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第二部 エスペローサ編 第二章 解放
8 別れ(2)
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ナリウスが手を挙げると、エスペローサ側の護送の一行は停止した。
馬車付きの兵士が急いで扉の鍵を開けに走り、中からレドを引き出して馬に乗せた。レドの服装は、先日最後に見たものと同じだった。今は後ろ手に縛られており、自分で乗馬できないため足台が準備された。
レドが何事もなく馬上の人となると、兵士が一人だけ引き綱につき、ゆっくりとトロイヤード側に向かって馬を歩ませ始めた。
見たところ、あちら側でも一頭の馬を引いた一人の兵士がやってくるのが見えた。馬の背には、謝礼の品であるらしい金品の入った大きな袋をいくつも括りつけている。
……と。
「ナリウス公!」
レドがいきなり、背を向けたまま叫んだ。
馬の足がふっと止まった。
両者の間はほんの二十メトルほどである。
ナリウスがちらりとレドの背中を見やった。
「何かな? レド王の《影武者》どの」
冷ややかで皮肉めいた返答だった。
レドは構わず、やはり背中を向けたままで言葉を継いだ。
「……国は、人だぞ」
ナリウスは沈黙している。
レドはそこで、ようやくこちらに半分だけ顔を向けた。
その頬に浮かぶのは、いつもの不敵な笑みである。
(陛下……!)
他の兵たちの陰に隠れてフードで顔を隠しながらも、シュウは必死に、自分の目にその精悍な横顔を焼きつけようとした。
もしかすると、もう二度と会えないかもしれない人の顔を。
(……!!)
それは、気のせいだったかも知れない。
だが一瞬、シュウはレドと目が合ったような気がした。
レドが言葉を継いだ。
「あんたにも、それがわかる日が来ればいいがな──」
それだけ言ってにやりと笑うと、レドはまた背中を向けた。
そこからはもはや何も言わず、もう振り向きもしなかった。
馬はしずしずと歩いてゆき、やがて向こうの馬とすれ違うところでお互いに一旦止まった。そこで兵士が互いの「荷物」の中身を確かめあったあと、静かに馬の引き綱を交換し、それぞれに自国の側へと戻ってゆく。
レドが向こうの部隊に到着すると、巨躯の男が即座に下馬して短刀で彼の手首の戒めを解いた。
両手の自由を取り戻したレドが下馬したところへ、黒鎧の男もまた下馬し、ずかずかと大股に歩み寄った。
(……!)
シュウは一瞬、目をつぶって顔を背けた。
黒鎧の男が一発だけ、拳でレドの横っ面を張り飛ばしたのだ。
あの国で、国王に手を上げられる男は一人しかいない。
レドも覚悟していたのか、足を踏みしめて黙って受けた。
それから、レドは連れてこられていた黒竜らしき黒馬に乗り換えた。
黒鎧の男も、無造作に自分の愛馬に騎乗する。
よく似た黒馬に乗った二人は、まるで兄弟のようにも見えた。
そのまま彼らがまたエスカルドの峰に向けて歩み去ってゆくのを、シュウはずっとフードの奥から見つめていた。
やがてその姿がぼやけて曇り、周囲の景色も熱く溢れたもので滲んでいった。
(帰りたい……!)
心の奥底から、疼くような衝動が溢れてくる。
いまや、ぼろぼろ零れる涙の中で、シュウはそれだけを思っていた。
手綱を握り締め、その拳をずっと眉間にこすりつけたままで。
(帰りたい……! 帰りたいよ……!!)
いますぐ、馬をそこへ走らせて。
踵をいま、馬体に当てるだけでいいのだ。
ほんの少し、当てるだけで──。
タルカスがいて、ノインがいて。
ヴォダリウスがいて、エデルがいて──
(みんな……!)
……そして、誰よりも。
「へい、か……!!」
とうとう、口に出して叫んでいた。
シュウの絶叫が、秋の空にはじけて軋んだ。
──だが。
今にも馬に踵を当てそうになった、その時。
「シュウ」
氷の王の声がした。
びくりと目を開けると、白銀の彫像のようなナリウスが馬上からこちらをひたと見つめていた。
「……気をつけよ」
凍てついた、心も凍るような声音だった。
「その者らに、そなたを殺させることのないようにな──」
「……!」
驚いて目をやれば、クリスとホッパーが、一人は槍を逆手に構え、もう一人は弓を引き絞ってじっとシュウの動向を窺っていた。その切っ先は、どちらもぴたりとシュウに向けられている。
だが二人とも、兜の奥の目は明らかに動揺していた。ホッパーの目はもう気の毒なほどに揺れ動いていたし、普段あれほど落ち着いているクリスでさえも、まことに辛そうに心乱れているように見えた。
だが、彼らの務めは、もしもこの場でシュウが少しでも逃げたなら彼を殺すことでもあるのだった。彼らの仕事が決して自分の「護衛」などではないことを、シュウはあらためて思い知った。
「…………」
零れる涙はそのままに、シュウは二人をじっと見つめた。
クリスが僅かに、シュウに向かって首を横に振り続けている。
何度も、何度も。
ホッパーにいたってはもう盛大に、ぶんぶんと首を真横に振りまくっていた。
『やめてください、お願いです!』
彼らはただただ、必死にシュウにそう伝えようとしていた。
『堪えてください。お願いです……!』
『我々は、あなたを殺したくなどありません……!!』
「…………」
シュウは沈黙し、それらの切っ先と彼らの顔を黙ってしばらく見つめていた。
次から次へと溢れる涙はただ静かにシュウの顎を濡らし、マントを濡らした。
息詰まるような時間が、どれほど過ぎただろう。
やがて、シュウは黙ったまま静かに馬首を巡らした。
そうしてそのまま、常歩に進み始めた。……ローデングラートに向けて。
槍と弓を構えていた二人の監視兵はほっとしたように息をついてそれらを下ろし、シュウのあとに従って馬を歩ませ始めた。
一連の顛末をじっと見つめていた白銀の王もまた、何事もなかったかのように白馬の足を進め始めた。
エスペローサの隊列がまたしずしずと動き始め、美しい秋の景観の中をゆっくりと王都へと戻っていった。
遠く、山稜から風に飛ばされてきたらしい粉雪がちらちらとその上に舞いはじめた。
シュウの表情には、もう何もなかった。
あらゆる感情が一時のうちにそこから消えうせたようだった。
ただ、ぽっかりと開いているだけの瞳からつぎつぎと零れ落ちてゆくものだけは、いつまでも留まることを知らぬように滴り続けた。
隣をゆく二人の兵士が、ただただ気の毒そうにその横顔を見つめていた。
馬車付きの兵士が急いで扉の鍵を開けに走り、中からレドを引き出して馬に乗せた。レドの服装は、先日最後に見たものと同じだった。今は後ろ手に縛られており、自分で乗馬できないため足台が準備された。
レドが何事もなく馬上の人となると、兵士が一人だけ引き綱につき、ゆっくりとトロイヤード側に向かって馬を歩ませ始めた。
見たところ、あちら側でも一頭の馬を引いた一人の兵士がやってくるのが見えた。馬の背には、謝礼の品であるらしい金品の入った大きな袋をいくつも括りつけている。
……と。
「ナリウス公!」
レドがいきなり、背を向けたまま叫んだ。
馬の足がふっと止まった。
両者の間はほんの二十メトルほどである。
ナリウスがちらりとレドの背中を見やった。
「何かな? レド王の《影武者》どの」
冷ややかで皮肉めいた返答だった。
レドは構わず、やはり背中を向けたままで言葉を継いだ。
「……国は、人だぞ」
ナリウスは沈黙している。
レドはそこで、ようやくこちらに半分だけ顔を向けた。
その頬に浮かぶのは、いつもの不敵な笑みである。
(陛下……!)
他の兵たちの陰に隠れてフードで顔を隠しながらも、シュウは必死に、自分の目にその精悍な横顔を焼きつけようとした。
もしかすると、もう二度と会えないかもしれない人の顔を。
(……!!)
それは、気のせいだったかも知れない。
だが一瞬、シュウはレドと目が合ったような気がした。
レドが言葉を継いだ。
「あんたにも、それがわかる日が来ればいいがな──」
それだけ言ってにやりと笑うと、レドはまた背中を向けた。
そこからはもはや何も言わず、もう振り向きもしなかった。
馬はしずしずと歩いてゆき、やがて向こうの馬とすれ違うところでお互いに一旦止まった。そこで兵士が互いの「荷物」の中身を確かめあったあと、静かに馬の引き綱を交換し、それぞれに自国の側へと戻ってゆく。
レドが向こうの部隊に到着すると、巨躯の男が即座に下馬して短刀で彼の手首の戒めを解いた。
両手の自由を取り戻したレドが下馬したところへ、黒鎧の男もまた下馬し、ずかずかと大股に歩み寄った。
(……!)
シュウは一瞬、目をつぶって顔を背けた。
黒鎧の男が一発だけ、拳でレドの横っ面を張り飛ばしたのだ。
あの国で、国王に手を上げられる男は一人しかいない。
レドも覚悟していたのか、足を踏みしめて黙って受けた。
それから、レドは連れてこられていた黒竜らしき黒馬に乗り換えた。
黒鎧の男も、無造作に自分の愛馬に騎乗する。
よく似た黒馬に乗った二人は、まるで兄弟のようにも見えた。
そのまま彼らがまたエスカルドの峰に向けて歩み去ってゆくのを、シュウはずっとフードの奥から見つめていた。
やがてその姿がぼやけて曇り、周囲の景色も熱く溢れたもので滲んでいった。
(帰りたい……!)
心の奥底から、疼くような衝動が溢れてくる。
いまや、ぼろぼろ零れる涙の中で、シュウはそれだけを思っていた。
手綱を握り締め、その拳をずっと眉間にこすりつけたままで。
(帰りたい……! 帰りたいよ……!!)
いますぐ、馬をそこへ走らせて。
踵をいま、馬体に当てるだけでいいのだ。
ほんの少し、当てるだけで──。
タルカスがいて、ノインがいて。
ヴォダリウスがいて、エデルがいて──
(みんな……!)
……そして、誰よりも。
「へい、か……!!」
とうとう、口に出して叫んでいた。
シュウの絶叫が、秋の空にはじけて軋んだ。
──だが。
今にも馬に踵を当てそうになった、その時。
「シュウ」
氷の王の声がした。
びくりと目を開けると、白銀の彫像のようなナリウスが馬上からこちらをひたと見つめていた。
「……気をつけよ」
凍てついた、心も凍るような声音だった。
「その者らに、そなたを殺させることのないようにな──」
「……!」
驚いて目をやれば、クリスとホッパーが、一人は槍を逆手に構え、もう一人は弓を引き絞ってじっとシュウの動向を窺っていた。その切っ先は、どちらもぴたりとシュウに向けられている。
だが二人とも、兜の奥の目は明らかに動揺していた。ホッパーの目はもう気の毒なほどに揺れ動いていたし、普段あれほど落ち着いているクリスでさえも、まことに辛そうに心乱れているように見えた。
だが、彼らの務めは、もしもこの場でシュウが少しでも逃げたなら彼を殺すことでもあるのだった。彼らの仕事が決して自分の「護衛」などではないことを、シュウはあらためて思い知った。
「…………」
零れる涙はそのままに、シュウは二人をじっと見つめた。
クリスが僅かに、シュウに向かって首を横に振り続けている。
何度も、何度も。
ホッパーにいたってはもう盛大に、ぶんぶんと首を真横に振りまくっていた。
『やめてください、お願いです!』
彼らはただただ、必死にシュウにそう伝えようとしていた。
『堪えてください。お願いです……!』
『我々は、あなたを殺したくなどありません……!!』
「…………」
シュウは沈黙し、それらの切っ先と彼らの顔を黙ってしばらく見つめていた。
次から次へと溢れる涙はただ静かにシュウの顎を濡らし、マントを濡らした。
息詰まるような時間が、どれほど過ぎただろう。
やがて、シュウは黙ったまま静かに馬首を巡らした。
そうしてそのまま、常歩に進み始めた。……ローデングラートに向けて。
槍と弓を構えていた二人の監視兵はほっとしたように息をついてそれらを下ろし、シュウのあとに従って馬を歩ませ始めた。
一連の顛末をじっと見つめていた白銀の王もまた、何事もなかったかのように白馬の足を進め始めた。
エスペローサの隊列がまたしずしずと動き始め、美しい秋の景観の中をゆっくりと王都へと戻っていった。
遠く、山稜から風に飛ばされてきたらしい粉雪がちらちらとその上に舞いはじめた。
シュウの表情には、もう何もなかった。
あらゆる感情が一時のうちにそこから消えうせたようだった。
ただ、ぽっかりと開いているだけの瞳からつぎつぎと零れ落ちてゆくものだけは、いつまでも留まることを知らぬように滴り続けた。
隣をゆく二人の兵士が、ただただ気の毒そうにその横顔を見つめていた。
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