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第七章 変わりゆく帝国

10 歓待

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 クラスグレーブに到着し、アルネリオ宮の広い前庭に飛行艇を着陸させると、ユーリはすぐにタラップを降りた。
 が、降りてみてから、不思議な違和感に包まれた。
 その場所に、今まで感じたことのない異様な雰囲気が満ちていたからだ。

(……ん?)

 なにかがおかしい。
 前庭の周囲にも、王宮へつながる大廊下の前にも脇にも、ずらりと人々が居並んでいる。いつもその場に立っている衛兵たちのことはいいとして、普段王宮にいる貴族たちやそれ以外の貴族たち、さらに文官、武官、下働きの若い少年少女たちまでが、ひしめきあうようにして集まっているのだ。
 まさかとは思うけれど、王宮にいるすべての人々がここに集結しているのかと思えるほどだった。

「な……なにごとだ?」
 皆の視線が明らかに自分に集中しているのを見てとって、ユーリはどぎまぎした。なんとなく、つつつっと黒鳶の陰に隠れるように後ずさりする。
「そうですね……。いったいなんなのでしょう」
 警戒した様子でロマンも言った。黒鳶がさりげなく、ふたりを守るようにして前へ出てくれる。
 そのときだった。

「殿下!」
「ユーリ殿下!」
「殿下っ……!」

 人々の列の一部が崩れて、そこからまろびでるように、こちらへ駆け寄ってくる人の一団が見えた。
 老若男女、さまざまな年代の者たちだ。着ている者も、高貴なものから下働きらしいものまでさまざまである。
 先頭を駆けてきた青年が、わっとユーリの足元に身を投げ出してひれふした。後の者たちも同様にして地面に額をこすりつけるようにする。

「な、なな、なにごとだっ! 殿下の行く手を遮るとは。無礼だぞっ!」

 ロマンが怒りをあらわにし、気丈な声で叫ぶ。だが人々は動じる様子もなく、ひたすらに跪いてユーリに頭を下げ続けている。

「申し訳ござりませぬ!」
「どうかどうか、ご無礼の段はお許しを!」
「しかし我ら、どうしてもユーリ殿下に御礼と、申し上げたき儀がございまして……!」
「お願いにございます。どうか我らの言葉をお聞きくださりませ……!」

 みんなのあまりの圧力に、ユーリは思わずまたあとずさった。
「ど、どうしたんだ、みんな。そんな必死の顔をして……。まあ、とにかく落ち着いて」

 そうこうするうち、衛兵らがきびきびした足取りで近づいてくる。銘々に槍を手にして構えかかっているのは、彼らを追い払おうというのであろう。
「やめよ! 大丈夫だ」
 ユーリは慌てて兵らを制した。
「皆、私を害するために集まっているのではない。しばらく待ってくれないか。話を聞きたい」
「は、ははッ!」

 兵らは即座に槍を立て、全員がその場で不動の姿勢を取った。これまでであれば、あまり見られない反応である。ユーリは思わず呆気にとられた。

(なんだ? 一体、どうしたんだ……?)

 首を傾げつつ、目の前の者たちに視線を戻す。
 ユーリが先を促すと、先頭でやってきた青年が、皆を代表するような形で口を開いた。

「この度の殿下の地方ご訪問の儀、我らも聞き及んでおりまする。我らはみな、そちらに、家族や親族を残してきております者で」
「ああ。そうなのか」
 要するに、地方に家族を置いたまま、自分ひとりで王宮仕えをしている者なのだろう。さぞや寂しいのに違いない。
「それで? 私に話したいことというのは」
「は、……はは」

 額から汗の雫を振り落としながら、青年は必死に語ってくれた。
 それでやっとユーリも理解した。
 彼らはここしばらくのユーリたちの活動について聞いている。今回、声をかけることができた難病の者、なにがしかの障害のある者は全体のごく一部だったわけだけれども、その噂はあっというまに帝国じゅうを駆け抜けたのだ。
 見れば青年は、いつのまにかうっすらと目に涙を浮かべている。

「殿下は先日、地方に住まう我が母をお救いくださったと聞いております。老いた母です。とある病がもとで長年、寝床についたきりの母でございます。それをこの度、海底皇国へお連れ下さり、病をお治しいただけるとのことで」
「……そうだったのか。あの中にご母堂が」
「はい。まことに、まことにありがとう存じます。殿下の御尊顔を拝する機会がありますれば、是非にも一度、感謝をお伝えせねばとお待ち申し上げていたのです!」
「い、いや。そんな……いいんだよ」
「わ、わたくしもです!」
 なんだか顔が熱くなってきて鼻の頭を掻いたら、今度は別の男が言った。こちらは中年に入ったほどの年齢の者である。
「わたくしの妻は、産後の肥立ちが悪く、ずっと寝付いておりました。その妻をお救いいただきました」
「わ、私は足の萎えた弟を!」
「胸の病を患った父を」
「母を」
「妹を──」

 人々が口々にそう叫び、神を拝まんばかりにしてユーリにひれ伏し、感謝の言葉を叫び続けている。
 ユーリはすっかり慌てて、顔の前で両手を振った。
「ま、まってくれ。私はなにもしていないから」
 そもそも、それらの病などを治して下さろうというのはあの玻璃殿だ。この者たちが感謝すべきは自分ではなく、あの玻璃皇子ではないか。

「しかし。そのハリ殿下とユーリ殿下はいずれ、伴侶となられるのだと聞き及びました」
「えっ……」
「ユーリ殿下がいてくださったからこそ、ハリ殿下も我らをお救いになろうと仰せになったのでしょう。でしたらやはり、これはユーリ殿下のお陰にございまする!」
「なにより、ご自身で民のもとへ行ってくださったではありませぬか」
「我らはみんな知っておりまする!」

 なんと。民はもう、そんな具体的なところまで把握しているというのか。
 別に悪事ではないけれど、民の噂はあっというまに千里を走る。
 

「ですが、殿下」と、そこで最初の男が遠慮がちに口を開いた。「実は殿下に選んでいただけなかった者らも、まだまだ数多くおりまする」
「あ……うん。そうだろうね」
 ひとつ頷いた途端、彼の背後から別の者らが、わっとユーリの足元に殺到してきた。

「我が兄は、生まれたときから耳が聞こえず」
「母はある日突然、体の半分が動かなくなり」
「幼い我が子が、いつまでも言葉をしゃべれず」
「父が──」
「祖父が──」

 おうおうと吠えるようにして、必死の嘆願の声が続く。それと共に、みなそれぞれに握りしめた書状を差し上げて、ユーリに受け取ってもらおうとする。恐らく嘆願書なのだろう。すでに泣いている者もいて、ユーリの胸は締めつけられた。

「わ、わかった。書状はロマンに渡してくれ。書状がない者については、後ほど詳しく話を聞く場を設ける。みんな、なるべく早く海底皇国へ連れて参れるよう計らうからな。そこは私が約束する。どうか安心してほしい」
「おおお!」
「ありがとう存じます、ユーリ殿下!」
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」

 感極まって男泣きに泣き出す男がいるかと思えば、足元で泣き崩れる老人がいる。小さな子供もいれば、女もいる。
 ユーリは困り果ててしまったが、とにかくこれだけは言っておかねばなるまいと、最後に必死で声を張り上げた。

「よいか。すべてが治ると約束されているわけではないからな。そこだけはみなも重々、心に留めておいてくれよ。海底皇国の科学力をもってしても、まだ治せぬ病というものがあるのだ。もしも万が一、治らなかったときに、決して玻璃殿下や海底皇国を恨むことのないように。わかったか?」
「は、ははあっ」

 先頭にいた青年を筆頭に、みなが声を揃えて平伏する。
 人々の嘆願書を受け取るようにとロマンに命じ、ユーリはそこでようやく前へ歩きだすことができた。ロマンは両手にいっぱいに書状を次々に押し付けられて、すぐに前も見えないような状態になる。横から黒鳶が手伝ってやっていた。
 「お願い申しまする、お願い申しまする」と手を合わせんばかりにする人々の間を抜けて、ユーリは王宮の建物に入った。

 居並ぶ王宮の者たちは、みな様々な表情でこちらを見ている。
 その目に以前までは確かにあった侮蔑の色が、はっきりと薄まっているような気がした。
 前であれば、自分が通り過ぎた途端にひそひそと陰口をたたいていた者。「国庫のお荷物よ」と小馬鹿にしていた者。何人かは、顔を覚えてしまっている者もいる。
 だが今はそういう人々でさえ、至極おとなしげな顔をして、大廊下の隅に控え、頭を垂れている。まるで、そんな過去はすっかり忘れたような顔で。
 ユーリはつい、苦笑してしまった。
 ……事程ことほど左様に、人間とは現金なものなのだ。

(まいったな……)

 それでもまだ服の下にこそばゆいものを覚えながら、ユーリは人々の作った道を抜け、まっすぐに父のもとを目指した。

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