【改訂版】Two Moons~砂に咲く花~

るなかふぇ

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第一部 トロイヤード編 第一章 邂逅

1 レド

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 遠くで、《幸福しあわせ》が音をたてている。

 小川のせせらぎ。
 小鳥の歌声。
 木々のさざめき……。

 はるか彼方から聞こえてくるそれらの音色は、しかし、今の自分の在り方からは遠く隔たった世界のものだ。

 ひどく……寒い。
 体中から、命と名のつくもののすべてが流れ出ていったかのようだ。
 受けた傷による痛みよりも、いまはこの寒さが身にこたえる。
 まるで主人の言うことを聞こうとしない瞼の下で、男は少しずつ自分のし方を思い起こし始めた。


 ◇


 毎年、雪解けのこえとともに、北の大国エスペローサはエスカルド山脈の険しい国境を越えて南に攻め入ってくる。その飽くことを知らぬ南への渇望には、あきれるばかりだ。
 だが、一年のうち相当の期間を厳寒に覆われ、雪と氷に閉ざされて、穀物も思うように穫れぬかの国がここを欲する気持ちが理解できないわけではない。

 建国からわずか――と、敢えて言おう――七十年あまり。
 現在は、始祖から数えて三代目。つまり直系の孫である自分が統治するこの国は、建国の王の御名を頂き、国名をトロイヤードと称している。南に温暖な海を臨み、北を厳しく切り立つ高い山脈で遮られ、そこから流れ出る清流により、地味は豊かで作物もよく育つ。
 鉄鋼や石炭などの地下資源は北の国ほど多くはないが、温暖な気候と豊かな食物は、そこに多くの平和な民を抱え、育むことができるのだ。

 人とは、すなわち、国である。
 民の豊かさこそが、国のいしずえをつくるのだ。

(しかし、迂闊だった)
  
 決して負け戦ではなかったのだが。
 そして、さほど深追いしたわけでもなかったというのに。
 おおむね敵軍を蹴散らし終わり、そろそろ帰路につこうとした時、うっかりと単騎で友軍とはぐれてしまった。友軍を探すため、高台から周囲の様子を見ようと愛馬、黒竜号を小高い崖の上に進めたところで、身を隠した敵の放つ矢に当たってしまったのだ。おそらくはあのまま馬とともに転落し、そばを流れる川に落ちて、下流に流されたものであろう。
 あの百戦錬磨の味方の将軍たちが自分の不在ごときでやすやすと潰走かいそうすることはあるまいが、いずれにしても、一刻も早い帰軍が必須である。

 しかし、この傷の痛み具合からして、思った以上に転落時の損傷と矢傷からの出血がひどいようだ。周囲の水音や肌に触れる砂利の感触などからして、どうやら下流の川辺にでも流れ着いたようだが、ここで意識を取り戻したときには、もはや指を動かすこともできなくなっていたのである。着慣れたはずの鎧の重みも尋常のものとは思えない。

(まずいことになった……)

 いまさら、命を惜しいと思うほどのこともない。やりたいことはすべてやってきたし、何かを後悔するぐらいなら、まずは行動あるのみ。そこに道がないならば、ただただ血路をひらくまで……そういう人生を歩んできた。だから、そうした意味での生への執着は正直いってあまりない。
 だが、問題がひとつある。王としてはまだ青二才といってよい年の自分には、嫡子というものがないのだ。いや嫡子どころか、いまだ妃すらめとってはいない。このままここで落命するとなれば、王国の後継者をめぐる内政の乱れを招くは必至であろう。
 内政の混乱は、国をあやうくしかねない。この豊潤な南の国をつねに虎視眈々と狙う北の国エスペローサが、その機に乗じないわけがない。さすがに、いまこの場で死ぬのはまずいのだ。

(とはいえ、どうしたものか……)

 思案するうちにも、体は芯から冷えてゆく。
 意識がまた遠のき始めた。
 小鳥のさえずり、川のせせらぎがさらに遠くなる。
 地獄から天国を覗くとは、ちょうどこういう具合なのだろうか……


 ――と、その時。
 聞きなれたひづめの音が聞こえた。
 砂利を踏み、次第にこちらに近づいてくる。

(黒竜か)

 あの足音を聞き誤るはずもない。
 駆け出しの少年だった初陣の頃からずっと、何年も共に戦場を駆けめぐり、苦楽をともにしてきた、まさに戦友とも呼ぶべき愛馬である。こうして目を閉じていてすら、あの美しく黒光りする精悍な姿を思い描くことができるほどだ。

(無事だったか……)

 安堵とともに、何か一抹の違和感も覚える。
 あの矢に打ち落とされたとき、愛馬も自分と同様、体に幾本かの矢を受けた。それがまるで無傷ででもあるかのように、ああも健康的なリズムを刻んですぐさま歩けるものだろうか……?
 そう考えるうちにも、耳朶はもうひとつ別の足音を聞き分けた。こちらは明らかに人のものだ。足音は次第に近づき、やがて小走りになったのがわかった。

「この人が? 君の、ご主人?」

 柔らかな声が降ってきた。少年とも、青年ともとれる声。ひどく優しげだが、今はそこに驚きと心配の色が濃い。
 声の主は、少し慌てたようにかたわらに座り込んだらしい。ぶるる、と黒竜が鼻を鳴らす音がして、頬に、よく知っているあの温かく湿った鼻づらが押し当てられるのを感じた。

 その途端。

(なに……?)

 突然のことだった。
 体中が、爆発したようだった。体内のあらゆる生命力とでもいうべきものが、ほとばしり、湧き上がり、すさまじい熱とともに噴出した。閉じたままの瞼の裏で、ちかちかと紅い光が瞬いた。爆発した熱は、体の中心から次々に四肢へと広がり、熱の奔流を拡散させつつ、最後には指先へと到達した。
 だがその熱は、決して不快なものではない。温かく、うれしく、実際にはこの自分が知るはずのない、幼き日の幸せな日々を垣間見るような懐かしい感覚があった。
 男が驚愕にとらわれているうちに、その熱は始まったときと同じように、またあっというまに穏やかになり、やがて収まっていった。

(今のは、いったい……)

 ふと気がつくと、体を動かすことができるようになっていた。痺れたように冷たかったはずの指先も通常の温かさを取り戻し、難なく動かすことができる。先ほどまでの状態がまるで嘘のように、鎧が軽い。
 目を開けると、夕刻のオレンジ色の光があたり一帯を照らしていた。
 ゆっくりと身を起こすと、不思議とどこにも体の痛みを覚えない。
 首を回して周囲を見回すと、見慣れた愛馬の黒い影の隣になにかが倒れているのが見えた。

(犬……?)

 と、思ったがそうではなかった。
 一瞥いちべつすると、なにか長毛の、ひどく薄汚い大型犬のようにも見えた。だがそれは紛れもない人間だった。声の印象と同様、少年のようにも青年のようにも見える。どうやら気を失っているようだ。ついさっき自分に声を掛けてきたというのに、なぜ今はこういう状態になってしまったのか、どうもよくわからない。
 男は座ったまま、そっと彼の傍らに身を寄せ、顔を覗き込んだ。

 ひどく貧しい身なりである。麻袋を開いてつなぎ合わせたような膝までの長衣トーガに、帯の代わりに荒縄を締めている。履物はなく、汚れた裸足のままだ。顔はといえば、こびりついた土埃のためにもとが何色なのかもよくわからない。髪がやたらに伸びていて、表情もよくわからない。ちょうど、野山を好きに駆け回ってすっかり汚れてしまった羊の毛の色のようだと思った。

「……おい」

 男は声を掛けてみた。返事はない。
 声帯が、久しぶりに使用されたことに不平を鳴らすようにひどく掠れた音をだした。まるで自分の声ではないようだ。
 男は、もう一度声を高めて問いかけた。

「おい、お前」

 やはり、答えはない。聞こえるのは、ただ川のせせらぎと、そろそろ巣に戻ろうとして鳴き交わす鳥たちの声ばかりだ。
 男は溜め息をついた。思わず頭を掻く。

「どうするんだ、これは……」

 呆然と、山のに沈みゆく橙色の夕日を見やる。すると隣に立った黒竜が、少し笑ったようにいなないた。

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