6 / 149
第一部 トロイヤード編 第二章 秘密
1 その名(1)
しおりを挟む「あのっ、ですから私は、あなたに恩返しをして頂くようなことは何も……!」
薄暗い街道をゆく馬上から、若い男の声が聞こえてくる。優しげなその声は、不満を並べているというよりは何かを哀願しているようだ。
「いい加減しつこいぞ、貴様」
先ほどよりは低く張りのある男の声が、多少呆れた調子でそれに答えた。言葉のわりにさして苛立った様子もなく、むしろ面白がっているようにすら聞こえる。
「ここまで来たんだ、もう諦めろ」
「いや、でも──」若い方の声には、もはや半分泣きが入っている。「こんなことをして頂く理由がありません……」
「何度も言わせるな。命の恩人を無碍に放って帰ったりしてみろ。俺は身内に袋叩きだ。『そんな恩知らずに育てた覚えはない』とかなんとか言われてな。俺をそんな目に遭わせたいのか?」
「だから、『命の恩人』なんかじゃないんですったら……」
若い方の男の口から、深い溜息が洩れでた。
遠い山の端から、静かに太陽が昇り始めている。
◇
トロイヤードの王都、ヨルムガルドへは、エルドの村から南西へと下るこの街道を使うのが一般的だ。馬で余裕をもって移動すれば、まず丸十日の行程である。街道のあちこちには城砦や宿場町が設けられ、外敵への備えのために、常時兵士が駐屯している。
暗いうちから起き出して簡単に旅支度を整えた後、二人は小屋を後にした。まず村長の家に寄り、前日の約束どおりシュウのための馬を調達して、青年は嫌がる若者を、半ば無理やり鞍上に押し上げた。
それからの二刻ばかりというもの、シュウは何度もこの青年に家に帰してもらうべく哀願していた。しかし、まさに「馬耳東風」とばかりに、いっさい聞き入れてはもらえなかった。
鎧姿では疲れるためか、甲冑は食料などとひとまとめにして馬の背に括り付けてある。軽装で馬上の人となった青年は、ひどく楽しげだった。手綱をゆるやかに打たせ、常歩に愛馬を進めてゆく。人馬一体の見事な姿である。
一方、栗毛の農耕馬に乗せられたシュウは、ただ仕方なく、とぼとぼとそれについていくばかりだ。乗馬はほとんど経験がないため、ひどくバランスが悪い。ぼさぼさのむく犬頭が、それをさらに滑稽に見せている。
見かねた青年が足さばきや手綱使いなど手ほどきをしてくれて、これでも少しはましになったのだが。
「まあ、考えてもみろ」唐突に、青年が口を開いた。
「は?」
「村長には、往復六日分の馬の借り賃をすでに先払いしてある。こんな途中で引き返したらほぼ全額を返金してもらうしかないが、いいのか?」
「…………」
いいのか、と言われても。
言葉の意味をはかりかねて、シュウは怪訝な顔をした。黒髪の青年は、さも面白そうに言葉を続ける。
「金貨三枚ともなれば、あの村では相当な額面だろう。村長にしてみれば、せっかくの副収入がそれでパアになるわけだ」
「う……」
シュウの頬がひきつった。彼の言わんとすることが少しずつわかりかけてきたのである。
確かにあの貧しい村で、三ガルドの価値は大きい。比較的裕福な村長の家でさえ、二か月分の収入を軽く超える金額だ。
金貨は銀貨の百枚に相当し、銀貨は銅貨の百枚に相当する。銀貨には、その十倍に値する大銀貨が存在し、銅貨にもその十倍に値する大銅貨が存在している。
ちなみに、シュウが農家で丸一日働いた場合、その賃金は三バーモルド。つまり大銅貨三枚である。ということは、三ガルドは、ざっとシュウの千日分の給金と同額という計算になるわけだ。
青年はさらに畳み掛ける。
「家族みんなで、あれも買える、これも買おうと胸を膨らませていたろうに。子どもらもさぞかしがっかりすることだろう。無論、村長自身の顔も盛大に潰すことになろうなあ?」
「…………」
シュウの顔から、どんどん血の気が引いてゆく。手綱を握る手が、ぷるぷるし始めた。
村長には、あの村に住んでこの方、仕事を世話してもらったり食料を融通してもらったり、なにくれとなく世話になってきた。今さらそんな不義理ができるはずがない。
「もちろん、馬にも乗せているわけだし、拘束しているわけでもなし。俺から逃げられると思うなら、それはお前の勝手だが」
(へ……?)
シュウは思わず、相手を見やった。
(逃げていい? 帰ってもいいってこと……?)
黒髪の青年が、野生的な笑顔をにっこりと向けた。
「いつでも逃げて構わんぞ? ただし」
シュウの顔が青ざめる。本能的に、次の言葉は聞きたくないと思った。
「一度でもそうしたら、俺はお前を縛り上げる」
(えええええ?)
「以降は、王都に着くまで解かんぞ」
文字通り、首に縄をつけてでも連れ帰るということか。
(正気か、この人……)
「まっ、そういうことだから。せいぜい慎重にやってくれ」
耳を疑うとはこのことだ。そんな空恐ろしいことを、この男はまたのんびりと顎を掻きながら言うのである。
「俺とて他でもない命の恩人に、そんな手荒な真似はしたくない。だが、是非もなければやむをえん。俺の家の者たちが、どこの捕虜を連れてきたのかと勘違いするかもしれんが、まあそのあたりは我慢しろ」
(ちょっと待ってよ……)
シュウはもはや涙目である。
「いいのか? それで」
無駄に素敵な笑顔で駄目押しをされ、若者はがっくりと項垂れた。
それは、もはや脅迫か。脅迫なのか?
(『命の恩人』を脅すって、この人いったい……)
どれだけ「俺様」なのだろう。
「それと、あの子犬」
「え?」
いきなり話題が変わって、頭がついて行かない。シュウは目を白黒させる。
「元気そうだったじゃないか。良かったな」
「あ、は……はい」
昨日の子犬、ポルは、村長の家の犬だったのだ。早朝、青年と馬を借りに訪れたとき、主である少年、レンとともに、シュウを見送りに出てきたのである。
ポルは昨日とは打って変わってすっかり元気になっており、ちぎれんばかりに尻尾を振ってシュウに愛想を振りまいていた。
「昨日は見たところ、瀕死のようだったが。よく助かったものだ。そう思わんか?」
目を上げると、青年が笑いながらも、多量に意味を含んだ視線でシュウを見つめていた。笑っていながら今度はその目が笑っておらず、シュウの心臓はどきりとはねる。
「は、はい……。あの、ほんとに……」
なんだか、泣きたい気持ちになってきた。
この人にはもうすべて、なにもかもお見通しなのかもしれない。何をどう取り繕ったところで、誤魔化す自信はまったくなくなっていた。
「そんな泣きそうな顔をするなよ」
どうやら青年は、長い髪の下にある、シュウの表情を読むことにも長けてきたらしい。即座に怖い視線は引っ込めて、もとの楽しげな笑みに戻る。
「まさか、大事な命の恩人をとって食うわけでもあるまい」
ここまでくると、もうどこまでが本気なのやら。
シュウはもう一言も返せず、ただ項垂れて溜め息をついた。
0
あなたにおすすめの小説
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
カフェ・コン・レーチェ
こうらい ゆあ
BL
小さな喫茶店 音雫には、今日も静かなオルゴール調のの曲が流れている。
背が高すぎるせいか、いつも肩をすぼめている常連の彼が来てくれるのを、僕は密かに楽しみにしていた。
苦いブラックが苦手なのに、毎日変わらずブラックを頼む彼が気になる。
今日はいつもより温度を下げてみようかな?香りだけ甘いものは苦手かな?どうすれば、喜んでくれる?
「君の淹れる珈琲が一番美味しい」
苦手なくせに、いつも僕が淹れた珈琲を褒めてくれる彼。
照れ臭そうに顔を赤ながらも褒めてくれる彼ともっと仲良くなりたい。
そんな、ささやかな想いを込めて、今日も丁寧に豆を挽く。
甘く、切なく、でも愛しくてたまらない――
珈琲の香りに包まれた、静かで優しい記憶の物語。
病弱の花
雨水林檎
BL
痩せた身体の病弱な青年遠野空音は資産家の男、藤篠清月に望まれて単身東京に向かうことになる。清月は彼をぜひ跡継ぎにしたいのだと言う。明らかに怪しい話に乗ったのは空音が引き取られた遠縁の家に住んでいたからだった。できそこないとも言えるほど、寝込んでばかりいる空音を彼らは厄介払いしたのだ。そして空音は清月の家で同居生活を始めることになる。そんな空音の願いは一つ、誰よりも痩せていることだった。誰もが眉をひそめるようなそんな願いを、清月は何故か肯定する……。
俺の可愛い幼馴染
SHIN
恋愛
俺に微笑みかける少女の後ろで、泣きそうな顔でこちらを見ているのは、可愛い可愛い幼馴染。
ある日二人だけの秘密の場所で彼女に告げられたのは……。
連載の気分転換に執筆しているので鈍いです。おおらかな気分で読んでくれると嬉しいです。
感想もご自由にどうぞ。
ただし、作者は木綿豆腐メンタルです。
劣等アルファは最強王子から逃げられない
東
BL
リュシアン・ティレルはアルファだが、オメガのフェロモンに気持ち悪くなる欠陥品のアルファ。そのことを周囲に隠しながら生活しているため、異母弟のオメガであるライモントに手ひどい態度をとってしまい、世間からの評判は悪い。
ある日、気分の悪さに逃げ込んだ先で、ひとりの王子につかまる・・・という話です。
孤毒の解毒薬
紫月ゆえ
BL
友人なし、家族仲悪、自分の居場所に疑問を感じてる大学生が、同大学に在籍する真逆の陽キャ学生に出会い、彼の止まっていた時が動き始める―。
中学時代の出来事から人に心を閉ざしてしまい、常に一線をひくようになってしまった西条雪。そんな彼に話しかけてきたのは、いつも周りに人がいる人気者のような、いわゆる陽キャだ。雪とは一生交わることのない人だと思っていたが、彼はどこか違うような…。
不思議にももっと話してみたいと、あわよくば友達になってみたいと思うようになるのだが―。
【登場人物】
西条雪:ぼっち学生。人と関わることに抵抗を抱いている。無自覚だが、容姿はかなり整っている。
白銀奏斗:勉学、容姿、人望を兼ね備えた人気者。柔らかく穏やかな雰囲気をまとう。
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。
運命の番ってそんなに溺愛するもんなのぉーーー
白井由紀
BL
【BL作品】(20時30分毎日投稿)
金持ち社長・溺愛&執着 α × 貧乏・平凡&不細工だと思い込んでいる、美形Ω
幼い頃から運命の番に憧れてきたΩのゆき。自覚はしていないが小柄で美形。
ある日、ゆきは夜の街を歩いていたら、ヤンキーに絡まれてしまう。だが、偶然通りかかった運命の番、怜央が助ける。
発情期中の怜央の優しさと溺愛で恋に落ちてしまうが、自己肯定感の低いゆきには、例え、運命の番でも身分差が大きすぎると離れてしまう
離れたあと、ゆきも怜央もお互いを思う気持ちは止められない……。
すれ違っていく2人は結ばれることができるのか……
思い込みが激しいΩとΩを自分に依存させたいαの溺愛、身分差ストーリー
★ハッピーエンド作品です
※この作品は、BL作品です。苦手な方はそっと回れ右してください🙏
※これは創作物です、都合がいいように解釈させていただくことがありますのでご了承くださいm(_ _)m
※フィクション作品です
※誤字脱字は見つけ次第訂正しますが、脳内変換、受け流してくれると幸いです
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる