110 / 195
第一章 彼方より来たりし者
4 失踪
しおりを挟むがちゃんと、持っていた紅茶のカップが音をたてた。
「なんだって? それは一体、どういうことだ……!?」
《文部科学局》の建物の一角で、ユーリは初めてその報告を受けた。貴賓の学習者のために設えられた、広々とした休憩室である。
言われたことがすぐには脳内で処理できず、ソファから腰を浮かしかけ、口をぱくぱくするばかり。
「お、……落ち着かれませ、配殿下」
そう言うロマンだって、顔はすっかり蒼白だ。
鰓手術と尾鰭の装着を終えた翌日から、ユーリたちはここを訪問し、遂にあの《すぴーど・らーにんぐ》とやらのお世話になる運びとなった。
玻璃が以前に教えてくれていた通り、それはなかなか手軽な勉強方法だった。映像と音声による魅力的なプログラムが組まれており、睡眠時に記憶を定着させるシステムも並行して使っていく。様々な工夫により、あの小さな兄妹たちですら楽に言語の習得ができるようになっているものだった。
ただし、玻璃は数日ですべてをこなし記憶したという話だったが、ユーリとロマンがこちら滄海の言葉をおおむね覚え込むまでには、十日ほどを要してしまった。
なんというか、そもそも言語のなりたちが基本からまるで違っている。
アルネリオなら大文字と小文字と多少の記述記号を覚えるだけで済むはずのところ、こちらの言語は同じ音をあらわす基本文字だけでも二種類ある(『カタカナ』と『ヒラガナ』という)うえ、数が倍ほどもある。都合、四倍の文字を覚えることになるのだ。
覚える文字はそればかりではない。それぞれに意味を持つ別の種類の文字(こちらは『カンジ』と呼称される)が、ほかに数千と存在するというのだから、気が遠くなる。
ともあれ、滄海の人々だってすべてを覚えているわけではないそうだ。
ということで、基本文字は必須として、ユーリたちは「カンジ」についてはひとまず一千字を目標に覚えていくことにした。随分あるように思うけれど、ここまでなら十やそこらの子供でもそこまでは普通に覚えている範囲だというのだから、まことに目が回りそうになる。相当がんばらなくてはならなかった。
しかし、逃げ出すわけには行かない。
自分はすでに、この国の皇太子の配偶者だ。こちらの国の言葉のひとつも話せない、公式文書を読み解くこともできないのでは、先々差し障りがありすぎるというものだ。
それに、なによりユーリはこちらの言語を話したかった。
玻璃の口から流れ出るとき、滄海のことばは流れるように雅やかで、まことに美しかったから。
できれば彼とこちらの言葉で、さまざまなことを話し、意思の疎通をはかってみたかったのだ。
まあそうは言っても、現実の勉強は大変だった。
ユーリはロマンにもめちゃくちゃに励まされながら、東宮とこことを毎日行き来して学習を続け、どうにかこうにかここ数日でそれなりの成果をあげられるようになってきたのだ。
その恐ろしい知らせが届いたのは、そんな感じでようやく学習の目処がついてきた頃のことだった。
「嘘でしょう? うそだと言ってくださいっ、波茜どの……!」
すらりとした細身の美しい女性官僚を前に、ユーリは身内がかたかたと震えてくるのを抑えられない。
隣に立つロマンも、ちょうど準備していた紅茶のポットを取り落とさないようにテーブルに置くだけで精一杯の様子だった。
「玻璃どのが……玻璃どのが、行方不明だなんて! こ、この滄海から、どうしてあの方が消えてしまうなんて、ことがっ……!」
「ユーリ様!」
ユーリはほとんど呼吸困難をおこし、吐き気をもよおして頭を抱えてしまう。ロマンが必死で支えてくれた。反対側から黒鳶のたくましい腕が同じように支えてくれなかったら、そのままソファから崩れ落ちていただろう。
報告にきた波茜自身ですら、背筋をのばし表情を変えまいと努力しながらもその顔は真っ青だった。いつもなら薔薇色の唇にも頬にも、まるで血の気らしいものがない。
「奇妙なこと続きだったのです。先日から木星近辺に出現していた巨大な船影。皇太子殿下の御命令で出撃した艦隊が、原因不明の事故に見舞われてしばし行動不能になり──」
「それ以前に、不具合を生じて滄海へ帰還していた重巡洋艦『あきかぜ』でも、不穏な事態があったとか」
「玻璃殿下がご失踪されたのは、そこからまもなくのことでした」
「その後、総点検に回されていた『あきかぜ』が何故か勝手に出航し、艦隊を大回りする形で航行して消息を絶ちました」
ユーリは指の間から波茜を見やった。
「そ、それに……玻璃どのが?」
その宇宙船に、玻璃が乗っていたというのだろうか。
「……恐らくは」
「いったい、それは──」
波茜は少し言葉を切った。が、やがて低く続けた。
「これは、海底皇国に対する明らかな攻撃です。かの者は迎撃にむかった宇宙艦隊を嬲るようにしておいて、実は事前にひそかに『あきかぜ』に侵入していたものでしょう。……ちょうど、そこの黒鳶のように姿を潜めて」
「…………」
ユーリとロマンが思わず黒鳶を見やってしまったものだから、彼はわずかに居心地の悪そうな顔になった。
「そうして皇太子殿下を狙い、攫い奉った……と、そのように考えます」
「そ、そんなっ……」
どうして。
一体どうして、玻璃どのが。
大体、何をしようと言うんだ。
玻璃どのを攫って、そいつに何の得がある……?
ぐらぐらと頭の芯が回る。
視界が暗く翳っていくのを覚えながら、ユーリはからからに乾いた舌を凍り付かせ、頭を抱えてうずくまった。
0
あなたにおすすめの小説
ノリで付き合っただけなのに、別れてくれなくて詰んでる
cheeery
BL
告白23連敗中の高校二年生・浅海凪。失恋のショックと友人たちの悪ノリから、クラス一のモテ男で親友、久遠碧斗に勢いで「付き合うか」と言ってしまう。冗談で済むと思いきや、碧斗は「いいよ」とあっさり承諾し本気で付き合うことになってしまった。
「付き合おうって言ったのは凪だよね」
あの流れで本気だとは思わないだろおおお。
凪はなんとか碧斗に愛想を尽かされようと、嫌われよう大作戦を実行するが……?
男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話を倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
「役立たず」と追放された神官を拾ったのは、不眠に悩む最強の騎士団長。彼の唯一の癒やし手になった俺は、その重すぎる独占欲に溺愛される
水凪しおん
BL
聖なる力を持たず、「穢れを祓う」ことしかできない神官ルカ。治癒の奇跡も起こせない彼は、聖域から「役立たず」の烙印を押され、無一文で追放されてしまう。
絶望の淵で倒れていた彼を拾ったのは、「氷の鬼神」と恐れられる最強の竜騎士団長、エヴァン・ライオネルだった。
長年の不眠と悪夢に苦しむエヴァンは、ルカの側にいるだけで不思議な安らぎを得られることに気づく。
「お前は今日から俺専用の癒やし手だ。異論は認めん」
有無を言わさず騎士団に連れ去られたルカの、無能と蔑まれた力。それは、戦場で瘴気に蝕まれる騎士たちにとって、そして孤独な鬼神の心を救う唯一の光となる奇跡だった。
追放された役立たず神官が、最強騎士団長の独占欲と溺愛に包まれ、かけがえのない居場所を見つける異世界BLファンタジー!
イケメン後輩のスマホを拾ったらロック画が俺でした
天埜鳩愛
BL
☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです!
元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。
持ち主は、顔面国宝の一年生。
なんで俺の写真? なんでロック画?
問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。
頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ!
☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。
平凡ワンコ系が憧れの幼なじみにめちゃくちゃにされちゃう話(小説版)
優狗レエス
BL
Ultra∞maniacの続きです。短編連作になっています。
本編とちがってキャラクターそれぞれ一人称の小説です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる