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第四章 親善交流

12 煩悶

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「え……? ち、違うのですか」

 そこで黒鳶は、ごく控えめに息を吸い込んだようだった。その目には「やはり」という感じがありありと見えた。

「違います。まったく違う。……我ら滄海わだつみの民はみな、基本的には一夫一婦制。まあ、ご存知のとおり同性でつがう者もおりますので、厳密にはこの言葉はおかしゅうございますが」
「ええっ……!?」
「ともかくも。相手は常に、ひとりです。余程の事情でもない限り、この国では自分と相手、ふたりだけで添うものと決まっております」
「そ、そうなのですか……」

 黒鳶の説明は、大体こんな感じだった。
 もしも結婚関係にある者が他のだれかに懸想するなら、そもそも婚姻関係を継続する意味がない。その場合は法に照らして関係を解消するのが普通である。
 婚姻とはそもそも、法的な契約関係。当然ながら、それを反故ほごにした者には程度に応じた量刑、つまりペナルティが科せられる。
 具体的には相手への慰謝料、子供がいるならその養育のための費用そのほか、もろもろを支払うことが完全に義務付けられているのだという。これに関しては、もはや死にでもしない限り免除されることはあり得ない。
 普段、言葉の少ない黒鳶がこれだけのことを説明するには、相当に時間がかかった。

「これらのことをユーリ殿下がご存知なかったのだとすれば。今回の殿下のご反応も、納得がいくというものです。ロマン殿には是非とも、その点をユーリ殿下にご説明して差し上げてもらいたい。きっとご安心いただけるかと」
「…………」
「玻璃殿下は、ご自身のねやにユーリ殿下以外の者を侍らせたりはなさいませぬ。……かつて一度だけ、添うたお方はありますが。今そのお方は、はるかニライカナイにお住まいですし」
「ニライカナイ……。えっ? そ、それって」

 「ニライカナイ」とは、アルネリオで言うところの「天国」にあたる場所だと聞いている。つまり、そのお方はすでにこの世の人ではないのだ。

(玻璃殿下は……一度、伴侶をお亡くしなのか)

 瞬きもせずに大きな目で自分を見下ろすロマンに、黒鳶はすっと頭を下げた。

「詳しいお話は、自分ごときがこのような所で申せることではありませぬ。そちらはぜひ、ユーリ殿下がご自身で、玻璃殿下からお聞きになっていただきたく」
「……そ、そうですね」
「今はもう少し、ユーリ殿下のお気持ちが落ち着くのをお待ちいたしましょう。臣下たる我らにできるのは、そのぐらいのことにございます」

 最後にそう言ってもう一度頭を垂れると、黒鳶はすっと立ち上がり、またたく間に空気の中に姿を消した。
 ワゴンのそばで立ち尽くし、ロマンはしばらくぼうっとしていた。
 なぜか不思議にあたたかなものが、自分の胸に湧きだしはじめているのを覚えながら。





(わかってる……。わかってるんだ)

 自分にあてがわれた寝台の中にもぐりこんだまま、ユーリは鬱々と時を過ごしている。
 ここに閉じこもってしまってから、ほとんど丸一日が過ぎていた。
 幸い、部屋には手洗い場が隣接しているし、いつも新鮮な水を供給してくれる設備も整っている。飲料用の水については、壁際のプレートをちょっと触るだけで、清潔なグラスに注がれたものがいつでも飲めるようになっているのだ。冷たいもの、温かいもの。さらに、この国ではごく一般的な緑茶が出てくるようにもなっている。これは正直、ありがたかった。
 つまり、幸か不幸か一定期間「籠城」するには、もってこいの環境が整っていたわけである。

(ああ……。でもなあ)

 一度こういうことを始めてしまうと、今度はというものが難しい。最初は「蛮勇」で済むものが、やめる段になったら恐ろしい覚悟と勇気が必要になってくる。
 大体、どんな顔をして皆に会えばいいのか。
 あれからあんまり泣きすぎて、壁の楕円形の姿見の中にはいつも、恐ろしいほど目の周りを赤く腫らしたみっともない顔の青年が映るばかりだ。髪はくしゃくしゃ、服はよれよれ。
 とてもではないが、こんな姿をあの玻璃殿下には見せられない。
 「自分はこんな男に惚れたのか」と、余計にがっかりされるに決まっている。それだけは、やっぱりユーリとて嫌だった。

 そうでなくとも、玻璃皇子はお忙しい身の上なのだ。自分ごときつまらない外国の第三王子風情のために、貴重な時間を割けるようなお体ではない。今回の自分の訪問を歓迎するにあたって、殿下はきっと様々に他の仕事の都合をつけてくださったに違いないのに。
 今のところ、ロマンが「ユーリ殿下は体調不良」ということで押し通してくれているようだったが、そんなものはいつまでも通じまい。早晩、こちらの親善使節の面々にも事実は知れてしまうだろう。
 第三王子が奇妙なことで臍を曲げ、私室に籠城しているということは。

(ああ……。ほんとうに、私という人間は)

 どうしてこんなことで、こんなにも心が疲弊してしまったのだろう。
 わかっていたことではないか。玻璃皇子は、あんなにも魅力的な人なのだ。彼を独り占めしよう、したい、などと考えること自体、自分には分不相応なことだったのに。
 幸いにして「我がものになってくれ」と求められたのであれば。そして、自分の心も彼の方を向いているのなら。周囲の状況がどうであれ、たとえ玻璃の心の一部しかもらえないのであれ、自分は素直に従っておくべきなのに。

(申し訳ありません、父上、兄上たち……それに、ロマンも)

 あの少年に、こんなにも余計な心労を掛けさせて。
 少年は、あれから何度も寝室の前に食事や紅茶、お菓子などを運んできては心配そうな声で「ユーリ殿下」と声を掛けてくれている。それを毎回、「ああ、どうしようか」と思いながらも結局は黙殺する形になって。

(情けない……。本当に、情けない王子で申し訳ない)

 のそのそと起き上がって寝台に座り込み、ぎゅっと手首を握った時だった。
 ふと袖の下に触れたものがあり、その存在を思い出して、ユーリは複雑な顔になった。
 あの時、殿下から頂戴した銀の腕輪ブラスリェート
 これを使えば、玻璃皇子と直接お話しができる。

「…………」

 腫れぼったい目で、ユーリはそれをじっとしばらく見つめていた。
 
(いや。今はやめておこう)

 まだ日の高い時間帯のはずである。玻璃はきっと、政務そのほかで忙しくしていることだろう。
 話をするならば、恐らく夜だ。
 ユーリは唇をきゅっと噛むと、腕輪の上から手首を握り、それを口元に近づけた。

 訊ねてみよう。
 わからないことはちゃんと訊いて、ちゃんと心でも納得したい。
 もっときちんと、あなたと話がしてみたい。

 そう思ったら、ほんの少しだけ体から力が抜けた。
 そうして寝床にまた潜り込み、ユーリは改めて目を閉じた。
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