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閑話
閑話(1)
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その少年に「黒曜石」の名を与えたのは、本当に直感的なものだった。
薄汚い売春宿の檻車の前で、醜く太った親方に今にも折檻されそうになっていたみすぼらしい少年。ずたずたにされた耳としっぽ、そして皮膚。おびえきった黒い瞳。涙に汚れた頬。
(なんということを──)
彼をはじめてこの目で見たとき湧きおこった、あの感情。
熱さと、衝撃と。
そして、自分にとってこんなにも大切な人に惨い虐待を加えようとする、ありとあらゆるものに対する憎悪と。
「美味しいかい、シディ。食後にはこちらの料理人自慢の焼き菓子もあるからな」
「は、はい……インテス様」
すでに出されている料理の数々で頬をいっぱいに膨らませながら、可愛い人が一生懸命に咀嚼をくり返している。
蜂蜜をたっぷり絡めた焼き菓子の乗った皿を彼のほうへ押しやってやりながら、インテスの心に広がるのはただただ、この人を愛おしいという気持ちと、守ってやりたいという泣きたくなるような、また捩れるような望みだ。
(ようやく会えた。……そなたに)
自分は生まれた時から、ある種の渇望を感じ続けてきた。
記憶にあるわけではないが、当時自分を世話してくれていた乳母や母からよく聞かされていた話なのだ。しっかり乳をもらい、睡眠もおむつもいっさい問題のない状態にしても、自分はよくぐずる赤ん坊だったらしい。
──何かが足りない。なにか……なにかが。
長じるに従って、その渇望がなんであるかが少しずつわかっていくような気がした。自分のそばに、なにかがひとつ足りないのだということが。
やがて自分が《救国の半身》であるとの神託を受けた者であることを知り、その渇望の正体を知った。
自分はいつか、その《半身》に会うことになる。
そしてこの世を救う者になるというのだ。
だが当時の自分には、そんな実感はまるでなかった。
いきなり「世界を救う」などと言われても、そもそも普通の少年にそんな実感が湧くはずもない。
見てくれや血筋はともかく、自分は普通の少年だったから。
だが、それでもともかくその「渇望」は存在しつづけた。
だが不思議なことに、とある年齢になった瞬間、突然その「渇望」は消失した。
いきなりなにもない空間に放り出されたような感じだった。胸の中に大きく空虚な穴があき、少年インテスはわけもわからず、自室で数日を泣いて過ごした。
母はそんな息子をひどく心配したものだ。
が、やがてその涙の日々が過ぎさると、少年はまた普段の皇族としての毎日に戻った。
神聖シンチェリターテ帝国は一夫多妻制を認めている国だ。その頂点に立つ皇帝である父には、幾人もの妃がいた。正妃も何人か息子を生んだが、側妃の一人だった自分の母は、皇帝に五番目の息子を与えた。それが自分だ。
妃の身分が低いことは、そのまま皇子のその後の人生を決定づけることが多い。ただしそれも、程度による。
正妃をはじめとする他の妃が生んだ皇子たちは、いずれもどこかに瑕疵があった。まず体が弱い。いつも寝床にいて、医者が離れる隙もないのがいるかと思えば、ひどく愚鈍でなかなか皇族としての教育が身につかないのもいる。武術や兵站の知識などがからっきしで戦闘に向かないのも多い。
そのくせ女癖や男癖は最悪で、周囲に見目のいいのをたくさん侍らせ、贅沢な暮らしを当然のものと享受しては国庫を圧迫する。ひどく利己的で、自分で得た身分でもないのに無闇に他人に威張り散らし、下の者をわけもなく虐めたがる。そういう皇子がいくらでもいた。
少しでも逆らう様子を見せた者には残酷な刑罰をうけさせ、その悲鳴を肴に酒を食らう者すらいるのだ。ところが皇帝たる父は彼らを特に叱責もしない。むしろ自分自身が彼らの「いいお手本」といったぐらいな存在だったのだ。
その事実を知ったときには吐き気を覚えたものだった。
自分ではよくわからなかったが、「第五皇子のインテグリータス殿下」はその中で非常に見目のいい、そして出来のいい皇子だったらしい。幸いにして体も健康そのもので、ちょっとした風邪をひいた以外に重大な病気に罹ったこともない。
実は何度か、敵対する王妃たちやその親族連中の差し金により毒を盛られたことはあるが、幸いにして後遺症もなく快癒した。もちろん、あの治癒師キュレイトーの力によるところも大きいが。
毒を盛られたのは一度や二度のことではない。最初のことがあってからは身近にいつも毒見役が配されることになったが、彼らは何度も入れ替わることになった。つまり、食事の席でそのまま中毒死をしたがために。
紫色の顔になり、ひどく痙攣し、時には血を吐き。やがて硬くなった蒼白の身体を運び出されていく毒見役たちを何度見送ったことだろう。母は震えながら皇子を抱きしめ、涙していたものだ。
「あなたは守るわ。どんなことをしても守りぬいてみせる」と言いながら。
しかし、その母も長くは生きられなかった。
薄汚い売春宿の檻車の前で、醜く太った親方に今にも折檻されそうになっていたみすぼらしい少年。ずたずたにされた耳としっぽ、そして皮膚。おびえきった黒い瞳。涙に汚れた頬。
(なんということを──)
彼をはじめてこの目で見たとき湧きおこった、あの感情。
熱さと、衝撃と。
そして、自分にとってこんなにも大切な人に惨い虐待を加えようとする、ありとあらゆるものに対する憎悪と。
「美味しいかい、シディ。食後にはこちらの料理人自慢の焼き菓子もあるからな」
「は、はい……インテス様」
すでに出されている料理の数々で頬をいっぱいに膨らませながら、可愛い人が一生懸命に咀嚼をくり返している。
蜂蜜をたっぷり絡めた焼き菓子の乗った皿を彼のほうへ押しやってやりながら、インテスの心に広がるのはただただ、この人を愛おしいという気持ちと、守ってやりたいという泣きたくなるような、また捩れるような望みだ。
(ようやく会えた。……そなたに)
自分は生まれた時から、ある種の渇望を感じ続けてきた。
記憶にあるわけではないが、当時自分を世話してくれていた乳母や母からよく聞かされていた話なのだ。しっかり乳をもらい、睡眠もおむつもいっさい問題のない状態にしても、自分はよくぐずる赤ん坊だったらしい。
──何かが足りない。なにか……なにかが。
長じるに従って、その渇望がなんであるかが少しずつわかっていくような気がした。自分のそばに、なにかがひとつ足りないのだということが。
やがて自分が《救国の半身》であるとの神託を受けた者であることを知り、その渇望の正体を知った。
自分はいつか、その《半身》に会うことになる。
そしてこの世を救う者になるというのだ。
だが当時の自分には、そんな実感はまるでなかった。
いきなり「世界を救う」などと言われても、そもそも普通の少年にそんな実感が湧くはずもない。
見てくれや血筋はともかく、自分は普通の少年だったから。
だが、それでもともかくその「渇望」は存在しつづけた。
だが不思議なことに、とある年齢になった瞬間、突然その「渇望」は消失した。
いきなりなにもない空間に放り出されたような感じだった。胸の中に大きく空虚な穴があき、少年インテスはわけもわからず、自室で数日を泣いて過ごした。
母はそんな息子をひどく心配したものだ。
が、やがてその涙の日々が過ぎさると、少年はまた普段の皇族としての毎日に戻った。
神聖シンチェリターテ帝国は一夫多妻制を認めている国だ。その頂点に立つ皇帝である父には、幾人もの妃がいた。正妃も何人か息子を生んだが、側妃の一人だった自分の母は、皇帝に五番目の息子を与えた。それが自分だ。
妃の身分が低いことは、そのまま皇子のその後の人生を決定づけることが多い。ただしそれも、程度による。
正妃をはじめとする他の妃が生んだ皇子たちは、いずれもどこかに瑕疵があった。まず体が弱い。いつも寝床にいて、医者が離れる隙もないのがいるかと思えば、ひどく愚鈍でなかなか皇族としての教育が身につかないのもいる。武術や兵站の知識などがからっきしで戦闘に向かないのも多い。
そのくせ女癖や男癖は最悪で、周囲に見目のいいのをたくさん侍らせ、贅沢な暮らしを当然のものと享受しては国庫を圧迫する。ひどく利己的で、自分で得た身分でもないのに無闇に他人に威張り散らし、下の者をわけもなく虐めたがる。そういう皇子がいくらでもいた。
少しでも逆らう様子を見せた者には残酷な刑罰をうけさせ、その悲鳴を肴に酒を食らう者すらいるのだ。ところが皇帝たる父は彼らを特に叱責もしない。むしろ自分自身が彼らの「いいお手本」といったぐらいな存在だったのだ。
その事実を知ったときには吐き気を覚えたものだった。
自分ではよくわからなかったが、「第五皇子のインテグリータス殿下」はその中で非常に見目のいい、そして出来のいい皇子だったらしい。幸いにして体も健康そのもので、ちょっとした風邪をひいた以外に重大な病気に罹ったこともない。
実は何度か、敵対する王妃たちやその親族連中の差し金により毒を盛られたことはあるが、幸いにして後遺症もなく快癒した。もちろん、あの治癒師キュレイトーの力によるところも大きいが。
毒を盛られたのは一度や二度のことではない。最初のことがあってからは身近にいつも毒見役が配されることになったが、彼らは何度も入れ替わることになった。つまり、食事の席でそのまま中毒死をしたがために。
紫色の顔になり、ひどく痙攣し、時には血を吐き。やがて硬くなった蒼白の身体を運び出されていく毒見役たちを何度見送ったことだろう。母は震えながら皇子を抱きしめ、涙していたものだ。
「あなたは守るわ。どんなことをしても守りぬいてみせる」と言いながら。
しかし、その母も長くは生きられなかった。
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