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第二部 エスペローサ編 第三章 過去
10 フローラ(3)
しおりを挟む「どうしたのです?」
クリスは即座に振り向いた。そして我が目を疑った。目の前に春の妖精が降り立ったのかと思った。
「えっ……?」
ゆるやかに巻かれた輝くばかりの銀髪と、吸い込まれそうな碧い瞳。薄紅色のドレスに白いショールを肩に掛けたその女は、今まさに天界から降り立った天女を思わせる風情であった。
その天女が、いまクリスを覗き込んでひどく心配そうな顔をしている。その人の背後には、彼女によく似た長い銀髪の少年が不思議そうな顔をして立っていた。
「あっ、あの、大丈夫です、ので──」
少年だったクリスには、それだけ言うのが精一杯だった。
「あら、いけないわ。血が……」
そんなものは生まれて初めて見たかのような物言いで、女性は自分の刺繍入りの手巾を取り出すと、クリスの顔をぬぐおうとした。クリスはびっくりして、慌てて飛びのいた。
「いえっ、ほんとに、大丈夫だから……!」
クリスはようやく気がついた。この人が、いったい何者であるのかを。しかし女性は、優しい笑顔の中にも有無を言わさぬ様子でクリスにこう言った。
「いいえ、いけないわ。お薬を塗らなくては。わたくしについていらっしゃい……」
「お母様。父上さまに、また叱られますよ?」
滑らかな銀色の髪をした背後の少年が困ったように笑いながら口を出したが、女性は聞く耳を持たなかった。
「ナリウスは、午後は剣術のお稽古なのでしょう? お母様のことはもういいですから、どうぞいってらっしゃいな」
女性は息子に優しくそう言うと、クリスの手を引かんばかりにして自室に連れて戻り、侍女たちに念入りに彼の傷の手当をするようにと命じた。
もちろん、少年とはいえ男を後宮に入れることはご法度だ。そんなわけで、クリスは警備兵の目のあるところでは彼女のショールを被らされる羽目になった。
王妃の部屋は、ちょうど現在のアイリスの部屋であった。窓辺の竪琴も、今とまったく同様にしてその場所に置かれてあった。
その脇には薄絹の掛かったゆりかごにアイリス姫が寝かされていた。赤ん坊はそれまですやすやと寝息をたてていたが、クリスが部屋に足を踏み入れた途端、すぐにぐずり始めた。いつもと違う人間の気配を感じたのかもしれない。
「あ、あの、俺……」
「大丈夫」慌てて部屋を出て行こうとしたクリスを引き止めて、王妃はにっこり笑った。「わたくしには秘密兵器があるのだから……」
そっと意味ありげに片目をつぶって見せられて、少年クリスの心臓は跳ね上がった。その感情をなんと呼ぶのか、当時の自分に分かるはずもなかったけれども。
王妃は顔に似合わず、意外とお茶目な性格らしかった。彼女の口から普通の王妃様なら使いそうもない単語が飛び出たことにようやく気付いて、クリスは正直驚いていた。
そのまま澄ました顔で竪琴の脇に座ると、王妃は滑らかな指使いでその優雅な楽器を奏で始めた。
途端、アイリス姫は嘘のように泣き止んで、またすやすやと眠り始めた。
眠気を誘うような春の日差しの中、まるで天界から聞こえるような典雅な竪琴の音が静かにクリスの心に染みこんでいった。
◇
「……そうか。そなたは、あの時の──」
一連の話を聞き終えて、ナリウスが吐息を漏らした。
さすがのナリウスもその薄氷の瞳に悲しげな色を乗せ、なにか遠い目をしているように見えた。
「いい話を聞かせてもらった。礼を言うぞ」いつになく優しい物言いだった。
「いえ。……ですが」
「ん?」
クリスはその時、一瞬にして腹を決めた。ここしかない。これが恐らく、最初で最後の機会であろう。前々から、ナリウスには是非とも一度言っておきたいことがあったのだ。
「ひと言、申し上げてもよろしいでしょうか」
「……なんだ?」
クリスは覚悟を決め、軽く息を止めてから頭を下げると、一気にその言葉を口にした。
「どうか、シュウ様を……王妃様のようにはなさらないで頂きたいのです!」
「……!」
ナリウスの目が途端に冷気を取り戻し、クリスの体を厳しく射すくめた。が、クリスはその圧力には負けなかった。そのままナリウスの目を見つめ返し、ここぞとばかりに言い募る。
「一介の兵士が口を出すことでないことは承知しております。しかしシュウ様は……あの方は、お優しすぎる! いつかまた王妃様のように、あの優しさでご自分の身を滅ぼしておしまいになるのではないかと──」
「クリス!!」ナリウスの鋭い声が飛んだ。すでに椅子を蹴って立ち上がっている。「それ以上の口出し、許さんぞ」
ナリウスの声は、いまや「氷の王」の声そのものだった。声ばかりでなく、体じゅうから真冬の冷気を帯びた殺気が放たれている。
クリスは押し黙った。
「母上の思い出話に免じて、今回だけは処罰を見送ろう。だが二度目はないぞ。……わかったな」
薄氷の色を映した瞳に明らかな蒼い怒りの炎をゆらめかせて、氷の王は言い放った。
「…………」
クリスはしばし王のその瞳を見返していたが、やがて黙って一礼し、執務室を後にした。
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