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第一部 トロイヤード編 第八章 暗転
10 失意(1)
しおりを挟む王の天幕から上がる炎を見たとき、シュウは声にならない悲鳴を上げた。
(陛下──!!)
目の前で何が起こっているのか、即座に理解することができない。確かに見えてはいるのに、脳が本能的に理解することを拒否している。
膝が震え、その場にへたりこみそうだ。シュウはただただ言葉を失い、口を覆ってその炎を見つめているばかりだった。
炎は見る間にめらめらと燃え上がり、人の背丈の三倍ほどになった。周囲が真昼のように明るくなる。
野営地には兵たちの怒号と悲鳴が飛び交っていた。がちゃがちゃと荒々しく武器を取っては駆け出したり互いにぶつかり合ったり、慌てた拍子に鍋をひっくり返したりする音がめちゃくちゃに混ざり合って錯綜している。
と、タルカスが無言でシュウを古木の根元に押しやり、すらりと剣を抜いた。それを見てようやく、シュウにも少しの判断力が戻ってきた。
(行かなくちゃ……!)
レドの身にどんなことがあったにせよ、自分が駆けつけさえすればきっと何とかなるはずだ。
そうでなければ。
(僕が、ここにいる意味はない──)
力の入らない両足を拳で叩いて叱咤し、急いで古木の陰から飛び出して、シュウは天幕へ走り出そうとした。
が、あっという間に襟首を捕まえられて元の場所に座らされる。もちろんタルカスの所業である。
「おやめ下さい。危険です」
タルカスの声は、普段となんら変わりない。腰の長剣を抜いたまま、油断なく視線を周囲へ走らせている。
「敵の姿が見えません。状況が分かるまで、もう暫くお待ちください」
事実を淡々と述べるだけで、態度も普段と変わりない。まるで本日の天気について解説しているかのようだ。豪胆なこと、この上もない。
「タルカスさん、そうじゃない……!」シュウは叫んで、思わず彼の足に縋った。「行かせて下さい! 今なら、陛下を助けられる……!」
タルカスが不審げな視線で見返した。「シュウ様。お言葉ですが──」
「あなたにできることは何もない」とその瞳が言っている。
(……!)
シュウは自分の胸がかあっと熱くなるのを覚えた。
「だからっ……!」
ここであれこれと言い合っている暇などなかった。こうしているうちにも、レドの命の残り火が消えていこうとしているかも知れないのだ。
こうなってはもはや、「レド流」にいくほかはない。
シュウはもう迷わなかった。
「…………」
一旦目を閉じると、落ち着いて深呼吸をする。
そうして、そっとタルカスの膝に触れた。
もちろん、彼の不自由な左の足だ。
タルカスが一瞬、びくりと身体を硬くした。
(本当は……)
本当なら、もっと早くにこうしてあげたかった。
けれど今まで一度たりとも、タルカスが自分の前で気を失うことも眠ることもなかったのだ。それは当然といえば当然だった。彼の仕事は、シュウを守ることだったのだから。
チャンスはまったく訪れなかった。
そう、今に至るまで。
不器用だけれど、感情の表し方もうまくはないけれど、謙虚で心の優しい巨躯の男。
彼がいてくれたことで、今までどんなに心強かったことか。
彼にはどんなに感謝してもし足りない。
シュウにできる恩返しといえば、こんなことぐらいしか残されてはいなかったのに。
(ごめんなさい……)
考えただけで、手のひらに熱が集まった。
彼の古傷の痛みのようなものが、ちくりと一瞬、シュウの胸に突き刺さった。
どのくらいそうしていただろう。
目を開けると、タルカスが絶句してシュウを見つめていた。
その灰色の瞳をじっと見返して、シュウは静かに微笑んで見せた。
「もう大丈夫。タルカスさんに、もうこれは必要ない──」
男の傍らに落ちていた彼愛用の杖を拾って、シュウはそう囁いた。
タルカスがゆっくりとその足を動かした。左膝は普通に動きだし、大地を踏みしめ、彼の体重を自然に支えた。タルカスの両目が驚愕に見開かれた。
「シュウ様。あなたは……」
だが、これ以上ゆっくり話している時間はなかった。
「ごめんなさい、タルカスさん。詳しいことは、また後でお話しします。お願いです。僕を陛下の天幕へ行かせて下さい! お願いします!」
タルカスはしばし無言でシュウを見つめたが、やがてしっかりと頷き返した。
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