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第五章 滄海の過去
10 花の湯殿で
しおりを挟むちゃぷちゃぷと、平和で豊かな水音がする。
それに、木材と柑橘系のものらしいよい香り。
それらに誘われるようにして、ユーリはふわりと目を開けた。
(え……?)
湯殿の湯舟の中だった。
玻璃とふたりきりである。
ふたりとも、もちろん生まれたままの姿だ。
広々とした湯舟の縁に玻璃が太い両腕を掛けて凭れている。その膝に横向きに座らされて、ユーリは今の今まで玻璃の豊かな肩に頭を預け、眠ってしまっていたらしかった。
「はっ……玻璃殿!? す、すみません!」
慌てて姿勢を正す。無意識に口元を手の甲でぬぐった拍子に、思った以上に派手な水音が立ってしまった。
「ああ、構わぬ。慌てずともよい。静まられよ」
あたふたと彼の膝から飛びのこうとしたが、玻璃はいつもの鷹揚な笑みを見せて、ユーリの体をさらに抱き寄せただけだった。
「目を覚まされたな。どうだ、どこかおつらい場所はないか。今のうちなら肩でも腰でも、存分にほぐして差し上げようぞ」
「いっ、いえいえ! いいえっ……!」
必死でブンブン首を横に振る。玻璃はまるで「可愛くてたまらぬ」とでも言わぬばかりに目を細めた。そのままユーリの髪や額に口づけを落とし、子供にするように頭をぽすぽすされる。
ユーリは恐る恐る周囲を見回した。見慣れぬ浴室だった。
「こ……こちらは?」
「同じ邸内にある湯殿。実は先ほどの寝室の裏側にあたる場所だ」
「へ、へえ……」
見たところ、ユーリたちの滞在先の部屋のものよりはるかに大きい。だが、基本的な造りはよく似ているようだった。
爽やかな木造りの浴室。水面は床面より少し高い程度の設えだが、浴槽の底は深い造りになっている。縁には、腰かけるのにちょうどよい段差も造り付けられている。やっぱり、ほぼ同じような造りだ。
湯の面には、ぷかぷかと何かが浮かんでいる。黄色い柑橘系の果物と、桃色や黄色、白など、様々な色の花弁のようだ。
漂ってきた果実をひとつ手に取ってみて、ユーリは訊いた。
「これは……?」
「柚子という。実はちょっと時期が違うが、こちらには冬の一時期、これを浮かべて入浴し、温まるという風習があってな」
「へえ……」
「これに入っておくと風邪もひきにくくなると言われている。無病息災を願い、魔を祓う。……ある程度はゲン担ぎだがな。実際、健康にもよい」
言いながら、玻璃はちゅ、と軽く音をたててユーリの耳にまたキスを落とした。
「ゆっくり温まって、しっかり眠られよ。今宵の閨事は、ここまでとしておくゆえな」
「えっ……?」
玻璃が言うのは自分たちの行為に関することだと気づいて、ユーリは間近から彼の顔を見返した。
……あれで終わり?
あれでは前のときにしたのと、大して違わないのでは──。
こちらの表情をいつものように正確に読み取って、玻璃が苦笑した。
「まあ、そう残念な顔をしてくださるな。正式な婚儀の成る前に、清らかなそなたを散らすつもりはもともと無かった。お父上の正式なお許しもないままに、左様に無体な真似はできぬ。俺がお父上に殺される」
くはは、と笑って、冗談ともそうでないともつかないようなことを言う。
「それに、これ以上は明日の行程にも差し障るゆえ」
「で、でも」
「最後までいたしてしまうと、恐らくそなた、明日は歩けぬ仕儀となる。それでは具合が悪かろう」
「あす……の?」
「そうだとも。親善使節の皆も、いい加減退屈しておるだろうしな。ここまであなた様のご体調不良ということで建物に留め置かれ、わが国を紹介する映像などを見て頂いたり、海の幸、山の幸など堪能していただいていたが、そろそろ限界でもあろうし」
それは、確かに。
自分のせいで、彼らはいきなり、とんだ足止めを食らわされてしまったのだ。本当だったら第一日目から、滄海のあちらこちらを視察、観光させていただける予定だったのに。
「皆さまには我が国の文化や地勢、経済活動に関わるさまざまな資料映像を見ていただき、今後どこを見て回りたいかの聞き取りもおこなっている。希望の多かった場所を中心に、明日あたりから出かけようと考えていた」
玻璃は言いながら、太い腕を湯舟の外に回して、水差しからカップに水を注いでユーリに勧めた。ガラスにも似ているが、不思議な七色に光る肉厚のカップである。ユーリたちが使うものとは、これまたかなり様子が異なっていた。
水は冷たく、ほんのりと果物の香りがつけられていた。思った以上に喉が渇いていたことに気づいて、ユーリは喉を鳴らしてそれを飲み干し、さらに何杯かいただいた。
「でも、はり……どの」
「ん?」
優しい眼差しがこちらへ流れてきて、かっと体の中心が熱くなる。
「玻璃、どのは……。あんなのでは、満足……できないでしょう?」
男同士の行為というのは、恐らくこれで終わりではなかったはず。ユーリもそんなに詳しいわけではないが、こんなことで終わってしまったのでは、玻璃を満足させられたとは決して言えないだろう。
不安げな顔になって俯いたユーリを見て、玻璃はまたにこりと笑った。
「本当に良いのだ。それはまた、おいおいの楽しみとさせて頂こう」
幼子に噛んで含めるような声音だった。優しくユーリの髪を撫で、額や目尻に、また甘やかなくちづけを落としている。
そうされているだけで、なんだかまた急に眠くなってきた。いや、眠くなったりしてはいけないのに。
睡魔は恐ろしいほど魅力的で、どんどんユーリを飲み込み始めている。
(ああ……だめだ。眠っては)
そう思うのに、もう瞼はとっくにその戦いに負け、くっつく寸前になっていた。
玻璃の大きな手が背中を軽く叩いてくれる。
「ご心配召さるな。あなたは眠っておられればよい。すべて、よきように計らっておく」
「おやすみ、ユーリ殿」と囁く玻璃の声が、もうずっと遠くで聞こえていた。
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