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第四章 皇帝と魔塔
1 拝謁
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シディがインテス殿下に連れられて皇宮に行ったのは、それから数日後のことだった。一応、遂に発見された《救国の半身》として皇帝陛下に拝謁しなければならないらしい。
その日は早朝から、シディは風呂に入れられて念入りに身づくろいをされ、今まで見たこともないような綺麗な装飾のある衣とマントを着せられた。
「準備はできたか? シディ」
迎えに来たインテス殿下は、皇子としての正装らしい格好だった。とはいえシディにはどれが正装でどれがそうでないかなんてわからないのだが。
インテスはシディの様子を少し離れた場所から上から下まで矯めつ眇めつした挙げ句、満足そうに吐息をもらした。
「……うん。素晴らしく可愛い。さすがはシディだ、何を着ても似合う」
「いえあの、殿下……」
なにが「可愛い」のだろうか。そしてなにが「さすがは」なのか。まったくいつもいつも、この人は。だいぶ慣れてきたとはいえ、やっぱりこの殿下の不思議な審美眼がシディにはよくわからない。
ちょっと文句でも言いたくなるけれど、ぐっと堪える。だってそれでは、せっかく身の回りを担当する侍従や侍女さんたちが頑張って準備してくれたことを無碍にすることになってしまうから。
胸のところにはもちろん、先日殿下からいただいたあの首飾りを下げている。
「さあ、参ろう」
当然のように腕を差し出されて、シディはその肘のところにおずおずと腕を回した。なんとなく、これではどこぞの貴婦人みたいな扱いだ。
ふたりの背後からはティガリエが、武官としての正装に身を包み、例によってほとんど足音もたてないでついてきている。
皇宮まで四頭だての馬車に揺られている間、インテス殿下はひどく緊張しているシディの気持ちをあれこれとほぐそうとしてくれた。
「なに、皇帝などとは言っているが、あれは単なる女ばかり侍らしているモウロク色ボケじじいだからな」なんて、かなりひどいことも言い放った。
実際、いまの皇帝は周囲の宰相やら国務大臣やらといった者たちに政治のほとんどを任せており、自分は後宮に入り浸っていることが多いらしい。すでに結構な高齢なのに、夜のほうばかりお盛んなのだという噂は、あの売春宿にすら聞こえてきていた。
「そなたはあまり気にせず、黙って私の隣にいればいい。私が礼をすれば同じように頭を下げる程度でいいのだ。受け答えはすべて私がするゆえ」
な、と言って頭をぽすぽすされて、やっと少し息が吸えるような気持ちになる。それでもまだ、足や手の震えは止まらなかったが。
皇宮には四半刻ほどで到着した。
皇宮の大門前にはものものしい様子をした衛兵と、金糸銀糸で飾られた帝国旗がずらりと並び、風にゆるくはためいていた。門を入ってからもしばらくは手入れのゆきとどいた広い前庭の中を進み、宮の建物前でようやく馬車を降りる。
やっぱり大きな建物だ。シディの目からでは、いったいどのぐらいの大きさのものなのかすらよくわからない。
天井の高い回廊の奥から迎えに出てきた中年男は、キツネの顔できらびやかな文官服に身を包んでいた。これが宰相であるらしい。
ふさふさした黄金色の尻尾だけは可愛く見えたが、目つきがなんともいえずイヤな感じのする男だ。ついでに奇妙な臭いもする。深く付き合ってもろくなことはなさそうだ。
というわけで、シディはこの男にはちらっと視線を走らせただけで目をそらした。
そのまま拝謁のための大広間へ案内される間も、帝都の大通りのように広い回廊が続いた。その両脇には鎧を着こんだ無骨な衛兵たちが、まるで彫像のようにずうっと立ち並んでいた。
足もとにはつるつるに磨かれた大理石の板が敷き詰められている。あんまりよく磨きこまれているので、まるで水面のようにシディたちの姿を映した。
インテス殿下はもの慣れた顔ですいすい歩くが、シディはずっとおっかなびっくりだ。彼の腕につかまっていなかったら、とっくに足を絡ませて転んでしまっていたかもしれない。
やがて広間にたどりつくと、その中央部、雛壇の手前のところでみなで跪き、皇帝のお出ましを待った。
先触れの文官の奇妙に高い声が響いても、インテス殿下は頭をさげたままだった。隣のシディもそれに倣う。
だが、目にする前から多くのことが分かっていた。
いかにも重そうな足取りと衣擦れの音。そして、鼻が曲がりそうなほどに焚きしめられた香料のにおい……。非常にきついにおいだ。それはほとんど臭気と言ってもいいほどのもので、思わず鼻を覆ってしまいたくなるのを必死にこらえた。
「久しいな、インテグリータス。我が栄えあるアチーピタ家の第五皇子よ。遠慮はいらぬ。面をあげよ」
初老の男の声は、まるで肉汁がだらしなくしみだすところを連想させた。そのゆるみきった声を聞いて、インテスはようやく顔をあげた。シディもおそるおそる顔をあげる。
皇帝だけかと思ったら、雛壇の上には派手な格好をした妃らしい女性が数名と、皇子たちが数名ずつ座っていた。その脇にいるの中年や初老の男たちは大臣らしい。
いかにも鈍重な皇帝の声に対して、インテス殿下の声は凛と響いた。清冽な滝のしぶきが澱んだ空気を蹴散らしたかのように爽やかだ。
「皇帝陛下にはごきげんうるわしゅう。ご尊顔を拝する栄誉にあずかり、恐悦至極に存じまする」
「相変わらず固いのう」
ふおっほほほ、とこれまただらしのない哄笑が聞こえた。それと同時に、鼻のひん曲がりそうな口臭が空気を伝わってきて、気を失いそうになる。
(……この人、もしかして)
少年の敏感な鼻は、人の心のありようとともに健康状態まで嗅ぎ分ける場合があった。売春宿にやってきた客の中にも、こんな臭いをさせていた男たちが何人かいたものだ。あとで聞いたら、その後わりとすぐに死んでしまったなんて話もあった──。
もしかするとこの人も、何らかの病に冒されているのでは。
「して、その者が例のアレか」
「は。長年探し求め、やっと先般見つけ出すことが叶いました、我が半身にございます」
「ふむ……?」
皇帝は、ぶよぶよとたるんだ皮膚でふちどられた、どんよりした黄色い目でシディを見下ろした。
じっとりと湿ったいやな感じの視線だった。
その日は早朝から、シディは風呂に入れられて念入りに身づくろいをされ、今まで見たこともないような綺麗な装飾のある衣とマントを着せられた。
「準備はできたか? シディ」
迎えに来たインテス殿下は、皇子としての正装らしい格好だった。とはいえシディにはどれが正装でどれがそうでないかなんてわからないのだが。
インテスはシディの様子を少し離れた場所から上から下まで矯めつ眇めつした挙げ句、満足そうに吐息をもらした。
「……うん。素晴らしく可愛い。さすがはシディだ、何を着ても似合う」
「いえあの、殿下……」
なにが「可愛い」のだろうか。そしてなにが「さすがは」なのか。まったくいつもいつも、この人は。だいぶ慣れてきたとはいえ、やっぱりこの殿下の不思議な審美眼がシディにはよくわからない。
ちょっと文句でも言いたくなるけれど、ぐっと堪える。だってそれでは、せっかく身の回りを担当する侍従や侍女さんたちが頑張って準備してくれたことを無碍にすることになってしまうから。
胸のところにはもちろん、先日殿下からいただいたあの首飾りを下げている。
「さあ、参ろう」
当然のように腕を差し出されて、シディはその肘のところにおずおずと腕を回した。なんとなく、これではどこぞの貴婦人みたいな扱いだ。
ふたりの背後からはティガリエが、武官としての正装に身を包み、例によってほとんど足音もたてないでついてきている。
皇宮まで四頭だての馬車に揺られている間、インテス殿下はひどく緊張しているシディの気持ちをあれこれとほぐそうとしてくれた。
「なに、皇帝などとは言っているが、あれは単なる女ばかり侍らしているモウロク色ボケじじいだからな」なんて、かなりひどいことも言い放った。
実際、いまの皇帝は周囲の宰相やら国務大臣やらといった者たちに政治のほとんどを任せており、自分は後宮に入り浸っていることが多いらしい。すでに結構な高齢なのに、夜のほうばかりお盛んなのだという噂は、あの売春宿にすら聞こえてきていた。
「そなたはあまり気にせず、黙って私の隣にいればいい。私が礼をすれば同じように頭を下げる程度でいいのだ。受け答えはすべて私がするゆえ」
な、と言って頭をぽすぽすされて、やっと少し息が吸えるような気持ちになる。それでもまだ、足や手の震えは止まらなかったが。
皇宮には四半刻ほどで到着した。
皇宮の大門前にはものものしい様子をした衛兵と、金糸銀糸で飾られた帝国旗がずらりと並び、風にゆるくはためいていた。門を入ってからもしばらくは手入れのゆきとどいた広い前庭の中を進み、宮の建物前でようやく馬車を降りる。
やっぱり大きな建物だ。シディの目からでは、いったいどのぐらいの大きさのものなのかすらよくわからない。
天井の高い回廊の奥から迎えに出てきた中年男は、キツネの顔できらびやかな文官服に身を包んでいた。これが宰相であるらしい。
ふさふさした黄金色の尻尾だけは可愛く見えたが、目つきがなんともいえずイヤな感じのする男だ。ついでに奇妙な臭いもする。深く付き合ってもろくなことはなさそうだ。
というわけで、シディはこの男にはちらっと視線を走らせただけで目をそらした。
そのまま拝謁のための大広間へ案内される間も、帝都の大通りのように広い回廊が続いた。その両脇には鎧を着こんだ無骨な衛兵たちが、まるで彫像のようにずうっと立ち並んでいた。
足もとにはつるつるに磨かれた大理石の板が敷き詰められている。あんまりよく磨きこまれているので、まるで水面のようにシディたちの姿を映した。
インテス殿下はもの慣れた顔ですいすい歩くが、シディはずっとおっかなびっくりだ。彼の腕につかまっていなかったら、とっくに足を絡ませて転んでしまっていたかもしれない。
やがて広間にたどりつくと、その中央部、雛壇の手前のところでみなで跪き、皇帝のお出ましを待った。
先触れの文官の奇妙に高い声が響いても、インテス殿下は頭をさげたままだった。隣のシディもそれに倣う。
だが、目にする前から多くのことが分かっていた。
いかにも重そうな足取りと衣擦れの音。そして、鼻が曲がりそうなほどに焚きしめられた香料のにおい……。非常にきついにおいだ。それはほとんど臭気と言ってもいいほどのもので、思わず鼻を覆ってしまいたくなるのを必死にこらえた。
「久しいな、インテグリータス。我が栄えあるアチーピタ家の第五皇子よ。遠慮はいらぬ。面をあげよ」
初老の男の声は、まるで肉汁がだらしなくしみだすところを連想させた。そのゆるみきった声を聞いて、インテスはようやく顔をあげた。シディもおそるおそる顔をあげる。
皇帝だけかと思ったら、雛壇の上には派手な格好をした妃らしい女性が数名と、皇子たちが数名ずつ座っていた。その脇にいるの中年や初老の男たちは大臣らしい。
いかにも鈍重な皇帝の声に対して、インテス殿下の声は凛と響いた。清冽な滝のしぶきが澱んだ空気を蹴散らしたかのように爽やかだ。
「皇帝陛下にはごきげんうるわしゅう。ご尊顔を拝する栄誉にあずかり、恐悦至極に存じまする」
「相変わらず固いのう」
ふおっほほほ、とこれまただらしのない哄笑が聞こえた。それと同時に、鼻のひん曲がりそうな口臭が空気を伝わってきて、気を失いそうになる。
(……この人、もしかして)
少年の敏感な鼻は、人の心のありようとともに健康状態まで嗅ぎ分ける場合があった。売春宿にやってきた客の中にも、こんな臭いをさせていた男たちが何人かいたものだ。あとで聞いたら、その後わりとすぐに死んでしまったなんて話もあった──。
もしかするとこの人も、何らかの病に冒されているのでは。
「して、その者が例のアレか」
「は。長年探し求め、やっと先般見つけ出すことが叶いました、我が半身にございます」
「ふむ……?」
皇帝は、ぶよぶよとたるんだ皮膚でふちどられた、どんよりした黄色い目でシディを見下ろした。
じっとりと湿ったいやな感じの視線だった。
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