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第十一章 背後の敵
1 父の声 母の声
しおりを挟むやさしい狼たちの歌声がする。
ときに高く、ときに低く。
薄衣を風に流したように柔らかなその旋律の意味を、なぜか自分は理解していた。
……あれは、愛と慈しみの歌。
仲間をいたわり鼓舞する歌だ。
(だれ……なの?)
体がぴくりとも動かせない。目を開けることすらひと苦労だった。
狼の旋律は高くなったり低くなったりをくり返しながら、少しずつ大きく重厚になっていく。
それが明らかに自分に近づいてきていることに気づいて、少し体を固くした。
だが、次には驚くことになった。
はっきりと聞こえてきた声は、自分にとって心から驚くべきものだったのだ。
《……やっと会えたな、わが息子よ》
《会いたかったわ、私のぼうや》
(……!)
全身の細胞が、戦慄から間違えようのない歓喜にかわる。自分よりもずっとずっと、身体は彼らを知っていたのだ。持ち主の意思などほったらかしにして、勝手に歓喜しはじめたのである。
(まさか──)
父さんと、母さん……?
自分ではもう顔も憶えていないけれど。
しかしこの雄々しくも甘やかな匂いには脳の中心を揺さぶられるような興奮を禁じ得ない。
それはきっと「懐かしい」という感情に違いなかった。
「父さんっ……母さんっ!」
叫んだつもりだったが声は出なかった。しかしふたつの温かな存在は優しく笑ってくれたようだった。
かれらの風貌ははっきりとは見えなかったが、雄々しく若々しい、長い黒髪の男と、たおやかながらも剛さを秘めた波うつ黒髪の女性の面影が、頭のなかをさっと横切った感覚があった。
「父さんと……母さん、なのでしょう? オレです。あなたたちの息子の──」
言おうとして、はたと困った。
自分は自分の赤子のときの名すら知らない。
戸惑っていると、柔らかな手がふっと頬を包んでくれたような感じがあった。
《よいのですよ。今はどのような名であっても》
《そうだとも。どのような名であっても、お前が我らの子であることに変わりはない》
そう言って笑うと、父と母はそっとシディの真の名と、自分たちの名を教えてくれた。
《今はなんと名乗っているの?》
《あ、あのう……『オブシディアン』と》
《そう。誰がつけてくれた名前なの?》
《いっ、インテス様ですっ!》
多少食いぎみに言ってしまってから急に恥ずかしくなった。
《……と、呼んでいるのはオレだけで、ええと……本当はインテグリータス様です。帝国の第五皇子殿下でいらっしゃいます》
《おお、そうなのか》
殿下のお名前を意識にのぼらせたせいか、突然ここまでのことを思い出す。
(そうだ……。インテス様は? みんなは大丈夫だったのかな?)
《心配は要らない。われらがお前の意識の中に現れることができたのは、問題が解決されたからだからな》
《えっ?》
《私たちは最期のとき、あなたの中にわずかだけれど私たちの魔力を遺すことができた。あなたにとって最も重要な仕事が果たされたとき、ただ一度だけでもあなたに言葉を遺せるように》
《か、母さんっ……》
では。
ではこの逢瀬はこのひととき限りだというのか。
そう思ったら、自分の目にぶわっと熱いものが溢れだした。
《泣くな、息子よ》
父の声は勇壮でありながらも温かなものだった。聞いていると、包み込まれるような懐の深さを感じる。そのまま身を任せてしまいたくなる。
《お前のそばにはもう、お前を大事にしてくれる多くの者がいるようではないか。われらはもう何も心配してはおらぬ》
《そうですよ。特に、ともにこの大仕事を成し遂げてくれたそのかたは大切な人のようですね》
《あっ。は、はい……》
そこで母の声は一段と深く優しくなった。
《そのお方を大切になさい。これからはもう、あなたはあなた自身がしっかりと幸せになることを考えればよいのですよ》
《か、母さんっ……》
《私たちのことは気にしなくていいわ。幸せにおなり、私の息子》
《そうだ。自分の幸せをつかみ、相手の御仁にも幸せになっていただけばよい。……われらのように》
《父さんっ……!》
時が迫っているようだった。ふたりの声や匂いが急に薄まり、遠くなっていく。
シディは心の声のかぎりに叫び続けた。
《父さんっ……母さんっ! ありがとう、オレ、きっときっと……しあわせになります。父さんっ、かあさああんっ!》
「シディ! シディっ……!」
驚くインテス様の声に呼ばれてパッと目を開けたら、そこは離宮の寝室だった。
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