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終章 柔らかな未来へ
1 ふたたび、あの海へ
しおりを挟む見渡す限りにひろがる青い海原。
三年ぶりに触れる海風に紺の髪を弄らせて、瑠璃は大きくのびをした。
「ああ、よい天気だな」
「ええ。まことに」
「懐かしい匂いだ。ここへ来ると、ほっとする」
シャツにスラックスという洋風の軽装で、ふたりはゆっくりとゆるやかな坂の小道をのぼっていく。
目的の場所にはすでに、先に連絡を入れてある。「住み込みでも良い」とは言われたのだが、新居は別の場所にした。そちらにもすでに荷物が到着しているはずである。
手前の海岸で車を降り、ふたりは園に向かう道を選んでぶらぶらと歩いた。
「お足もとにお気をつけを。舗装されておらぬゆえ、下手をするとおみ足をくじきまする。でん──」
「こら」
即座に振り向いて、瑠璃は男を睨んだ。
「何度言ったらわかるんだ。もう私は『殿下』ではないぞ」
「……は」
男が困った顔になって視線を下げる。瑠璃は腰に手を当てて、ついと男に近づいた。男の鼻先に指をつきつける。
「今度言ったら、ペナルティを課すからな」
「…………」
男は渋い顔である。これは絶対に納得していない。
「そうだ、こうしよう」
瑠璃はぽんと手を叩いた。
「一回言うにつき、私の願いをひとつきくこと」
「…………」
「なんだよ。不満なのか」
頬を膨らませて胸を反り返らせたら、男はしばし黙った挙げ句に首を横にふった。
「承りましてございます」
「だーから。その堅っ苦しい言葉遣いも改めよというのに!」
「いえ。そう申されましても」
「もっとざっくばらんに話せよ、ざっくばらんに! 敬語は禁止。全面的に禁止」
「しかし」
「そうだ! あの黒鳶としゃべっているときなんか、ちょうどいい感じじゃないか? あれがいいよ、あれが。あれで話せ」
「しかし、でん──」
「ほらまた!『殿下』は禁止だと申しただろうっ!」
決めつけられて、藍鉄がとうとう押し黙った。口をへの字に曲げている。
長年の習慣というものは、そうそうは抜けないものだ。実はそう言う瑠璃だって、十分に「皇族じみた物言い」が抜けていない。普通、二十代の平民の青年がこんなしゃべりかたをするはずがないのである。
だが、すでに瑠璃は皇族ではなかった。
目を細め、陽光にきらめく遠い水面を見やってひとりごちる。
(……長かったな)
あれから、三年。
玻璃兄とユーリ配殿下との間にお生まれになった御子は、この秋、ついに三歳におなりになった。大過なくご健康にお育ちで、お可愛らしさ、聡明さともさらに輝き出るようである。
生まれたときはまだ神々のもとにある幼子の命は、時を経て少しずつ「人の世」のものに変化してゆく。三年目、五年目、七年目がその節目とされる。
先日、御子のご誕生三年目の祝いの席に呼ばれて、瑠璃は遂に父と兄に自分の願いを聞き届けられるはこびとなったのだ。
すなわち、臣下に降下すること。
もちろん、お二人には事前に何度かお伺いを立てた。今後の身の振り方、仕事や住む場所等々の相談にも様々に乗っていただき、ぬかりなく準備もしてきた。
臣下になる以上、これまでのように国民の血税によって生きることは許されぬ。当然ながら自分の食い扶持は自分で稼ぎ、生きて行かねばならぬのだ。
『なんと、瑠璃。左様なことを考えておったとは』
『何か考えているなとは薄々思っていたが。なかなか思い切ったことを考えたな』
父、群青も、兄、玻璃も最初は大変驚き、また難色を示した。
特に高齢の父、群青の寂しさは一入であったようだ。亡き母に生き写しとも言われる瑠璃のことを、この父は目に入れても痛くないほど愛おしんで育ててきてくださった。無理もない話であろう。
『なにもそんな、はるばる遠くまで参ることはあるまいに。もっと近う、帝都のそばに居を構えるわけには参らぬのか』
『そうだぞ、瑠璃。ご高齢の父上にあまりご心配をかけるな。できれば職も、帝都の近くで求めてくれぬか。な? 兄からも頼む。このとおりだ』
お二人は口を揃えてそうおっしゃったが、瑠璃の決意は固かった。
なにより、このまま朝廷内や帝都近辺にいることで、また政争のもとになるのは気が引けた。このところ、幸いにして右大臣派の面々はすっかり元気をなくしているけれども、時間がたてばまた何がどう転ばぬとも限らない。それゆえ、瑠璃は皇室とそれに近しい機関に職を求めることを拒んだのだ。
『父上、兄上。自分のごとき者を斯くもご心配くださり、まことにありがとう存じます。ですがどうか、ご案じくださいますな。ご連絡は欠かしませぬし、折々、お顔を拝しにも戻って参ります。藍鉄も共にまいりますし、なにもご心配は要りませぬ』
『おお。藍鉄が?』
『それはまことか』
『はい。大変勝手を申しまするが、つきましてはかの者の、忍びとしての任もお解き頂きたく──』
『なるほど、なるほど。それなら安心と申すものじゃの。のう、玻璃?』
兄も満足げに「左様にございますな」と父に頷きかけてからこちらを向いた。
『諸々、了解した。手回しは俺に任せよ』
結果的に「藍鉄がそばを離れぬ」というこの一事をもって、父と兄はどうにかこの儀を許してくれたようなものだった。おふたりの藍鉄に対する信頼は絶大なものがある。
その点は、瑠璃もいまだにちょっと不満だ。要するに、藍鉄の手柄みたいなものではないか。だが、この際いたしかたない。「温室育ち」のこの自分を、大海の荒波にぽーんと放り出すようなまねは、さすがの父や兄にもできないことだろう。
その後、具体的なことは玻璃兄の片腕ともいえる波茜女史が引き受けてくれた。瑠璃の希望を聞きながら様々に今後の進路の相談に乗ってくれたのだ。
その後数年をかけて、瑠璃は今後の生活に必要な資格を取る勉強に勤しんできた。
「あ、見えた。……ああ、変わらないなあ、あそこは」
太陽の光に照らされた懐かしい建物に目を留めて、瑠璃は微笑んだ。
「左様ですな」
藍鉄も薄く目を細める。
瑠璃は、そのまま自然に差し出されて来た男の手を握った。
「かもめ園」の園庭では、小さな子どもたちが戯れ遊んでいる姿が見える。少し年長の子どもたちがなんとなくこちらを見、それからぱっと顔を輝かせた。
「あっ! アオイおにいちゃん、きたあ!」
「アイテツさんだあ!」
「いらっしゃーい!」
途端、持っていた遊び道具などを放り出し、てんでに手を振りながら、われ先にとこちらへ駆けてくる。
「みんな! 元気だったかい?」
瑠璃も力いっぱい手を振り返した。笑顔が自然に零れ出た。
隣でそっとこちらを見守る男の視線を感じて振り向くと、男は驚くほど穏やかな目をしてうっすらと微笑んでいた。
いまにもその首に飛びつきたくなるのを、瑠璃は必死にこらえた。
「臣下降下の儀」の日は、儀礼と各方面への挨拶などのために一日のすべてが潰れた。その翌日、ふたりはばたばたと帝都を後にしてここへ来た。
ゆえにまだ、藍鉄は瑠璃に接吻以上のことは何もしてくれていない。
(だがそれも、今日までだ)
瑠璃は大きく息を吸いこんだ。
自分の胸が、ひとまわりもふたまわりも大きくなったようだ。
今まで吸っていた空気がみんな偽物で、これが本物の空気みたいな気がした。
はじまるのだ。
これからやっと、自分の本当の人生が。
瑠璃は藍鉄にだけわかるようにそっと微笑み返した。
それからぱっと前を向き、子どもたちに向かって駆け出した。
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