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第二部 エスペローサ編 第五章 呪詛
6 怨嗟(2)
しおりを挟む螺旋階段にこだまする囚人たちの阿鼻叫喚は相変わらずだった。だがシュウは、敢えて意識的にそれらに耳を傾けないようにした。今はただ一刻も早くナリウスのもとへ行かねばならない。
サリヨルの収監されている牢は、あのレドが入れられていたのと同じ地下牢最奥部の部屋だった。嫌でもあの時の思い出が甦り、シュウの胸は締めつけられた。が、敢えてその痛みにも蓋をして、まっすぐに扉に向かった。
扉の前では、別の警備兵が兜をしていても分かるほど真っ青な顔で立っていた。彼はクリスとシュウの姿を認めるやいなや、あからさまにほっとした様子ですぐさま扉を開けてくれた。
「ナリウス様……!」
扉から飛び込むなり、シュウはその人の姿を探した。が、まず目に入ったのは、正面に拘束されている凄惨な老人の痩躯だった。
「……!」
シュウは一瞬息を呑み、立ち尽くした。背筋を駆け上がってくる怖気は喩えようもなく、自分の意思とは関係なしに両足が震えた。しかし、今ここで座り込んでいるわけにはいかない。今の目的はこの老人ではないのだ。シュウは唇を噛んで震えを堪え、さらに視線を巡らした。
と、クリスがその姿を先に認めて、少しほっとしたような表情になった。
「陛下……」
ナリウスは、クリスがこの部屋を後にした時と同じ所にまったく同じようにして立っていた。いかにも恐ろしげな形の黒々と血糊の跡の残った拷問具の間で、相変わらず顔を覆うようにして壁に凭れかかっている。長い銀髪が顔を隠して、表情は見えなかった。
シュウもその姿をみつけ、すぐにその傍に駆け寄った。
「ナリウス様……!」
恐る恐るその腕に手を触れようとして、シュウはびくりと手を止めた。ナリウスの目が、明らかにこの世のものを見ていなかったのだ。またあの時と同じように。
(やっぱり……)
シュウの胸は、またきりきりと痛みを訴えた。
何があったのかはわからない。しかし、今は何より、この人をここにこのままにしておく訳にはいかなかった。
(とにかく、ここから連れ出さないと──)
はじめ、クリスがシュウに求めたのは、ナリウスにこの老人への拷問をやめさせることだった。しかし、ナリウスがこの状態である以上、もうその問題は解決している。今はそんなことよりも、目の前のナリウスの精神面が心配だった。
「シュウ様……」
隣に立つクリスが、気遣わしげにシュウとナリウスを見つめている。武官の彼なら、力によってナリウスの体を動かすことなど容易くできるだろう。有無を言わさずナリウスを担ぎ上げ、部屋まで運ぶなど造作もないことに違いない。
しかし、今ナリウスに必要なのはそうした物理的な力ではないのだ。そのことを、彼はその聡明さによって理解している。だからこそシュウをここに呼んだ。シュウの助けを欲したのだ。とはいえ、必要なのはシュウの《癒しの手》の力でもない。もっと他の、もっと大事な別の何かなのだ。
(……それは)
シュウは目をつぶり、一度だけ深呼吸した。そして再び目を開くと、あらためてナリウスに向き直った。
「ナリウス様……?」努めて穏やかな声で話しかけた。「あのう、そろそろ夕餉の時刻ですよ……?」
幼い頃、シュウが何かのことで泣いていると、決まって母はこう言った。なんとなくだったけれども、シュウは今、ふとそれを思い出したのだった。もちろん、その時の母の言葉は「そろそろ御飯よ」という、もっと単純なものだったけれども。
シュウは静かに言葉を続けた。「お腹、すきませんか……?」
ナリウスは微動だにしない。シュウはそれでも、そのまま母親がするようにして彼に語りかけた。
「ねえ、ナリウス様……」
静かに首をかしげて、頬には笑みすら浮かべている。その姿を、隣に立ったクリスが驚いたように見つめていた。
「僕はもう、ぺこぺこなんですけど──」
それは何の作為もない、ただ普通にシュウが部屋で話すときの声音だった。
「…………」
ぴくり、と僅かにナリウスの銀髪が揺れたようだった。シュウはさりげなく両方の手袋を外して、ナリウスの腕にそっと触れた。
「ね? 行きましょうよ……。アイリス様も、きっとおなかをすかせて待っていらっしゃいますよ?」にっこり笑ってナリウスの瞳を覗き込んだ。「遅れたら、ほら……また怒られちゃいますよ?『もう、いつまで待たせるんですの、お兄様!』って──」
シュウはアイリスの口真似をしてくすくす笑ってみせ、ナリウスの腕を掴んだ手に先ほどよりもしっかりと力をこめた。
「あれで結構、アイリス様って怒らせると怖いですよね? 僕、また怒られるのいやだなあ……」
そのままナリウスの背中に腕を回し、彼に自分の体温を伝えるかのようにゆっくりと抱きしめた。そうして、上体をかがめたナリウスの頭が自分の胸に触れるようにする。
「僕の、胸の音……聞こえます?」
無意識の行動だったが、ふとタルカスを思い出した。
トゥラーム兵たちに野営地を襲撃されたあの時、無残な《影》の躯を目にして恐慌状態に陥った自分を、彼がその胸に抱きしめて宥めてくれた。あの時も、彼は静かに「自分の鼓動が聞こえるか」とシュウに訊ねた。
「…………」
それは非常にゆっくりとした変化だった。
だが、次第にナリウスの目の焦点が合いはじめた。顔を覆っていた手が少し離れる。
「ね? ナリウス様……」
そして、ようやく彼は目の前にいる人物を認めたようだった。ナリウスは静かにシュウの胸から体を離すと、やっとシュウの瞳に視線を合わせてくれた。だが今、冷たく美しい薄氷の瞳はひどく怯えた色を浮かべていた。
……そして。
「……シュ」その唇から掠れた声が零れ出た。「シュウ……?」
「……はい?」
彼の目を見つめ返して微笑んだ途端、シュウはあっという間に、息もできないほどにナリウスの腕に抱きしめられていた。
「うわ! あ、いたたた……」
またもや背中の矢疵が痛んで、笑いながらも小さく悲鳴をあげてしまう。クリスが慌てて声を掛けようとしたが、手を上げてそれをとどめた。「大丈夫」と言う代わりに、黙ってクリスに頷いてみせる。
シュウは自分の体を力任せに抱きしめて肩に顔を埋めているナリウスの背中にそっと両腕を回し、ぽんぽんと優しく叩いた。
「大丈夫……。大丈夫」そのまま耳元に優しく語りかける。「ナリウス様は、大丈夫……」
子どもにするように彼の頭をなで、ぎゅっと抱きしめる。そうして、静かに微笑みながら言った。
「帰りましょう……? 僕、おなかすいちゃったな……」
……やがて。
ナリウスの頭が肩の上で、ごく僅かに縦にふられた。
隣でクリスが無言のままに、深々とシュウに頭を下げた。
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