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第四章 皇帝と魔塔
2 治癒と病
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「殿下。殿下っ……」
「落ち着け、シディ。まずはしっかり呼吸するんだ」
シディがこの謁見のあらゆる不快さからやっと逃れられたのは、帰りの馬車に逃げ込むようにして飛びこんだ時だった。それでやっと、シディは胸いっぱいに息を吸って、吐くことができた。
すぐに気になっていたことを殿下に訴えようとしたのだが、息が苦しくてなかなかうまくいかない。殿下はすぐに馬車を出発させ、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しているシディの背中をしばらく優しくさすってくれた。
「大丈夫か、シディ。すまなかったな。敏感で鼻のいいそなたには、さぞやつらい時間だったろう」
「いえ。それは……」
いいんですけど、と言いながら殿下の袖をつかむ。
「それより、殿下。皇帝陛下は、その……」
「ん?」
思わずキョロキョロしてしまい、「失礼します」と殿下の隣に座りなおして耳に口を寄せる。こんな話、だれか耳のいい人に聞かれでもしたら大変だ。いま近くにいるのは御者と、そばで馬で歩ませているティガリエだけだとはわかっていても。
なるべく声を落とし、ぼそぼそと殿下の耳に囁く。すると、なぜか殿下が少しだけ頬を染めたみたいに見えた。
「陛下、もしかして……重い病じゃないですか? その、ニオイが……」
「ああ。やっぱりそなたにはわかったか」
殿下は意外にもあっさりそう言って笑っただけだった。そのままシディの背中を抱き寄せ、頭を軽く撫でてくださる。「よしよし」とするみたいに。
「実は皇族の一部と、侍医、政府の高官らもすでに知っている。あの男の先はもう長くない」
「ええっ……」
まだ老衰で死ぬほどの年齢とは見えなかったから、やっぱり病気なのだろう。それもかなり重い、不治の病。
「でもあの、キュレイトー様とか──」
この国には優秀な治癒師がたくさんいるはず。そういう人にも治せない病なのだろうか?
そう訊ねたら、殿下は「ああ」と首を上下させた。
「もう優秀なご典医でも、治癒師でも治しきれない。口にこそ出さぬが、あのキュレイトーなどとっくに匙を投げている。理由は簡単。なによりあの男のあの邪悪さが、けがれなく優れた治癒師の力を跳ね返してしまうのよ。……自業自得、というやつだな」
「ええっ」
そんなことがあるのか? 初耳だ。
「先日も言ったとおりだ。魔法はその者の本質と切っても切れぬ関係にある。治癒というのは究極の良心、他者への憐れみの心あってこそ有効な発動をするもの。キュレイトーを見ていればわかるだろう?」
「あ──」
「あの皇帝には、もはやその良い力を受け入れる素地すら残っておらぬ。あの魑魅魍魎が住まう皇宮で、ありとあらゆる陰謀と悪行に手を染めてきた御仁よ。あまりといえばあまりに、穢れにまみれた人生を送ってきてしまったものでな」
「…………」
そうなのか。
でも、この人はそれでちっとも悲しそうでもなんでもなさそうだ。多少困ったような、諦めたようなお顔をされているだけで。一応、実の父親なのだろうに。
不思議そうなシディの視線に気付いたのか、殿下は軽く苦笑した。
「すまぬ。さぞや薄情な息子と思うだろうな」
「いっ、いえ」
的確に言い当てられてどぎまぎしてしまった。
「が、どうしても私にはあの男に対して、息子としての親密な情を抱くことができなくてな」
「…………」
「あの男が死んだところで、皇太子である長兄が後を継ぐだけのこと。第五皇子にすぎぬ私の名など、そもそも候補にも挙がらぬ。この《救国の半身》としての義務があるために、多少ほかの皇子より大事にされてはいるがな」
インテス殿下は、なにか非常に薄汚いもののことを敢えて口にしているかのように不快そうな顔と声だった。匂いもそうだ。いつも爽やかでひたすらに魅力的な彼の匂いが、今ばかりはすこし曇った湿っぽいものに変化している。
(いったい、何があったんだろう)
なんとなく気が塞ぐような気分になって「くうん」と殿下の肩に顔を寄せたら、「あっ」と殿下が慌てたように笑みを作った。シディを心配させまいとしているのは明らかだった。
「すまぬ。そなたには直接関係のないことよな。不快な思いをさせて申し訳なかった。許してくれ、シディ」
「いっ、いえ!」
「そんな顔をしないでくれ。さあ、とにかくもう、これであの男への挨拶は済んだのだ。義務は果たした。そなたは何も気にする必要はない。あとは今日一日、心楽しく過ごそうではないか」
「殿下……」
「そうだ。部屋で勉強ばかりしているのも退屈だろう? 社会勉強がてら、今から一緒に出掛けるのはどうだ?」
「えっ」
「魔塔の者らも、そなたの顔をひと目みたいとずっと手紙を送って来ているのだ。まだそなたが新しい環境に慣れないゆえ、ずっと断っていたのだが。そなたさえいいなら、魔塔のある島へ出かけるのも一興だろう」
「魔塔の……島? ですか?」
「ああ、そうだ。飛翔の魔法を使えばひとっ飛びだが、船旅もまた楽しいぞ」
「ふ、船!?」
船なんて、ほとんど見たこともない。乗ったことなんてもちろん一度もなかった。あの売春宿の親父は、奴隷の少年少女をつれて国の外へ出たことがなかったからだ。みんなのために船賃を払うのを渋ったのだろう。
(インテス様と、船旅……)
なんだかわくわくする。
さっきまでぺしょんと下がっていた少年の耳はぴんと立って、しっぽはぴしぴしと馬車の壁を打ちはじめた。……まったく、感情が隠せなくて困ってしまう。
「落ち着け、シディ。まずはしっかり呼吸するんだ」
シディがこの謁見のあらゆる不快さからやっと逃れられたのは、帰りの馬車に逃げ込むようにして飛びこんだ時だった。それでやっと、シディは胸いっぱいに息を吸って、吐くことができた。
すぐに気になっていたことを殿下に訴えようとしたのだが、息が苦しくてなかなかうまくいかない。殿下はすぐに馬車を出発させ、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しているシディの背中をしばらく優しくさすってくれた。
「大丈夫か、シディ。すまなかったな。敏感で鼻のいいそなたには、さぞやつらい時間だったろう」
「いえ。それは……」
いいんですけど、と言いながら殿下の袖をつかむ。
「それより、殿下。皇帝陛下は、その……」
「ん?」
思わずキョロキョロしてしまい、「失礼します」と殿下の隣に座りなおして耳に口を寄せる。こんな話、だれか耳のいい人に聞かれでもしたら大変だ。いま近くにいるのは御者と、そばで馬で歩ませているティガリエだけだとはわかっていても。
なるべく声を落とし、ぼそぼそと殿下の耳に囁く。すると、なぜか殿下が少しだけ頬を染めたみたいに見えた。
「陛下、もしかして……重い病じゃないですか? その、ニオイが……」
「ああ。やっぱりそなたにはわかったか」
殿下は意外にもあっさりそう言って笑っただけだった。そのままシディの背中を抱き寄せ、頭を軽く撫でてくださる。「よしよし」とするみたいに。
「実は皇族の一部と、侍医、政府の高官らもすでに知っている。あの男の先はもう長くない」
「ええっ……」
まだ老衰で死ぬほどの年齢とは見えなかったから、やっぱり病気なのだろう。それもかなり重い、不治の病。
「でもあの、キュレイトー様とか──」
この国には優秀な治癒師がたくさんいるはず。そういう人にも治せない病なのだろうか?
そう訊ねたら、殿下は「ああ」と首を上下させた。
「もう優秀なご典医でも、治癒師でも治しきれない。口にこそ出さぬが、あのキュレイトーなどとっくに匙を投げている。理由は簡単。なによりあの男のあの邪悪さが、けがれなく優れた治癒師の力を跳ね返してしまうのよ。……自業自得、というやつだな」
「ええっ」
そんなことがあるのか? 初耳だ。
「先日も言ったとおりだ。魔法はその者の本質と切っても切れぬ関係にある。治癒というのは究極の良心、他者への憐れみの心あってこそ有効な発動をするもの。キュレイトーを見ていればわかるだろう?」
「あ──」
「あの皇帝には、もはやその良い力を受け入れる素地すら残っておらぬ。あの魑魅魍魎が住まう皇宮で、ありとあらゆる陰謀と悪行に手を染めてきた御仁よ。あまりといえばあまりに、穢れにまみれた人生を送ってきてしまったものでな」
「…………」
そうなのか。
でも、この人はそれでちっとも悲しそうでもなんでもなさそうだ。多少困ったような、諦めたようなお顔をされているだけで。一応、実の父親なのだろうに。
不思議そうなシディの視線に気付いたのか、殿下は軽く苦笑した。
「すまぬ。さぞや薄情な息子と思うだろうな」
「いっ、いえ」
的確に言い当てられてどぎまぎしてしまった。
「が、どうしても私にはあの男に対して、息子としての親密な情を抱くことができなくてな」
「…………」
「あの男が死んだところで、皇太子である長兄が後を継ぐだけのこと。第五皇子にすぎぬ私の名など、そもそも候補にも挙がらぬ。この《救国の半身》としての義務があるために、多少ほかの皇子より大事にされてはいるがな」
インテス殿下は、なにか非常に薄汚いもののことを敢えて口にしているかのように不快そうな顔と声だった。匂いもそうだ。いつも爽やかでひたすらに魅力的な彼の匂いが、今ばかりはすこし曇った湿っぽいものに変化している。
(いったい、何があったんだろう)
なんとなく気が塞ぐような気分になって「くうん」と殿下の肩に顔を寄せたら、「あっ」と殿下が慌てたように笑みを作った。シディを心配させまいとしているのは明らかだった。
「すまぬ。そなたには直接関係のないことよな。不快な思いをさせて申し訳なかった。許してくれ、シディ」
「いっ、いえ!」
「そんな顔をしないでくれ。さあ、とにかくもう、これであの男への挨拶は済んだのだ。義務は果たした。そなたは何も気にする必要はない。あとは今日一日、心楽しく過ごそうではないか」
「殿下……」
「そうだ。部屋で勉強ばかりしているのも退屈だろう? 社会勉強がてら、今から一緒に出掛けるのはどうだ?」
「えっ」
「魔塔の者らも、そなたの顔をひと目みたいとずっと手紙を送って来ているのだ。まだそなたが新しい環境に慣れないゆえ、ずっと断っていたのだが。そなたさえいいなら、魔塔のある島へ出かけるのも一興だろう」
「魔塔の……島? ですか?」
「ああ、そうだ。飛翔の魔法を使えばひとっ飛びだが、船旅もまた楽しいぞ」
「ふ、船!?」
船なんて、ほとんど見たこともない。乗ったことなんてもちろん一度もなかった。あの売春宿の親父は、奴隷の少年少女をつれて国の外へ出たことがなかったからだ。みんなのために船賃を払うのを渋ったのだろう。
(インテス様と、船旅……)
なんだかわくわくする。
さっきまでぺしょんと下がっていた少年の耳はぴんと立って、しっぽはぴしぴしと馬車の壁を打ちはじめた。……まったく、感情が隠せなくて困ってしまう。
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