に入らなければ殴るばかりか、思い切り蹴られたことすら何度もあるのに。
そのご身分を盾に、「私を慕え」「私を抱け」と命令しても構わぬお立場であるというのに。
別に虐げられることに愉悦を見出すタイプの人間ではないつもりだが、何年もこのように扱われてきたために、それに慣れてしまった側面は否めない。しかし。
「殿下」
今にも泣き出しそうなお顔を見ているうちに、気がつけば藍鉄はその言葉を紡いでいた。これまで決して言うつもりのなかった、その言葉を。
「……お慕い、申し上げておりまする」
「──え」
殿下がパッと顔を上げられた。
何度も目を瞬かせておられる。耳に入ってきた言葉に、まだ半信半疑なのだろう。
「命ぜられるまでもなきことです。……お慕い申し上げておりまする。もうずっと前から。あなた様だけをずっと見て参りました。だれより、お慕い申し上げて参りました」
「あ、藍鉄……」
「まことですぞ」
いまにも決壊しそうな殿下の瞳を見ているうちに、胸の奥の何かがわずかにほころんだ。そこに、ポッと小さな灯りがともる。
かつて家族を亡くしたときに、すっかり光も消えて真っ暗になっていた胸の奥の空洞に。
灰をかぶって消えたと思った灯火が、実は熾火となってその下に残っていたとは。
小さな灯りは暗い空洞を次第に温めて、ぼんやりと明るくそこを照らした。
──温かい。
藍鉄がずっとずっと、忘れていた温もりだった。
藍鉄の口角がほんの微かに引き上がったのだろう、がちがちに固まっていた殿下の肩の力がふっと抜けたのがわかった。
「ほ……ほんとうか」
お声はひどく頼りない。藍鉄はしっかりとひとつ頷き返した。
「もちろんです。自分がかつて、殿下に嘘を申したことがありましょうや」
「うん……。ないな」
素直に頷かれた。
耳までどんどん赤く染まっていくお顔を見ながら、藍鉄はぼんやりと考えた。
「仕事上、殿下の身を守るためにどうしても必要とあらば、事実と異なることも言う」と密かに考えていたことは、もはや秘しておくしかないだろう。
恐らくは、永久に。
「お傍にいられさえすればよい、と思って参りました。あなた様がどなたと共におられることになるとしても。お傍でお守りできるならばそれでよい、と。あなた様がお幸せであられるのなら、それで……と」
「藍鉄──」
殿下はやや不安げな目でこちらを見られた。必死に言葉の真意を探るような、まっすぐな目だった。「ですが」と藍鉄は言葉を続けた。
「アルネリオのイラリオンが、先日来殿下のお傍をあれやこれやとうろつくに及んで……どうにも辛抱がきかず」
「辛抱……えっ? いまなんと言った」
「辛抱が、どうにもききませず」
殿下は目をまんまるくして、しばし絶句された。
「……え、まさか。そんな……お前が? 嘘であろう」
「いいえ」
殿下はしばらく、何かを考えるようにじっとこちらを見つめてこられた。
「それは……その。己惚れてもよいということか?」
お声はひどく震えている。藍鉄は黙って殿下を見返した。
「お前は少しでもあの男に……イラリオン殿に嫉妬してくれたと、そう思っても構わぬということなのか。私のために……?」
藍鉄は渋面のまましばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「左様にございます」
「藍鉄!」
どん、と細い体が藍鉄の胸に飛び込んできた。首に手を回して思いきり抱きつかれる。
「本当か? 本当なんだな? それは嘘ではないのだなっ……?」
「はい」
と、殿下がこちらを睨まれた。
「なんで抱きしめ返さない」
藍鉄の両手が体の脇にだらりと下がったままなのをご不満に思われたらしい。
「先ほども申したとおりです。今の殿下を、自分ごときが──」
「とかなんとか言って! お前、あの島で何度か私を抱きしめていたではないかっ! しれっと素知らぬふりをしおって! 覚えてないとは言わせぬぞ!」
痛いところをあっさり衝かれた。実際、感情の高ぶりのまま、どさくさに紛れて殿下をお抱きしたことは何度もある。「あそこに微塵の下心も無かったか」と問われれば、藍鉄は答えに窮するしかない。
殿下が憤然と言い放った。
「いいじゃないか! ここでは誰も見ておらぬ。AIの監視も切っている。誰にも見られぬこの場所で、ふたりきりのときには許す」
「殿下──」
「この私が許すと言っている! それで十分な話だろう!」
だから抱け。さっさと抱きしめろ。あのときのように。
殿下は体じゅうでそう主張して、ぎゅうぎゅうと藍鉄にしがみついてこられた。
「この石頭! 朴念仁! クソ真面目野郎っ! いいからさっさと──」
それ以上は言わせなかった。藍鉄は力を籠めて殿下の背中を抱きしめた。
殿下は腕の中で「きゅっ」と変な声をたてられたが、そのままもっと力をこめて藍鉄の体にしがみついてこられた。
やがてこつんと額が合わされる。
蕩けるような瑠璃色の瞳がこちらをじっと見つめていた。
「……今なら、許す」
そのまま、唇を塞がれる。
以前なら巌のように動かなかった藍鉄の唇だったが、今回はそうではなかった。
藍鉄はほんの僅かにそこを開くと、壊れ物を扱うように、可愛らしい殿下の唇をそうっと塞いだ。
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