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第二部 エスペローサ編 第五章 呪詛
11 毒杯(3)
しおりを挟む「王妃よ」母の言葉を打ち消して父が言った。「そなた、今ここでまことの心をもって答えよ。このナリウスは、まこと真実をもって儂の子か?」
母の瞳は一瞬、驚きに見開かれた。
「陛下。まだ……そのような──」
「答えよ!」
父の声は氷の棘のように無情だった。母は一瞬押し黙り、やがてその碧く澄み切った瞳でしっかりと父を見返してはっきりと答えた。
「もちろんでございます。ナリウスは間違いなく、あなた様の御子にございます。でなければいったい他のだれが、この子の父親だとおっしゃるのでしょう──」
悲しげなその声は、最後は涙にまぎれてしまった。自分は杯を手にしたまま、目の前でにたにたと含み笑っているロズメルを睨みつけていた。怒りのために手が震え、葡萄酒の面をびりびりと波立たせた。
父王の声は、その母の涙を見てもわずかも温度を上げることも、硬度を下げることもなかった。父はなんの温情も乗らない視線で母を寝台から見下ろしたまま、冷たく次の言葉を投げてきただけだった。
「ではそなた、証明して見せよ」
「……は……?」
涙を零しながら、母が虚を突かれたように目を上げた。
「そやつに今渡したものは、毒杯じゃ。今からそやつに、それを飲んでもらう」
「……!」
母の体があまりの驚愕に凍りついた。自分はすでにある程度の察しがついていたため、さほどの驚きは感じなかった。ただ静かに、その葡萄酒の面を見つめただけだった。
(なるほどな……)
が、母は絶句し、やがてやっとこう言った。
「な……なんと……?」
「じゃがの、王妃よ」父は狡猾な色を浮かべた瞳でひたと母を見据えて、言い放った。「もしやそなたが以前の姦淫の罪を認め、そやつがその男の子供と認めるならば、そやつの命ばかりは助けて進ぜよう」
「へ、陛下……。なんということを──」
母はもう全身をがたがたと震わせ、真っ青になって立ち尽くしていた。
「本来ならば死罪を申し付くるところじゃが、ただそやつを追放するだけで許してやろうというのじゃ、感謝するがよいぞ……」
「そ、そのような──。あまりといえば……!」
母の血の出るような叫びなど、父の耳にはまったく届かなかった。
「構わぬな? 王妃。そやつがたとえ追放の身になったとて、或いはここで死んだとて、まだアイリスもおれば他の王子たちもおるのじゃ。なにもそやつにそこまで拘ることはない。ここまで無様な噂の立ってしもうた皇太子など、もはや我が大国エスペローサの次期国王としてはふさわしくあるまいが?」
ぼさぼさとだらしなく伸びた白い髭の奥から、力のない錆びた声でとうとうと父王が説明している。自分はそれを、どこか遠くで聞いていた。
「いっそこの場で死んだ方が、今後のそやつの名のためにはまだましよ……。我がエスペローサ王朝の歴史書に、姦通の子の汚名があるべきではない。そうであろうが?」
「そんな……。そんな……!」
母は口を覆って、もはや言葉もでない様子である。が、今にもその場に倒れこみそうな母を傍に駆け寄って抱きかかえることも許されなかった。
「姦淫の罪など、わたくしは決して犯しておりませぬ……! 追放などと、なぜそのような……。まして、何の罪も無いナリウスに、自ら死を選ばせるなど……!」喉を絞るようにして、母は必死に言い募った。「ナリウスは、まだたった十四にございます……! どうか、どうか……!」
母はもう涙を零して跪き、身も世もなく懇願していた。
突然、父王が激怒して大声を上げた。
「そなたは、それを可愛がりすぎる──!!」
はっと見れば、その激情は老いた父の体をぶるぶると戦慄かせ、両眼を鉛色に染め上げてめらめらと燃え上がらせていた。
(──なんという……)
愕然と父を見つめて、ナリウスにはようやく分かったような気がした。
父の感情の、その根底にあるものが。
それは、恐ろしく子供じみた感情だった。
父は、母を愛しすぎている。
いや、それを愛と呼ぶのかどうか。
今の自分には、もうよくわからない。むしろそれは「執着」とでも呼ぶほうが相応しいのかも知れぬ。
ちょうど、小さな子供が大事な玩具を取り上げられまいとどこかに隠してしまうように。父はこの国に母を持ち去り、この十五年間閉じ込めてきた。母の心も体も独り占めにし、思うままにして、彼女を自分のものにできたと思い込んでいたのだろう。恐らく数年間はそれで満足もし、安心もしていたのだろう。
しかし。母の心にはずっと母国の青年が住んでいたと聞かされて、父の心は次第に壊れ始めたのだ。ましてや、今までわが子と信じてきた可愛い長子の息子までが、実はその男の落とし種だなどと奸臣どもから吹き込まれ、恐らくは体の衰えのみならず、精神の平衡をも急速に崩していった──。
父はその時、もう正気などではなかったのだ。とうの昔に。
その身をも焼き焦がすような嫉妬の炎でヨークランドの青年貴族を恨み、母を恨み、ナリウスさえも恨んでいた。今にして思えば、もしナリウスがまこと父の実子だったとしても、その嫉妬心から逃げ切るのは難しかったのかもしれない。父の母への執着はそれほどのものだったのだ。
父はひたすらに邪魔だったのだ、ナリウスが。自分の子であろうが他の男の子であろうが、実はどうでもよかった。自分だけのものであるべきフローラが、己が命よりも慈しみ愛するその美しい息子のことが。
邪魔で邪魔で仕方がなかった。憎くて憎くてたまらなかったのだ。恐らくは。
(……それならば)
ナリウスは、それらを一瞬にして理解した。
そして、悟った。
この場は、自分が死ぬよりほかはない。母がもし息子の命惜しさのあまりに過去の姦淫の罪など認めてしまったら、彼女の命とて危ないのだ。
母は若い。自分がたとえここで死んでも、また王子を産む可能性は十分にある。その母の存在を、この欲に塗れた奸臣たちがこのままむざむざと許すとは思えなかった。
だとすれば。
自分が今この毒杯をあおるより、母をこの恐ろしい嫉妬の劫火から逃れさせる術はない。
ナリウスは静かに言った。
「……お母様。もういいのです」
床に倒れこんでいたフローラがびくりとナリウスの顔を見上げた。銀色の巻き毛を乱し、涙にかき暮れていながらも、それでも母は美しかった。
ナリウスはその顔に微笑みかけた。
「これまで育てて頂いて、本当に有難うございました……」
その時、心からの、そしてできるだけの優しい笑顔を母に向けた。
「さようなら……お母様」
言って、手にした杯を傾けた。
──しかし。
「……!!」
それは次の瞬間、もう自分の手の中には無かった。
はっと隣を見れば、今の今まで床に倒れていたはずの母が、隣でその杯を空けていた。さも美味しそうに。
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