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第二部 エスペローサ編 第二章 解放
9 朝餉(1)
しおりを挟む「お兄様。シュウ様に、何をなさったのですか?」
それは、アイリスが部屋に入ってくるなり始まった。いつになく厳しい視線で妹に睨みつけられ、ナリウスは内心閉口した。
「どうしたんだい? アイリス。そんな怖い顔をして」
もちろんそれでも、いつもの笑顔を浮かべて愛する妹を迎える。
ナリウスの私室である。
侍従や女官たちに手伝わせながら朝の身繕いをしていたところへ、突然アイリスが押しかけてきたのだ。こんなことは初めてだった。
「お兄様! お尋ねしたことにお答えください!」アイリスはひどく心配そうな、また悲しげな表情で言い募った。「先日からずっと、お部屋にこもっておいでで……。お会いしに行けば会ってはくださいますし、お話をすれば笑ってもくださいますけれど……。でもあれは、相当ご無理をなさっていますわ。ご病気ではないとのことですが、わたくし、心配でならないの……!」
言いながら「居ても立ってもいられない」という風に、アイリスは両手を握り合わせてその場で歩き回っている。
「ああ……」
「そのことか」と言わんばかりの兄の表情を見て、アイリスはますます激昂した。
「やっぱり、お兄様なのですね? シュウ様はなにをあんなに塞ぎこんでいらっしゃるの? アイリスにも分かるように、どうか教えてくださいませ!」
ナリウスは密かに溜め息をつく。この可愛らしい妹から、元気になった途端にこうもぽんぽん叱られる羽目になろうとは思わなかった。
「シュウ殿の、ごく個人的なことだからね。彼が話したくないことは、私の口からもちょっとね……?」
嘘ではないが、すべてが本当とも言えない返事をしてナリウスは微笑んだ。
隣国の王を国許に戻してから今日で五日になる。シュウが何を塞ぎこんでいるかなど、ナリウスにとっては自明のことだった。しかし生憎と、それを素直にアイリスに伝えるほど彼女の兄はお人好しではない。
「シュウ殿がそなたに話したいと思われるなら、何も聞かずとも話してくださるはずだろう? それまで待って差し上げるのも、思いやりというものではないのかな?」
ナリウスの口は優しげにそんな台詞をすらすらと並べ立てている。その原因を作った張本人がよくも言えたものだと、我ながら呆れるほどだ。
「そ……それは、そうですけれど……」
アイリスが困った顔になって俯いた。
ナリウスはここぞとばかりに畳み掛ける。
「さあさあ、朝餉の刻限だよ。なんだったら、シュウ殿もお誘いしてみるといい。少しでも気分が晴れるだろうからね」
アイリスだけにしか見せない極上の笑顔と柔らかな口調で、ナリウスはまた妹を煙に巻いていた。
「は、はい……。そうですわね、そうしますわ……」
納得したように唇を引き結んで部屋から出てゆくアイリスを見送って、ナリウスはほんの少し首をかしげた。
自分の妹は、昔からあんな風に結論からずばりと切り込んでくるような少女だっただろうか?
なんとなく隣国の若い王を思い出し、ナリウスは額に指先をあてると「やれやれ」とばかりに頭を振った。
◇
シュウは自室で、まだ寝台の中で横になっていた。アイリスが回復して以来、自室として与えられている部屋である。外はすっかり明るくなり、まるで城の人々すべてに幸せを運んでいるかのようなやさしい小鳥の声も聞こえている。
目は覚めているのだが、どうしてもすっきりと起きられない。
夜はなかなか寝付けないし、眠ったところで見る夢は、父や母や南の国の、あの懐かしい人々の顔ばかりだ。
そして、彼の夢など見た夜は──。
必ず泣きながら目を覚まし、その後は逆に目が冴えてまったく眠れなくなってしまう。また、夜の間のことでもあり、心だけでなく身体までがその指や唇、その他の感触を思い出してしまい、とても眠れたものではなかった。
特に体のほうはひどく正直だった。レドに愛されていた場所が夜毎に悲鳴を上げてはシュウを悩ませたのだ。仕方なく、恥を忍んで自分でそこを慰めてみるほか、シュウにはできることもなかった。
彼の名を呼びながら自分の手の中で果ててから、シュウはまたひとり涙に暮れた。
そうやってようやく眠れることも多かったが、そのまままんじりともせずに朝を迎えてしまうことも多かった。
そんな夜を、あれからずっと過ごしてきた。
エスカルド山脈の山裾。タルカスとノインが迎えに来て、彼が黒馬に乗って去ってゆく。あの場面が、脳裏からどうしても消えてくれない。
そう、あの日から……ずっとだ。
ときどき部屋を訪れてくれるアイリスも、扉の外にいる監視兵の二人も心配してくれているのは分かっていた。しかし、どうしても話をしたいと思えない。
少なくともアイリスには、それなりに会話もし、笑顔も見せなくてはならなかったけれども。シュウにはそれが、今まで感じたことがないほどに苦痛になっていた。
ただただ、放っておいて欲しかった。
こうしていてはいけないと分かっていても、体はまったく言うことを聞いてくれなかった。
と、遠慮がちに扉を叩く音がしてシュウは体を起こした。
(またか……)
密かに溜め息をつく。朝の着替えを手伝うために、また女官たちがやってきたのだろう。また丁重にお断りをせねばならない。
大体どうして、こうやって一日中部屋にこもっている者がそうも再々着替えなければならないのか。下手をすると、女官たちは食事のたびごとにシュウの着替えを手伝いにやってくるのだ。
「……はい」
シュウが答えると扉が開いた。しかし、シュウの予想は外れた。
「おはようございます、シュウ様。今、少しよろしいでしょうか?」
兜の顔を覗かせたのは、いつも扉の前にいるクリスとホッパーの二人だった。
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