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第二章 陸の国と海の国
9 黒き影
しおりを挟む「そっ、そうでございますっ! おっしゃる通り!」
突然ロマンが割って入って、ユーリは思わずソファからぴょんと尻を浮かした。
「そこでございますっ、ユーリ殿下が素晴らしいのは! 皆はなにかといえば見目やら才やらとくだくだしいことを申しますけれども、殿下は決して決して、そんなにご自分を卑下されていいようなお方ではないのです!」
「……ロ、ロマン?」
「殿下は下賤の者にもいつもお優しくて……。お城にあがったばかりで右も左も分からず、先輩たちにいじめられていたチビのわたくしを、本当に優しく慰めてくださって」
「え? そんなことがあったっけ」
ユーリが変な顔になったのを、ロマンはキッと睨みつけた。
「ほら! すっかり忘れておられる! 覚えておられないのですか? まだ幼かったわたくしのあかぎれの指に薬を塗ってくださって、ご自身のおやつのお菓子を『隠れてお食べ』とそっと握らせてくださった。……わたくしは忘れませぬ。絶対に忘れませぬ」
「そ、……そうだっけ」
よく覚えていないことが申し訳なくて、ユーリはちょっと小さくなる。
「殿下はいつもそうなのです。そりゃあ、誰にだってお優しい殿下のことですもの。同じようなことがいくらもあったことでしょうし。下働きの小さな少年のことなど、とうにお忘れでも仕方のないことでしょうけれども」
「あ、いや……。すまない、そうだったのか」
「そうでございます!」
少年は珍しく、ぷうっと頬を膨らませた。
ユーリは恐縮して頭を掻いた。
「いえ、よろしいのです。つまりはそれだけ、殿下が多くの下々の者にいつもお優しくてあられたということですから。ついお忘れになってしまうほど、いつも下々のことを気にかけてくださっているということの証ですもの」
言い募る少年を見つめながら、なぜか海の皇子が優しげに目を細めているのに気づいて、ユーリの体がじわじわと熱を持ち出したようだった。
「だ、だが。それならどうして、今までそうと私に教えてくれなかったのだ」
「だって、殿下……」
ロマンは困ったような顔になって一度うつむいた。あまり言いたいことではないのだろう。だが少年は、意を決したように顔を上げた。
「そんなことをしたら試験官の皆さまから、『これは殿下に忠実にちがいない』『能力は多少劣るとしても、選んで損はなかろう』などと、評価を上乗せされてしまうかもしれないではありませぬか」
「あ、……ああ」
なるほど、そういうことか。
「わたくしは正々堂々、皆さまから自分の能力を評価していただいて、そのうえで殿下のお傍にお仕えしたかったのです。誰にも、後ろ指などさされたくなかったのです!」
「ロマン……」
「だって、いやではありませんか。後からだれかにこそこそと『あやつは殿下のお気に入りだったから』だとか、『うまく取り入りおって』とか……そういう、要らぬ陰口をきかせたくなかったのです。そういう穢れた言葉の数々は、殿下の御名にも傷をつけるものにございますから」
「……そうだったのか」
ふと胸の中が熱くなる。いつも怜悧なほどに優秀で頭の回転の早い側付きの少年が、まさか自分にこんなにも恩義を感じ、高く評価していてくれたなんて。
思わぬことを聞いてしまって、お尻のあたりがむずむずする反面、項や耳のあたりがかっかと火照りはじめた。なにより、目の前の男の視線が気になって仕方がない。
「ふっ……はははは!」
玻璃が突然、快活な笑声をあげた。
「な? どうだ。ユーリ殿の側近までも、こうしたまっすぐな心根をお持ちなのだ。その主人たるあなた様のお心も、推して知るべしと申すもの。これで俺の言葉にも、格段に説得力が増したというものであろう」
「いやあの、ハリ殿……」
確かにロマンは立派でまっすぐな子だが、それで自分の価値があがるものでもないだろうに。
「おお、そうだ」
言って男はひょいと立ち上がると、勝手にそばにあった卓上の羊皮紙と羽ペンを取り上げた。そこにさらさらと優美な文字が連ねられていく。
「『玻璃』は、こう書く。もとは水晶の意を持つ言葉だ」
「水晶……。なるほど」
ユーリはそれを覗きこんで納得した。いかにも優美で豪快な文字だ。この男の吸い込まれそうに美しい紫水晶の瞳から、それは容易に連想できる意味だったから。
別に関係もなかったのに、ふとユーリは気持ちが沈むのを覚えた。少し羨ましくなったのだ。
長兄セルゲイも、次兄イラリオンも、父から素敵な名を頂いている。
「セルゲイ」は「最も敬愛される」という意味だし、「イラリオン」は「快活な人」だ。
それに対して自分、「ユーリ」という名はなんと、もともと「農夫」という意味だというのである。
父が言うには「それはそなたに、弱き臣民の立場に立てる、腰の低い優れた人物になってもらいたいからである」とのことだったけれども。しかし、他にいくらでも皇帝の子としてふさわしい命名があったように思うのに。
まあ今となっては、結局名前負けしてしまうぐらいなら、これで良かったのだとは思うけれど。
そんなことを思ううちにも、男はひらひらと手元でインクを乾かしていた。
「こちらの文字は、そちらのものよりもだいぶ複雑だが。覚えておいてくれると嬉しい」
「あ。は、はい……」
すいと気軽な仕草で羊皮紙を渡され、思わず受け取ってしまっていた。あまりに自然だったので、あれこれ考える前に勝手に手が出てしまったのだ。
男はまたにかりと笑うと、すっとソファから立ち上がった。
「さて。では俺は、そろそろお暇するとしよう」
「えっ?」
ユーリとロマンはまた呆気にとられた。
さっき来たばかりで、もう帰るのか。だが、一体どうやって?
「いやあの、玻璃どの。せっかくここまで来て頂いたのですし。一応、父にもお会いになっていただきませんと」
「そうでございますよ。もう午後になっております。ひと晩ぐらいはお泊りくださいませぬと」
「いえ、ひと晩と言わず、どうぞ何日でもご逗留いただければ。身分の高い方をお招きすれば、それは当然のことなのですし」
「いや。急に来てそこまでするのは、さすがにご迷惑というものだろう」
玻璃は軽く笑って、ユーリとロマンの勧めを断った。
「でも……。確か、他にも目的がおありだったのではありませんか」
「うむ。それなのだがな」
そう言って、男がくいと微妙に顎を動かした時だった。
彼の斜め後ろあたりから、音もなく真っ黒な影が現れた。
まるでいきなり、空気から何かが溶け出たようだった。
「ひゃっ!?」
「ひいっ!?」
ユーリとロマンはほとんど互いに抱き着くみたいにして飛び上がった。
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