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第一部 トロイヤード編 第五章 癒しの手
4 噂
しおりを挟むそうして少しずつ、みながシュウへの第一印象を改めていったころ。
病棟では、不思議な噂がまことしやかに囁かれるようになった。
「ラギ様が来られると、あんなにひどかった痛みが和らぐんだ」
「もう死ぬのを待つばかりだったやつが、ラギ様がお帰りになったあと、いきなり目を覚ましたんだ。今じゃもう、ぴんぴんしてらあ」
「苦しくて苦しくて、眠ることもできなかった胸の痛みが、ラギ様が来られた日、嘘みてえに消えたんだ」
「眠ってる時、あの方が俺に触ったんだ。まちげえねえ、あれはラギ様だったさ。そしたらよ、なんともいえねえあったけえ気分になってよう。目が覚めたら、動かなかった俺の足が、ちいっと動かせるようになってたんだ。今ではほれ! 歩けるんだぜ!」
◇
ついに、シュウはレドから、人払いをした執務室に呼びつけられた。
文官たちが出入りする公的な場であるため、シュウは一応、包帯姿のままだ。
「貴様。片っ端からぼろが出とらんか?」
部屋に入るやいなや、レドが言った。
組み合わせた手の向こうにあるレドの目が半眼だ。流石の眼光である。
「ううう……」
シュウは返す言葉もない。身を縮めて小さくなる。
「『うまくやれ』と、俺は言ったぞ?」
「あうううう……」
さらに小さくなる。
そもそも、嘘をついたり隠し事をしたりするのは苦手なのだ。自分にそういう才能がないことはよくわかっている。だからこそ、ああやって田舎に隠れ、目立たぬように暮らしていたのではないか。
レドは目の前にあった羊皮紙を一枚、つまみ上げた。それをシュウの前でこれ見よがしに振ってみせる。
「巷では、『ラギ教』なる新興宗教まで興っておるやに聞くぞ」
「まっ、まさか──」
冗談か、と思ったが。
「そのまさかだ」レドが憤懣やるかたなしとばかりに羊皮紙を放り出す。「それにだ。すぐには報告があがってこなかったが、お前、何度か倒れたそうだな?」
「あっ、ええっと……」
その通りだった。重傷の者、重病の者が何人も重なったりすると、どうしても無理をしてしまう。シュウは何度か気を失って、王宮の自室までタルカスに担がれて帰る羽目になっていた。片足が不自由なタルカスには、さぞかしいい迷惑だったことだろう。
タルカスには必死にお願いして、それを報告しないでもらっていた。
どこでどう洩れたかは知らないが、ここで「そうです」と言ってしまえば、タルカスにさらなる迷惑が掛かってしまう。
仕方なく、シュウはへらっと笑顔を作った。
「え~っと……。あんまり、覚えてなくて……」
──バンッ!
執務机が拳で叩かれ、載っていた羊皮紙が飛び散った。シュウも一セントルばかり跳び上がる。
レドは傲然と立ち上がっている。
「貴様、俺をたばかるつもりか」
レドの声が地を這っている。シュウは戦慄した。
(うあああ……。お、怒ってる……)
これまではあまりよく知らなかったが、レドは怒らせるとかなり怖かった。そこはやはり、《獅子王》の後継者の面目躍如といったところだろう。
恐ろしさのあまり目をつぶってしまったので、シュウはレドが近づいてきたのに気づかなかった。目を開けたときには、もうレドの手がこちらに伸びてきていた。
一瞬、「な、殴られる……?」と肩をすくめたが。
「ちょっと、顔を見せてみろ」
レドの声は意外にも優しかった。
(あ、あれ……?)
触れてくる手も同様だ。
気がつけばくるくると、勝手に包帯を解かれている。
「やっぱりだ。顔色が悪い」
現れたシュウの顔を見つめて、レドは不機嫌に呟いた。碧い瞳に気遣わしげな色が浮かんでいる。何度見てもシュウがいまだにどきどきしてしまう、空の色を映した明るい瞳だ。
「そ、そうですか……?」
考えてみると、二人きりになるのは久しぶりだ。
(こんな風に、触られるのも……)
それに気付いて、シュウはちょっと耳が熱くなる。思わず一歩、レドから離れた。
「あっ、でもっ、今日はそんなに忙しくなかったですし──」
「つまり、いつもはもっと悪いわけだな」
「う……」
みずから墓穴を掘る結果になり、シュウはもはやぐうの音も出ない。
「わかった」そう言うなり、レドは踵を返して執務机に戻ると、羊皮紙にさらさらと何か書きつけ始めた。
(え、なに……?)
シュウが不審に思いながら見つめるうちに、レドはそれを書き終えたらしい。ぞんざいに王の印章を取り上げて文書の最後にばんっと捺す。そうして立ち上がり、インクを乾かすために取り上げた羊皮紙をちょっと振った。それをそのまま、即座にシュウの胸元に強引に押し付ける。
「今すぐ、マムドに渡して来い」
「は? あのっ……」
どうやら、医務棟の医師長宛に書いた通達書らしい。
「明日からしばらく、お前は休みだ。いいな」
「え? いやあの、ちょっと待っ……」
問答無用とばかりに、シュウはその羊皮紙ごとそのまま押されて扉の外へ放り出された。目の前で、扉が大きな音を立てて閉まる。
「陛下! ちょっとあの、困りますっ!」
慌てて扉に取り付くが、どんなに叩いても叫んでも、それは二度と開くことはなかった。
◇
狭い安宿の一室で、男は一人、作業を続けていた。
灯りといえば、禿びた蝋燭が一本だけだ。
大切な道具の歪みを直し、先端の仕込みを丹念に確認する。
明日こそは、しくじるわけにはいかないのだ。
本当は、こんなことのために磨いてきた技ではない。
しかし、自分に他の道はない。
氷の血を持つ高貴な男は、次は妻子を殺すと言った。
しくじるたびに、一本ずつ落とすといわれた妻子の指は、
今は一体、何本残っているのだろう。
……あいつ。
あの黒い髪の、あの男。
豪快なようでいて意外と用心深い。抜け目もない。
忠実な、目のいい兵士も大勢いる。
だからなかなかチャンスがなかった。
先日は、今度こそ仕留めたと思ったのだが。
それからほんの四、五日で、なぜかぴんぴんして王都に戻った。
いっそ、発狂したかった。
狂わぬ自分が恨めしい。
明日は、必ずやり遂げる。
自分の正気がまだあるうちに──。
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