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序章
プロローグ
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《めざめよ。めざめよ……》
どこか遠くで声がする。
男のようでもあり、女のようでもあり。
年老いた者のようでもあり、あるいは幼子のようでもあり。
聞き覚えがあるようでもあり、まったく知らないようでもあり──
(だれ、なの……?)
ねっとりと重たい液体の中を漂うような朦朧とした意識のまま、びっちりと閉じた自分の瞼を引き上げようとするが、どんなに頑張っても無理だった。
ひどい頭痛がする。灼けるように喉がひりついている。
水が欲しい。
全身を疲労と痛みが包んでいる。
──いやだ。
もっと眠っていたい。
せめて深く眠っていれば、その短い間だけでもこの苦痛から解放される。
傷つけられた皮膚や筋肉、骨の痛みを感じることもない。
残酷な欲望に食いちぎられ、暴虐の限りを尽くされたこの体のどこにも、もう一片の「無事な」場所も存在しない。
……ただ、眠っていたいのだ。
割れ鐘のような親方の荒々しい声が鼓膜をやぶり、すかさず振り下ろされる残酷な鞭が無理やりに覚醒を押しつけてくる、その瞬間まで。
大昔、まだ物心もつく前に感じたほんのわずかの温かさを思い出しているだけでいい。
そのぐらいの「安らぎ」が、許されたっていいではないか。
こんなところに囚われて、ただただ惨い男どもの欲望の捌け口にされるばかりのこんな命。
そんな命に、ほんのわずかばかりの恵みを与えてくれたからといって、だれが詰るというのだろう……?
《めざめよ、……。めざめよ、一刻も早く》
だがその声だけはどうしても自分を解放してくれない。
どうやら自分の名を呼んでいるようなのだが、その名に聞き覚えはない。いや、むしろ自分にはそもそも名前なんていうぜいたくなものはない。
お前はだれだ?
こんな路傍のゴミにも劣る自分に、いったい何を求めている……?
《感じよ。そなたの中にあるそれの、……まことの、力を》
──『それ』?
それ、とはなんだ。力とは?
そう思った拍子に、ブウン、と奇妙なうなりが自分の胸もとで湧きおこった。
熱い。火傷をしそうなその熱が、胸を内側から焼き焦がしてしまいそうだ。
(なに……? なんな、の──)
そこまでだった。
「貴様! いつまでぐずぐずと寝てやがるんだッ! いい加減起きねえかっ!」
耳をつんざくダミ声とともに、打ち下ろされてくる無情な鞭の衝撃で、少年はハッと目をあけた。
と同時にとびすさる。
そうしなければ、また余計な傷が皮膚に走ることになるからだ。
だがうまくはいかない。すぐに首と片足に嵌められた金属の枷が自由を奪う。押し込められた饐えた臭いの充満する豚小屋のような場所で、少年は必死にもがき、鞭から逃げまどうしかない。
すでに打たれた背中の皮膚が少し裂け、衝撃のあとからじわじわと痛みに変わっていくのを感じる。身にまとうのは、やっと腰を隠すばかりのぼろぼろの荒布だけだ。
「さっさと食え。お客様がお待ちなんだからな!」
がしゃん、と目の前に放り出された皿には、ほとんど水でしか構成されていない粥のようなものが入っている。
匂いに敏感な少年の鼻には耐えがたいほどの腐臭。
だがそれを食う以外、ここで与えられるものはないのだ。
少年は床に這いつくばり、皿を抱えこむようにしてぴちゃぴちゃと粥を舐めた。投げられた拍子に床に飛び散ったものまで、丁寧に舐める。
「お客様のところへいく前に、水浴びはするんだぞ! さっさとしろ!」
親方の怒号が、狼の形をした耳に突き刺さる。
くうん、と軽く鼻を鳴らして、少年はのろのろと豚小屋を出た。ひきずる足の鎖の先には、重い金属製の玉がつけられている。ちゃりちゃり、ずるずると陰鬱な音が自分のあとをついてくる。
今日もまた、「仕事」が始まる。
今日が終われば明日。つぎは明後日。
どこまでも終わらない、なにをどうやっても逃げることは叶わない、真っ黒なトンネルのような日々。
ここはただただ、地獄なのだ──。
どこか遠くで声がする。
男のようでもあり、女のようでもあり。
年老いた者のようでもあり、あるいは幼子のようでもあり。
聞き覚えがあるようでもあり、まったく知らないようでもあり──
(だれ、なの……?)
ねっとりと重たい液体の中を漂うような朦朧とした意識のまま、びっちりと閉じた自分の瞼を引き上げようとするが、どんなに頑張っても無理だった。
ひどい頭痛がする。灼けるように喉がひりついている。
水が欲しい。
全身を疲労と痛みが包んでいる。
──いやだ。
もっと眠っていたい。
せめて深く眠っていれば、その短い間だけでもこの苦痛から解放される。
傷つけられた皮膚や筋肉、骨の痛みを感じることもない。
残酷な欲望に食いちぎられ、暴虐の限りを尽くされたこの体のどこにも、もう一片の「無事な」場所も存在しない。
……ただ、眠っていたいのだ。
割れ鐘のような親方の荒々しい声が鼓膜をやぶり、すかさず振り下ろされる残酷な鞭が無理やりに覚醒を押しつけてくる、その瞬間まで。
大昔、まだ物心もつく前に感じたほんのわずかの温かさを思い出しているだけでいい。
そのぐらいの「安らぎ」が、許されたっていいではないか。
こんなところに囚われて、ただただ惨い男どもの欲望の捌け口にされるばかりのこんな命。
そんな命に、ほんのわずかばかりの恵みを与えてくれたからといって、だれが詰るというのだろう……?
《めざめよ、……。めざめよ、一刻も早く》
だがその声だけはどうしても自分を解放してくれない。
どうやら自分の名を呼んでいるようなのだが、その名に聞き覚えはない。いや、むしろ自分にはそもそも名前なんていうぜいたくなものはない。
お前はだれだ?
こんな路傍のゴミにも劣る自分に、いったい何を求めている……?
《感じよ。そなたの中にあるそれの、……まことの、力を》
──『それ』?
それ、とはなんだ。力とは?
そう思った拍子に、ブウン、と奇妙なうなりが自分の胸もとで湧きおこった。
熱い。火傷をしそうなその熱が、胸を内側から焼き焦がしてしまいそうだ。
(なに……? なんな、の──)
そこまでだった。
「貴様! いつまでぐずぐずと寝てやがるんだッ! いい加減起きねえかっ!」
耳をつんざくダミ声とともに、打ち下ろされてくる無情な鞭の衝撃で、少年はハッと目をあけた。
と同時にとびすさる。
そうしなければ、また余計な傷が皮膚に走ることになるからだ。
だがうまくはいかない。すぐに首と片足に嵌められた金属の枷が自由を奪う。押し込められた饐えた臭いの充満する豚小屋のような場所で、少年は必死にもがき、鞭から逃げまどうしかない。
すでに打たれた背中の皮膚が少し裂け、衝撃のあとからじわじわと痛みに変わっていくのを感じる。身にまとうのは、やっと腰を隠すばかりのぼろぼろの荒布だけだ。
「さっさと食え。お客様がお待ちなんだからな!」
がしゃん、と目の前に放り出された皿には、ほとんど水でしか構成されていない粥のようなものが入っている。
匂いに敏感な少年の鼻には耐えがたいほどの腐臭。
だがそれを食う以外、ここで与えられるものはないのだ。
少年は床に這いつくばり、皿を抱えこむようにしてぴちゃぴちゃと粥を舐めた。投げられた拍子に床に飛び散ったものまで、丁寧に舐める。
「お客様のところへいく前に、水浴びはするんだぞ! さっさとしろ!」
親方の怒号が、狼の形をした耳に突き刺さる。
くうん、と軽く鼻を鳴らして、少年はのろのろと豚小屋を出た。ひきずる足の鎖の先には、重い金属製の玉がつけられている。ちゃりちゃり、ずるずると陰鬱な音が自分のあとをついてくる。
今日もまた、「仕事」が始まる。
今日が終われば明日。つぎは明後日。
どこまでも終わらない、なにをどうやっても逃げることは叶わない、真っ黒なトンネルのような日々。
ここはただただ、地獄なのだ──。
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