【改訂版】Two Moons~砂に咲く花~

るなかふぇ

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第一部 トロイヤード編 第八章 暗転

3 侵攻

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 北の大国エスペローサと南のトロイヤードを隔てるエスカルド山脈は、切り立つ雪山群を擁した峻険な山々である。そこは真夏でも山頂に冠雪が残り、空気は薄く、おいそれと大軍を動かして踏破できる類の道ではない。
 使える道はごく少なく、崖沿いの道などは人の肩幅ほどしかない所もしばしばで、ただ歩いて通るだけでも、崖下に転落するなどしては毎年何百という兵士の命が失われて来たはずである。
 経済的に豊かだとは言え、エスペローサに比べれば遥かに若く小規模なトロイヤードが、この何十年というものその毒牙からどうにか逃れ続けてこられたのも、ひとえにこの自然の盾があったればこそだ。

(そこを、この時期に二十万とは……)

 ノインは、バルドの城壁に傲然ごうぜんと立ったまま、眼前に聳える雄大なエスカルドの山容を睨んで顎を掻いた。

「気でもふれたか? 御大将」

 万一そうであったなら、付け入る隙もあるのだろうが。

「……ま、なわけねえわな」

 自然と口角が引きあがった。
 これから夏が始まるのであれば、まだ分かる。
 だがこの時期、僅かでも戦が長引いて撤退する運びとなった時、一体エスペローサの兵隊の何割が無事に帰国できるのだろうか。
 雪山の冬は早い。真夏の時期であればこそ、どうにか徒歩と騎馬で越えてこられる厳しい山なのだ。天候が崩れ始めればそれは即、兵士の命に関わることになる。
 ましてやその危うい道を、兵士と馬の糧秣りょうまつを山と抱えて渡らねばならないのだ。兵站へいたんの観点からも、いかにも無謀な作戦と見えた。

 すでに、ヨルムガルドのレドにはもちろん各方面に伝令を飛ばし、斥候の人数を増やして各所に放った上、峡谷脇の投石機等々にも兵を配置済みである。近隣の城塞からは、すでに五名の万騎長と、その配下の兵が参集しつつある。
 二十万が相手とはいえ、ここは峡谷だ。圧倒的な地の利はこちらにある。特にこのバルド城塞は、隘路で大軍を迎え撃つには絶好の場所にあった。両側を切り立つ赤茶色の崖に阻まれ、敵は真正面から、隊列をか細くしつつ前進してくるよりほかにない。
 ともあれ今のノインの使命は、まずは時間稼ぎと情報収集、更には今のうちに少しでも敵の兵力を削いでおくことにある。
 剣と剣でぶつかり合うのは、もう少し先の話だ。

 と、背後からでかい胴間声がした。

「兄貴! ノインの兄貴!」
「…………」

 ノインは返事をせずにそちらを見やった。
 石段を駆け上がってきた甲冑姿の巨躯の男が、ノインの足元にがつんと片膝をつく。ぼうぼうの黒髪に黒髭はどこかの海賊のような風貌だが、瞳は不思議と明るい男だ。

「どうでもいいが、お前ら。いい加減『千騎長殿!』とか呼べねえのかよ?」

 こめかみの辺りを掻いてそう言いながらも、ノインの瞳は笑っている。
 一人に向かって「お前ら」と呼称するあたり、ほかの兵士も似たり寄ったりなのであろう。

「ほえ?」
 黒髭の男がきょとんとする。
「なんでだよ? 兄貴は、兄貴だろ?」

 それでどうしていけないのか、まったく分からぬという風情である。ノインは軽く溜め息をついた。

「山賊の親玉にでもなった気分だわ、ったく……」

 が、ノインの顔色など意に介さぬ風で、男はいかにも「忘れぬうちに」と咳き込んで報告を始めた。よく見れば手のひらになにやらごちゃごちゃと書き込んであり、それを必死に読んでいる。

「兄貴、西と南から、また万騎長が来るってよ! えーと、えーっと……アイオロス将軍と、ゴ……ゴルザス将軍とかって聞いたぜ!」

(……げ)

 ノインが一瞬、不快そうに目を細めた。

(来るのか……親父オヤジ

 しかも、わざわざ西からだ。
 これでは、せっかく自分が東の辺境に着任している意味がない。

「よかったな! 兄貴! なっ!!」
 という屈託のない笑声を背中に浴びつつ、ノインはげんなりして頭を掻いた。
「あー。嫌な予感しかしねー……」


 ◇


 エスペローサによる第二次侵攻の第一報は、その日のうちに王都に届いた。
 この国では、早馬による細かい報告のほかに、各地に設置された塔の上や山頂から、信号手の兵士による手旗信号も行われている。天候などに左右はされるが、速報としては後者のほうが格段に優秀だ。
 王宮内では、各地の将軍や武官たちが次々と足早にレドの執務室に向かう姿が見られた。文官たちも少し緊張した面持ちで、なにごとかを囁き交わしながら廊下を歩いてゆく。

 シュウはこのところ、午前の勉強が終わり次第、午後はタルカスと共に医務棟に向かう日々を過ごしている。道々、いつになく緊張に包まれている王宮の様子が気がかりでならなかった。
 レドとは昨日から一度も会ってはいない。

「タルカスさん……。何があったんでしょうか」

 恐る恐るタルカスに聞いてみた。医務棟での仕事なので、シュウは例によって包帯だらけの姿である。タルカスの目にちらりと気遣わしげな色が宿った。

「申し訳ありません。お伝えするなと、陛下から厳に命じられております」

 本当に申し訳なさそうなのが、かえってシュウも申し訳なかった。

「そう、ですか……」

 だが、そんなタルカスの気遣いはまったくの無駄に終わった。
 医務棟に入った途端、比較的元気な患者の兵士たちが、すでに車座になってその噂を喋りまくっていたからである。

「エスペローサが、今まで秋に攻めて来たことなんてあったか?」
「いいや、ねえよ! 絶対にねえ!」
「しかも、二十万の大軍だって?」
「なに考えてんだ、あっちの王はよ……」
「どうせ、兵隊の命なんざ、ごみクズ以下って思ってんのよ!」
「さすがは、『北の冷血王』だぜ……!」

 医務棟の入り口で真っ青になって立ち尽くしているシュウを、タルカスはしばらく気の毒そうに見つめていた。が、やがて静かに言った。

「ご心配は無用です。我々トロイヤードの軍勢も、そうそうやわではありませぬ」

 シュウは、僅かに震えながらタルカスを見上げた。

「そ……そう、ですよね……」

 しかし、その澄んだみどりの瞳からは、決して不安の色を拭い去れそうには見えなかった。


 ◇


「お兄……様……」

 仄暗ほのぐらい部屋の中で、か細い声がする。
 しわがれて、錆びた鉄扉が軋むような声だ。
 それが自分のものなのだと気付くのにしばらくかかった。
 うっすらと目を開けてみると、これが自分の腕かと思うぐらいに痩せ細った手首が見えた。
 何もない空間を、その手首がふらふらと彷徨っている。

「お兄様、いけません……」

 囁くような声に、応える者はだれもいない。 

(あのような者たちの甘言に、耳を貸しては……)

「だれか……」

 だれか、……助けて。
 自分がいなくなってしまったら──
 あの兄は、きっと本当に壊れてしまう。

 泣きたくとも、もう涙など出なくなって久しかった。
 自分の声に応えてくれる者は、もうだれもいない。
 
 もう、どこにも──。
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