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第一部 トロイヤード編 第三章 王都ヨルムガルド
8 鏡(1)
しおりを挟む「ちょっと、あのっ……! どこへ──」
「いいから、黙ってついて来い」
広い廊下だった。すでに夕刻の支度が終わり、壁の両側に等間隔に設置された灯火台には灯が入っている。レドに子供のように手を引かれ、シュウは引きずられるようにしてその後に従っていた。
がっちりと手首を捕まれ、抵抗するすべもない。
「『百聞は一見に如かず』、だ」
意味不明の呟きが聞こえる。シュウは、大きなレドの歩幅に小走りについていくだけで精一杯だ。だが、それでも引き下げたフードはしっかりと被って、固く握り締めたままだった。
「おっと、ここだ」
と、いきなりレドが大きな扉の前で立ち止まった。シュウはつんのめり、その背中に危うくぶつかるところだった。レドはシュウの手首は捕まえたまま、近くの灯火台から火皿を取ると、扉を開いた。
「そら。入れ」
言うやいなや、ほとんど放り込むようにしてシュウを中に押し入れた。
「な、ちょっと……!」
がらんとした部屋だった。食事の間の半分ほどの広さだったが、調度らしいものはほとんどない。小さな丸テーブルがぽつんと置いてあるだけである。
入って正面は窓だったが、それとは別に左手の壁に、天井から床までの大きなカーテンが掛けられていた。例によって派手な作りではないが、重厚な赤地の織りのどっしりとした布である。
「な、なんなんですか、ここ……」
「そこに居ろ」
戸惑って立ち尽くしているシュウを部屋の真ん中あたりに押しやると、レドは扉を閉め、右側の壁に向かった。
「いま、見えるようにする」
シュウの言葉など、まるでどこ吹く風だ。レドは壁にかかった灯火台のいくつかに火を移すと、左側の壁に向かった。彼がカーテン脇の飾り紐を引くと、それは左右にすっと開いた。
(え……?)
それは、不思議な光景だった。
壁の中に、だれかが一人立っている。カーテンの間、壁の中に、もうひとつ部屋があるのだ。
濃紺の長衣のフードを目深に被って、その陰からこちらを窺っているらしい。背後の灯火の揺らめきで、それが絵画でないことはすぐに知れた。
「あの、これ……」
「『鏡』というものだ。見たことはないか?」
言いながら、レドが隣にやってきた。と同時に、壁の中の人物が二人になる。左側の男は明らかにレドだった。面白そうにこちらを見つめて笑っている。
「かが、み……」
『鏡』というもののことは、エルドの村の噂話で聞いたことがある。もちろん、貧しいあの村にそんな高価なものを持つ者はいなかった。聞くところによると、街の裕福な商家の奥方や娘などがまれに持っているのだという。エルドの村の者たちが自分の姿を映すのは、せいぜい桶や壷の中の水面だった。
ただ、話に聞いた『鏡』とは、手のひらほどの大きさの物だということだった。しかし、いま目の前にあるそれは、余裕で全身を映すことができるほどのものだ。見たところ、縦に二メトル、横に一メトルほどもあるだろうか。
と、いきなりレドの手がフードに掛かって、あっという間に引きおろされた。
「うわっ!」不意を突かれてシュウは慌てる。「なっ、何を……!」
急いで鏡から目を逸らしたが、フードを引き上げようとするシュウの手を素早くとどめて、レドがもう片方の手で鏡を指差した。
「いいから、見てみろ」レドの声音は、飽くまでも穏やかだった。「大丈夫だ。心配いらん」
「…………」
そうして何度か促されて、シュウはようやく、恐る恐る鏡に目を向けてみた。
(……え?)
そこに、見知らぬ青年が立っていた。やや、ぽかんとした表情である。
背は、隣のレドより少し低い。さらさらとした癖のない金色の髪は、首の中ほどまでに整えられており、明るい夏の日の太陽を思わせる。
優しげに目尻の下がった瞳は、深い森の中の湖面のきらめきを映して、翠の色を湛えている。それは先ほどまでの涙を残し、少しばかり赤く腫れてはいるものの、ひどく優しく、儚い色を纏っていた。それらが、着せられている濃紺の長衣によく映えた。
肌理の整った肌は白く滑らかで、これまで毎日農作業に従事してきた者とはとても思えない。あのぼさぼさに伸びた蓬髪が、強い日差しを遮ってくれたものだろう。
(こ、これ……だれ?)
シュウは声も出ず、呆然と立ち尽くしていた。
鏡の中の青年も、翡翠の目を白黒させてこちらを見つめている。
と、鏡の中のレドと目が合い、シュウはどぎまぎして俯いた。
「そら。心配いらんと言ったろう」
レドの目は、いまや楽しげに笑っていた。そこに何か温かな光を見たような気がして、シュウの心臓はまた変な拍動を始める。慌てて、レドの傍から一歩離れた。
レドが愉快げに笑いながらシュウの肩を叩いた。
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