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第二部 エスペローサ編 第三章 過去
14 密室(2)
しおりを挟む「す、すみません……。でも、護衛のお仕事の邪魔なのでは……?」
「いえ。大したことではありませんので」
と、まだ自分がクリスの腕に抱かれているのに気づいて、急にシュウは慌てた。
「あっ、す、すみません……!」
ぱっと体を離すと、そそくさと寝台の真ん中に戻る。クリスは少し不思議そうな顔になったが、すぐに寝台から離れて扉に向かった。
「あ、あのっ……! ちょっと待ってください、クリスさん!」彼が早々に部屋を辞そうとしているのに気づいて、シュウは慌てて声を掛けた。
「はい?」クリスが立ち止まる。
彼と二人きりになるのは初めてだ。できればシュウは以前から、ホッパーのいない所で彼から聞いておきたい話があった。だからこれはちょうどいい機会に思えた。
「あの……。クリスさんはご存知なんですよね? ナリウス様とアイリス様のお母様のこと──」
「…………」
クリスは沈黙したままシュウを見返した。彼の周囲の空気が急に温度を下げたような感じがあった。
「あの、それと……。王妃様がお亡くなりになった時にこの王宮であったこと、とか……」
クリスはシュウに向き直った。
「それに関しては、すべてを知っているわけではありませんが。自分も子供のようなものでしたし」
静かな返答だった。だがその声は、暗に「それを知ってどうするのか」とシュウに問うているようにも思われた。はっきりとそれを感じて、シュウは俯き、口ごもった。
「あの、僕は……この王宮の人間じゃないですし、本当はそんなこと、聞くべきでもないのかも知れませんけど……」
「…………」
「ナリウス様もアイリス様も、少しでもこの話になるとお辛そうで、どうしても聞けなくて……。でも」
シュウは目を上げ、まっすぐにクリスの瞳を見つめた。
「でも僕は、ちゃんと知っていなくちゃいけないという気がするんです。お願いです、クリスさん。あなたが知っていることを、僕に教えて頂けないでしょうか……?」
クリスはしばし何も言わずに、シュウの瞳を見返していた。が、やがて静かに口を開いた。
「……それは」クリスの声は、今まで聞いたことのないような、低くて沈痛なものだった。「それは、あなた様が……覚悟を持ってくださるのだと、理解してよいのでしょうか」
シュウは驚いて目を見張った。
(覚悟……?)
クリスは一歩シュウに近づいて、同じ言葉を繰り返した。
「覚悟を持ってくださいますか。シュウ様」真摯な、緊張した声音だった。
「…………」
シュウはクリスの悲しげな黒い瞳を、しばらくじっと見上げていた。
辛い話が始まろうとしていた。
しばらく考えていたが、やがてシュウはクリスの目を見つめて、ゆっくりと頷いた。
◇
十二年前。
エスペローサ暦、百八十八年。
エスペローサ王宮では、誰もが眉を顰めるような、鼻持ちならない噂がまことしやかに囁かれるようになっていた。
それは、恐るべき内容だった。
『皇太子ナリウス殿下は、国王陛下の実子にあらず』──。
(馬鹿なことを……!)
大人たちがひそひそと囁き交わすのを横目で見ながら、クリスは心底、辟易していた。彼は十五になっていた。すでに、一応は最下級の兵士として戦場にも出られる年齢となっている。噂の張本人たるナリウス皇太子殿下が十四歳、アイリス姫がようやく二歳になったころのことである。
噂の出所は判然としなかったが、それはさも本当らしく、あちらこちらで尾ひれを増やしつつ繰り返し繰り返し語られていた。
「考えてもみなよ。フローラ妃殿下がお輿入れされてから、ナリウス殿下ご誕生まで、ちょっと短すぎたじゃねえか?」
「確か、満月が九つ分、いや八つ分だったかな……?」
「それに、噂じゃフローラ様には、故郷に若い貴族の想い人がいたっていうじゃねえか!」
「それも、結婚の約束まで交わしてたってよ!」
「あんなに急に力ずく金ずくで、無理やりひひ爺いと添わされることになったんだ。その男と最後にちょっと、なんかあってもおかしくねえわな……」
我が耳を汚されたくない一心であまり真面目に聞いてはいなかったので、細かな部分は正確ではないかもしれない。が、要はそういう話なのだった。
「アイリス姫のほうはともかく、婚礼からまもなくして生まれたナリウスは、エスペローサ十三世の実子ではない可能性がある」。噂はそう言い立てているのだった。
今にして思えば、それは妙な話だった。
それが本当に疑わしいのなら、なぜもっと早くにそういう噂が立たなかったのか。
しかも、その真偽を確かめようにも、当のヨークランドの青年貴族は数年前に他界して、すでにこの世の人ではないというのだ。
そんな都合のいい話があるだろうか?
当時、まだやっと十五歳の下級兵士に過ぎなかったクリスには分からなかったが、恐らくあの時、宮廷内では国王の後継者問題が持ち上がっていたのではないかと思う。事実、国王の側室の子供の中には何人かの後継者候補がすでにおり、ナリウスよりも早く成人を迎えていた。現国王は七十四歳となり、先年から病の床に就いていた。
本来なら、正妃の子であるナリウスが次期国王の座に就くのは当然だった。だがクリスが思うに、ナリウスは少々、怜悧に過ぎた。また、まだ大人たちの薄汚れた事実の歪曲や詭弁などを敢えて看過する度量も培われてはいなかったことだろう。ナリウスとて当時はたかだか十四の少年だったのだ。荷が重かったのも無理はない。
要するに、ナリウスは大臣たちにとって将来「御しがたい馬」となるのは目に見えていた。それどころか、いずれは彼らにとって最も重要な権益を脅かす存在にすらなりかねなかった。
この国の枢要を占める宮宰や宮中伯たちにとって最も重視すべきは「それぞれの持つ権益をいかに守るか」。それのみだ。大臣たちは銘々がエスペローサ国内の各地におのおのの領地をもっており、そこから採れる資源と農作物によって私財を増やすことこそを何よりも重要視している。
そうした中で往々にして行われる汚職の数々を、半ば当然の利益として享受し続けている者も少なくない。卿相雲客と称される者としてあまりにもお粗末な仕儀であったが、それがこの国の現実でもあった。
幼いころはいざ知らず、ナリウスは長ずるにつれてその利発で清廉な素養が明らかになっていった。大臣たちは次第にそんな王子を疎ましく思い始め、自分たちがもっと意のままに動かせる凡庸な君主を望むようになっていったのではないだろうか。
……そうこうするうち。
ついに、あの事件が起こった。
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