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第二章 陸の国と海の国
11 親書
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玻璃の消え去ったその部屋で、ユーリはロマンと顔を見合わせ、しばらく呆然となって沈黙していた。
もしや、夢であったのか?
いや、そうではない。確かに今、彼から貰ったばかりの腕輪はしっかりと左の手首に嵌まっている。黒装束の武骨な男も、床に片膝をついたままこちらに頭を垂れている。
「あ……その。クロトビ、とやら」
「は」
頭を下げたまま黒鳶が答える。簡潔な返事は、いかにも武人らしかった。
「その……玻璃どのはどちらへ? いったいどうやって──」
「ご説明さしあげたくは存じますが。なにぶん、こちらのお国ではまだ開発されていない技術を相当用いておりますもので」
「ああ。それはそうなのだろうけれども」
先ほど黒鳶自身がやって見せた同じ技術で玻璃が姿を消したことは察しがつく。
だが彼は、どうやってここから出て行くのか。どうやって母国へと戻るのだろう。
そんな疑問を頭の中でぐるぐるさせていたら、黒鳶が少しばかり顔を上げた。
「ご心配は無用にございます。殿下はすでに、無事に空の上におられますほどに」
「えええ!?」
「そっ……空の上!?」
ユーリもロマンも思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
この者たちは、海の中を自在に泳ぐばかりではなく、あの空を飛ぶことさえできるというのか?
「は。殿下が海底皇国にお戻りになるまでに、こちらの時間で申さば二刻もあれば十分でございますので。どうか心配はご無用に」
対する黒鳶は、ユーリたちの反応とはまったく真逆のしれっとした顔である。ほとんど「それがどうした」とでも言わぬばかりだ。表情も変えずにすっと頭を下げられて、ユーリは続く言葉を飲み込んだ。
仕方がない。彼らの進んだ技術について、いちいち驚いて詳しい説明を要求していたら、いくら時間があっても足りないだろう。
それよりも、今は彼に問いただしておかねばならないことが山ほどあるのだ。
「……では。親書の内容は、あなたもご存じなのですね」
「は。殿下は自分の目の前でそれを認められ、封をなさいましたので」
「父に差し上げる前に、内容をお聞きしても?」
「無論です。殿下から、ユーリ殿下にはこの件について、一抹の隠し事もするなと仰せつかっておりますので」
「……そうなのか」
「さらに、今後は是非とも、自分をユーリ殿下の身辺警護の一人としてお傍に置いてくださいませ。そのことも併せて殿下からの厳命にございますゆえ」
「わ、わかった」
「で、でも、殿下……。そんな急に、このような男を信用なさっては」
ロマンは明らかに心配そうな顔でこちらを見上げている。まだこの黒鳶とかいう男が信用ならないのであろう。当然だった。
「まして彼らは、わたくしたちの知らない非常に怪しげな技術も多く使いこなしている様子。とても殿下のお命を預けるわけには参りません!」
「あ、……うん」
「お言葉ではありますが、ロマン殿」
思わず首を縦に振りそうになっていたユーリだったが、黒鳶はそれを遮った。
「玻璃殿下がおっしゃっていました通り、自分はこれまでこちらの帝国と王宮内をあれこれと探索しておりました。先ほどのとおり、身を隠して。要は間諜にございます」
「ええっ……」
「間諜は、なにも自分ひとりではございませぬが」
「まさか……そんな」
ロマンがぞっとしたように、きょろきょろと周囲を見回した。
「もしも我らがまことユーリ殿下やこちらの王家に害意を持っているならば、いつなりと王家の皆さまのお命を頂戴することもでき申した。それも、なんの証拠も残さずに。なんとなれば、特定の病を装うことすら可能なのでございますぞ」
「な、なんと……畏れ多きことをっ!」
ロマンは完全に青ざめて微かに震えている。
「それをここに至るまで為してはいないこと。今こうして、手の内をご開陳申し上げていること。……どうかその二事をもって、自分を信じていただきたく」
すっと頭を下げたその姿のどこにも、不純なものを見出すことはできない。むしろ正々堂々として、一抹の後ろめたさも覚えぬという態度だった。
ユーリは少し困って、ロマンと目を見かわした。
「どうだか。だってあなたは、さっきの玻璃皇子殿下と同様、いつでも姿を消して逃げることができるではありませんか。わたくしたちが、あなたを捕まえようったって、それは出来ぬに決まっているのに!」
まだまだ疑いを解かない様子でロマンが詰った。
「ごもっともです。ですが、これだけは申し上げたい。玻璃皇太子殿下は、左様な卑怯愚昧の徒ではあらせられませぬ。少なくとも、ユーリ殿下に対してはどこまでもご誠実であらせられます。また、そうあろうと尽力なさってもおられまする。……そのことだけは、我が命にかけてここで言明申し上げたく」
「……わかった。もういい」
まだ何か言いたそうなロマンを片手で制してユーリは言った。
「あなたの主人殿を信じよう。確かにあの方は、こせこせと裏で愚かな策謀を巡らせる御仁ではないと私も思う。ゆえに、そなたのことをも信ずることにする」
「殿下」
「かの御方が、みずから『腹心だ』とまで申されたそなただ。信ずるに足る者には違いなかろう。……これでよいか? クロトビ殿」
「殿下っ……!」
「有難き幸せ」
ロマンが叫ぶと同時に、黒鳶がすっと頭を低くした。
「本日ただいまよりこの黒鳶、身命を賭してユーリ殿下にお仕え申し上げまする。何かお困りごとなどございますれば、何卒自分をお頼りくださいませ」
「うん。よろしく頼むよ」
「で、殿下ッ……!」
まだ叫んでいるロマンの声を聞きながら、ユーリはふと窓の外の空を見上げた。
高いところを筆でひと刷毛撫でたような雲が飛んでいる。
あの空のどこかに、まだかの人はいるのだろうか。
あの快活で豪快な彼の笑顔をその間に見たような気になって、ユーリはほんの少しだけ微笑んだ。
もしや、夢であったのか?
いや、そうではない。確かに今、彼から貰ったばかりの腕輪はしっかりと左の手首に嵌まっている。黒装束の武骨な男も、床に片膝をついたままこちらに頭を垂れている。
「あ……その。クロトビ、とやら」
「は」
頭を下げたまま黒鳶が答える。簡潔な返事は、いかにも武人らしかった。
「その……玻璃どのはどちらへ? いったいどうやって──」
「ご説明さしあげたくは存じますが。なにぶん、こちらのお国ではまだ開発されていない技術を相当用いておりますもので」
「ああ。それはそうなのだろうけれども」
先ほど黒鳶自身がやって見せた同じ技術で玻璃が姿を消したことは察しがつく。
だが彼は、どうやってここから出て行くのか。どうやって母国へと戻るのだろう。
そんな疑問を頭の中でぐるぐるさせていたら、黒鳶が少しばかり顔を上げた。
「ご心配は無用にございます。殿下はすでに、無事に空の上におられますほどに」
「えええ!?」
「そっ……空の上!?」
ユーリもロマンも思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
この者たちは、海の中を自在に泳ぐばかりではなく、あの空を飛ぶことさえできるというのか?
「は。殿下が海底皇国にお戻りになるまでに、こちらの時間で申さば二刻もあれば十分でございますので。どうか心配はご無用に」
対する黒鳶は、ユーリたちの反応とはまったく真逆のしれっとした顔である。ほとんど「それがどうした」とでも言わぬばかりだ。表情も変えずにすっと頭を下げられて、ユーリは続く言葉を飲み込んだ。
仕方がない。彼らの進んだ技術について、いちいち驚いて詳しい説明を要求していたら、いくら時間があっても足りないだろう。
それよりも、今は彼に問いただしておかねばならないことが山ほどあるのだ。
「……では。親書の内容は、あなたもご存じなのですね」
「は。殿下は自分の目の前でそれを認められ、封をなさいましたので」
「父に差し上げる前に、内容をお聞きしても?」
「無論です。殿下から、ユーリ殿下にはこの件について、一抹の隠し事もするなと仰せつかっておりますので」
「……そうなのか」
「さらに、今後は是非とも、自分をユーリ殿下の身辺警護の一人としてお傍に置いてくださいませ。そのことも併せて殿下からの厳命にございますゆえ」
「わ、わかった」
「で、でも、殿下……。そんな急に、このような男を信用なさっては」
ロマンは明らかに心配そうな顔でこちらを見上げている。まだこの黒鳶とかいう男が信用ならないのであろう。当然だった。
「まして彼らは、わたくしたちの知らない非常に怪しげな技術も多く使いこなしている様子。とても殿下のお命を預けるわけには参りません!」
「あ、……うん」
「お言葉ではありますが、ロマン殿」
思わず首を縦に振りそうになっていたユーリだったが、黒鳶はそれを遮った。
「玻璃殿下がおっしゃっていました通り、自分はこれまでこちらの帝国と王宮内をあれこれと探索しておりました。先ほどのとおり、身を隠して。要は間諜にございます」
「ええっ……」
「間諜は、なにも自分ひとりではございませぬが」
「まさか……そんな」
ロマンがぞっとしたように、きょろきょろと周囲を見回した。
「もしも我らがまことユーリ殿下やこちらの王家に害意を持っているならば、いつなりと王家の皆さまのお命を頂戴することもでき申した。それも、なんの証拠も残さずに。なんとなれば、特定の病を装うことすら可能なのでございますぞ」
「な、なんと……畏れ多きことをっ!」
ロマンは完全に青ざめて微かに震えている。
「それをここに至るまで為してはいないこと。今こうして、手の内をご開陳申し上げていること。……どうかその二事をもって、自分を信じていただきたく」
すっと頭を下げたその姿のどこにも、不純なものを見出すことはできない。むしろ正々堂々として、一抹の後ろめたさも覚えぬという態度だった。
ユーリは少し困って、ロマンと目を見かわした。
「どうだか。だってあなたは、さっきの玻璃皇子殿下と同様、いつでも姿を消して逃げることができるではありませんか。わたくしたちが、あなたを捕まえようったって、それは出来ぬに決まっているのに!」
まだまだ疑いを解かない様子でロマンが詰った。
「ごもっともです。ですが、これだけは申し上げたい。玻璃皇太子殿下は、左様な卑怯愚昧の徒ではあらせられませぬ。少なくとも、ユーリ殿下に対してはどこまでもご誠実であらせられます。また、そうあろうと尽力なさってもおられまする。……そのことだけは、我が命にかけてここで言明申し上げたく」
「……わかった。もういい」
まだ何か言いたそうなロマンを片手で制してユーリは言った。
「あなたの主人殿を信じよう。確かにあの方は、こせこせと裏で愚かな策謀を巡らせる御仁ではないと私も思う。ゆえに、そなたのことをも信ずることにする」
「殿下」
「かの御方が、みずから『腹心だ』とまで申されたそなただ。信ずるに足る者には違いなかろう。……これでよいか? クロトビ殿」
「殿下っ……!」
「有難き幸せ」
ロマンが叫ぶと同時に、黒鳶がすっと頭を低くした。
「本日ただいまよりこの黒鳶、身命を賭してユーリ殿下にお仕え申し上げまする。何かお困りごとなどございますれば、何卒自分をお頼りくださいませ」
「うん。よろしく頼むよ」
「で、殿下ッ……!」
まだ叫んでいるロマンの声を聞きながら、ユーリはふと窓の外の空を見上げた。
高いところを筆でひと刷毛撫でたような雲が飛んでいる。
あの空のどこかに、まだかの人はいるのだろうか。
あの快活で豪快な彼の笑顔をその間に見たような気になって、ユーリはほんの少しだけ微笑んだ。
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