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第二部 エスペローサ編 第一章 虜囚
7 病室
しおりを挟む大国エスペローサの王都ローデングラートは、南のトロイヤードとの国境・バルド城塞より北西へ約三百キロルの位置にある。
人口およそ七十万。南北に八キロル、東西に八キロルあまりの都市であり、ヨルムガルドよりもひと回り大きい。
広い内陸の平野部にゆったりと流れるシズ川を西に臨み、その都市はこの二百年というもの、少し盛り上がった台地の上にその威容を晒してきた。とりわけ中央部の王城はいくつもの高い尖塔が氷柱のごとくに天を突き、周囲の人々を睥睨している。
王都の外縁から中心部のエスペローサ王宮まで、幾重にも重ねて建造されている防壁の狭間に、人々は家を作り、店を構えて日々の生活を営んでいる。
長年続く王家の恐怖政治により、こうして息を殺すようにして暮らすことを余儀なくされても、それでもこの都市の外に住むよりは遥かに安全だといえた。
厳しい冬のあいだ完全に雪と氷に閉ざされるこの国では、耕地面積の広さの割りにたいした石高を望めない。支配階級の者たちはともかく、一般の平民たちは、常日ごろからまとわりつく食糧不足に悩まされている。毎年、少しの天候の変化でも一気に飢饉に陥る危険を常に孕んでいた。
その代わりにこの国では、豊富な地下資源によって古くから鍛造・鋳造を初めとする技術が進歩し、武器輸出産業が発達している。そうしたいわゆる軍需産業のお陰をもって友好国との貿易をはかり、何とか国体を維持しているのだった。
巨大になりすぎた古い国に腐敗はつきものだが、この国もその御多分に洩れず、建国以来二百年を数える現在、王宮内での汚職、陰謀、暗殺などはもはや耳新しい話題でもなんでもない。
まことしやかに囁かれる噂によれば、王侯貴族の実に半数がなんらかの暗殺、謀略のために命を落としたともいわれている。
◇
「ちょっと、あのっ……! どこへ──」
背後で何度も尋ねる翡翠の目をした青年の言葉を無視して、ナリウスは王宮の廊下を大股に歩いていた。白い手袋をした右手は彼の手首を強く掴んでいる。
地下牢での一件のあと、怒り狂ってシュウを殴りつけようとしたボダンを下がらせ、ナリウスはすぐさま男の役を解いた。そのまま彼の腕をつかまえて、ここまで歩いてきたのだ。
彼の首輪や腰紐などは、邪魔になるためすでに外させている。レドがこちらの手中にある以上、彼が逃げることはあるまい。
地下牢にいた者たちには、レドにこれ以上の手出しをせぬようにと命じてきた。もちろん後ろにいるこの青年に、これ以上この国と王宮の人々への嫌悪感を抱かせないためである。
……いまさら、遅いのかもしれなかったが。
「あの、お願いですから放してもらえませんか? 逃げたりしないので……」
小走りに後をついてくる青年は、ずっと困った声で懇願している。
ナリウスは突然足を止めた。
「うわっ!」ナリウスに突き当たりそうになって青年が声を上げる。
「…………」
そういえば、ひとつはっきりさせていなかったことがある。ナリウスは振り返り、怪訝な顔で見上げてくるその美しい翠の瞳を覗きこんだ。
「そういえば、君。名前は?」
「は?」
「何を言ってるんだ、この人は」という目がこちらを見返した。ナリウスは小首をかしげた。
「だって、そうだろう? 私はここに『ラギ』と呼ばれる医務官を連れてこさせたつもりだった。でも今の君はどう見ても、トロイヤード国王の──」
それ以上言う必要はなかった。
青年は、また面白いように顔を赤らめて俯いてしまったからだ。これが先ほど、目の前でレド王とあれほど濃厚なキスシーンを演じてみせたのと同じ人物なのだろうか。
「あ……。え、ええっと……」
いきなり困って頭を掻いてみたりしながら答えに窮している。そんなところは、まだほんの子どものようにすら見えた。そういう表裏のない表情が、初対面の時からずっとナリウスの心のどこかを引っ掻いている。
これが本当に、先ほど地下牢でだれも逃れようのないほどに真摯な視線を宿し、体中から神々しいほどに清らかな光を発したようになって皆を絶句させた、あの青年なのだろうか。
どうも、本気の時とそうでない時とで落差の激しい人柄であるらしい。
ナリウスはあらためて尋ねた。
「君が呼ばれたいのは、どっちの名前なのかな? 私はどちらでも構わないよ」
「…………」
青年はしばらく考えていたようだったが、「では……。シュウ、とお呼びください……」と少し恥ずかしそうに言った。それから今度は逆に聞き返してきた。
「あの、それで……。僕は、あなたをどう……?」
「ああ、そうだね」ナリウスは少し考えた。頬に指を添えるのは、昔からの自分の癖だ。「君が『陛下』と呼びたくないなら、ナリウスで構わないよ」
「……」
シュウは、やや意外そうな顔をした。地下牢にいるあの男以外の人間を「陛下」と呼ぶのには抵抗があるかもしれぬと思って提案したが、まさに図星だったのだろう。
本当に、表情に思いのすべてが出てしまう青年だ。こんな風で、さらにはこんな類まれなる容姿をしていて、よくも今まで無事に生きてこられたものだと思う。
「何か、おかしいかな?」ナリウスが尋ねると、シュウは慌てて首を横に振った。
「いっ、いえいえ!」首だけでなく、両手も盛大に振っている。
「では、その……ナリウス様。今、どちらへ向かっていらっしゃるんでしょうか?」
「…………」
そう呼ばれた途端、なにか不思議な気持ちに捉われた。ナリウスは不覚にも言葉をなくした。
よく考えてみると、そう呼ばれたことはここ何年も無かった。
とある一人を除いて、この国ではみなが自分を「陛下」と呼ぶ。
そのたった一人が、今から会いに行くその人物だった。
「あの……。ナリウス様?」
戸惑った顔で見返してくる翡翠の瞳に気付いて、我に返った。
「すぐにわかるよ。……できれば、あまり驚かないで欲しいかな?」
首をかしげている青年の腕をまた掴んで、ナリウスは再び歩きだした。
◇
その部屋は、王宮のかなり奥まった場所にあった。
シュウには、そこがトロイヤード王宮で言うところの後宮なのかどうかはよくわからなかった。だが明らかに廊下を歩く女官の姿が増えたことで、どうやらそうらしいと見当をつけた。
女官たちも、ここの者たちはトロイヤードとは随分異なっていた。
彼女たちはみな襟の高いきっちりとした長いドレス姿で、三角形の独特な形をした帽子を被っている。そこから垂れる薄いヴェールで顔を隠し、みな非常な静けさで、まるで氷の上を滑るように廊下を移動してゆく。
ナリウスの姿をみつけて静かに一礼して通り過ぎる風情も、なにか幽鬼のように見える。けれどもそれは、シュウの先入観のなせる業なのだろうか。
と思ううちにも、ナリウスがとある扉の前で足を止めた。凝った彫刻の施された重厚な扉である。
扉の前に立っていた女官が音も無く一礼をして扉を開けた。
「さ、入って」
ナリウスに促され、シュウは恐る恐る部屋に入った。
「……!」
一歩入っただけでシュウにはわかった。
ここが、死を待つ人の部屋だということが。
分厚いカーテンが引かれた仄暗い部屋の中には、見るからに豪華な調度がさまざまに設えられていた。女官が二人、部屋の中央にある天蓋付きの寝台の近くで、そこに横たわる人の世話をしているようだった。
その人は、そこにいた。
いまにも消えかけようとしている命の灯を胸にともして。
痩せさらばえて、こけた頬。
それは、なんともいえない土気色の皮膚だった。
干からびたように細い腕。
そこにはくっきりと関節が浮き出ている。
血の気の無い、乾いた唇。
癖のある巻き毛は、その兄と同じ銀色だ。
かつてはさぞや美しかったのであろうその瞳も今は落ち窪んで、長らく開かれた様子はなかった。
シュウは、ただ絶句してその少女を見つめていた。
(こんな、若さで……)
見ているだけで胸が痛んだ。
足が震え、思わず目頭が熱くなった。
そっと後ろに立ったナリウスが静かな声で囁いた。
「アイリス。……私の妹だ」
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