俺の天使に触れないで  〜隆之と晴の物語〜

波木真帆

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涙の理由

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「早瀬、次の撮影には私も同行するからな。日程が決まったら早めに伝えてくれ」

「畏まりました」

次の撮影まで1ヶ月以上あるというのに、待ちきれない様子の部長を見ると、何だか運動会や遠足を待ち侘びる子どものように見えてきた。

「さて、リュウールの話はそのくらいにしてフェリーチェのCMについての打ち合わせを始めるとしよう」

そうだ、こちらが本題だ。

「先日、フェリーチェとベルギーの高級チョコレートショップ【Gezellig 】とのコラボが正式に決定した。
そこで、うちに広告依頼が来たのだが、元々フェリーチェからは15年前にやったCMの復刻CMを出したいという依頼が来ていた。それで、フェリーチェの上層部で会議を重ねた結果、この復刻CMとコラボパンを合わせてやりたいという依頼になったらしい」

「合わせて……と言いますと?」」

「元々あのCMはお前も覚えているだろうが、ライ麦ショコラパンのCMだっただろう?」

そう。復刻させようとしている、桜木部長とフェリーチェの長谷川さんが作ったあのCMはライ麦ショコラパンのCMだった。
CMは賛否が分かれてCM自体はすぐに打ち切りになってしまったが、商品自体は老若男女問わず人気商品となり、数あるフェリーチェの商品の中でも販売当時断トツ人気を誇っていた。
その商品人気に支えられ、CMが打ち切りになっても桜木部長も長谷川さんも社内で責任は問われなかったと聞いたことがある。

それから数年の間、フェリーチェのトップに君臨し続けていたライ麦ショコラパンはライ麦の高騰で販売休止になってからまだ再販はされていない。

数ヶ月前の面接の時の晴の意見に感銘を受けた桜木部長が長谷川さんに声をかけ、そして、長谷川さんがフェリーチェの上層部に働きかけたことで以前の低価格帯のライ麦ショコラパンと共にあのCMを復活させる予定だったはずだ。

「フェリーチェは今回の【Gezellig 】とのコラボパンをあのライ麦ショコラパンにすることに決定したそうだ」

部長の話によると、フェリーチェ上層部は復刻CMを作るにあたりまだまだ原料であるライ麦の高騰もあり、以前と同じ低価格帯でのライ麦ショコラパンの復活に難色を示したらしい。
そこで、フェリーチェの創業記念も兼ねて高級志向のライ麦ショコラパン復活のために長谷川さんは
【Cheminée en chocolat】に何度も足を運んだのだ。
ところが、いつも店は休業ばかりで店に入ることすらできず、ようやく話ができたショコラティエには無理だと突き放されていた。
偶然の晴の働きで【Cheminée en chocolat】と繋がり、そしてさらにはベルギーの高級チョコレートショップ
【Gezellig 】と繋がったことで今回フェリーチェのライ麦ショコラパンが一時的に復活するのだ。

販売していた当時のものより、値段も遥かに上がるだろうが期間限定での復活ならば購買意欲も増えるだろう。
フェリーチェ上層部としても、元々ライ麦の高騰で販売休止になっていた商品だ。
おそらく元から限定的な販売をするつもりだったに違いない。

「そういうわけでフェリーチェは【Gezellig 】とのコラボパンをライ麦ショコラパンにすることにしたらしい。
上層部の中には【Gezellig 】とのコラボパンは他のパンにする意見もあったそうだが、【Gezellig 】のテオドールさんが、ライ麦ショコラパンを推したそうだ。彼のチョコレートの強い味に合うのは、ライ麦パンしかないとね。香月くんも試食したからわかるだろう?」

「はい。フェリーチェの他のパンも試食させてもらいましたが、一番合うのはライ麦パンだとおもいました」

フェリーチェの威信をかけたコラボパンというわけか。
今回のCMは復刻以上の重大な任務になりそうだ。

「てっきりコラボパンと復刻CMは別物だと思っていましたので驚きました。でも、あの【Gezellig 】とのコラボですから、ライ麦ショコラパンでしたら納得ですね」

ライ麦ショコラパンは販売休止中の今でも人気ランキングの上位に入ってくる代物だ。
今従来のライ麦ショコラパンを復活させるより、逆に期間限定で高級チョコとのコラボの方が消費者の関心度は高いだろう。

「このコラボパンは絶対に失敗するわけにはいかない。フェリーチェにとってもうちにとっても重大案件だからな。早瀬、香月くん頼むぞ!」

「「はい」」

私の返事はともかく、何より晴の力強い返事に桜木部長は満足そうな表情を浮かべていた。

「以前のCMデータが残っているから、一度ここで見てみようか」

「わぁっ、あのCM見られるんですか? 嬉しいっ!」

晴はあのCMが大好きだったと言っていたものな。
面接で好きなCMについて話したことが、そこからとんとん拍子に今の状態になっていくなどあの時の晴は夢にも思っていなかっただろうな。
いや、晴だけじゃない。
あのCMを作った桜木部長ですら、今のこの状態は想像もしていなかったことだろう。
いつかあの時のリベンジができればと長谷川さんと2人でずっとお酒を飲むたびに話していたそうだが、それがこんなにも早く実現するとは思っていなかったことだろうな。
それもこれも晴が小蘭堂を選んでくれたからだ。

晴はやはりうちの会社にとって勝利の男神といえるだろうな。
まぁ、晴の姿を見れば女神や天使の方が似つかわしいと思うが。

プロジェクターを準備し、スクリーンに投影したCMはテレビで見るよりもやはり迫力がある。
晴は全てを見逃さないと言わんばかりにじっとスクリーンを見続けている。

晴があのCMを好きだと言ったことに嘘偽りなど一切ないのだ。
だからこそ、あのCMの改善点を見つけることができたのだ。

俺もあのCMを十数年ぶりに見て、あの頃とは感じ方が違うことに気がついた。
それは俺がこの広告代理店で仕事を始めたこともあるだろう。
俺はCMを見る側から作る側になったのだ。
だから、この広告を今見ると、悪いCMには全く思えない。
それどころかここまで印象的なCMを作れたことに感心するばかりだ。

「香月くん、久しぶりに見たCMはどう ――っ! ど、どうした?」

桜木部長が照明をつけ、晴に感想を聞こうと声をかけると、晴は真っ直ぐにスクリーンの方向を見ながら大粒の涙をポロポロと溢していた。

俺は桜木部長の目を気にすることもなく、急いで晴の傍に駆け寄り抱きしめると、
晴は

「ご、ごめんなさい……」

と泣きじゃくりながら、桜木部長に向けて謝っていた。

「謝ることはないよ。どうして涙が出たのか聞いてもいいかな?」

桜木部長はゆっくりと晴の椅子に近づいてきて、晴を抱きしめている俺には一切見向きもせずに優しげな笑顔で尋ねた。

晴はその笑顔に安心したように、

「あのCMを見ていた当時のことを思い出していたら自然と涙が出ちゃったんです。実は、ドイツに住んでいる祖父母が一時期日本で暮らしていたことがあって、あのCM見るたびにライ麦ショコラパンあのパンを食べたい! って言って、祖父母と一緒に毎日のように食べてたんです。僕がライ麦ショコラパンを好きになったのは味もそうですが、祖父母との思い出の味だからというのもあるんです」

と嬉しそうに思い出を語った。

「そうなのか……。だからあんなにも熱心にあのCMを覚えていてくれたんだな」

「はい。あのCM見ると、日本で祖父母と一緒に過ごしていた日々を思い出しちゃって……両親がいつも忙しかったから祖父母と過ごした日々が楽しくて……僕にはすごくいい思い出でしかないですね、あのCMには」

桜木部長にとっては初めて作ったCMが早々に打ち切りになって、普通なら思い出したくもない過去だったのかもしれないその負の産物とも言えるCMに、晴は良い思い出しかないと涙を流してくれたのだから嬉しくないわけがない。

桜木部長に目を向ければ、感動に打ち震えているように見える。

「そうか、君のようにあのCMに良い思い出を持ってくれている人たちは他にもいっぱいいるかもしれないな。
逆にあのCMにガッカリした人たちもいるだろう。今回の復刻CMでは、喜んでくれる人たちにはもっと良い思い出ができるよう、そしてガッカリしていた人たちにとっては良い思い出に変えられるようなものにしよう」

決意も新たにそう言い切る桜木部長は、20代の若者のように瞳を輝かせていた。
きっとあのCMを作った頃の初心を思い出していることだろう。

長谷川さんも今頃、あの頃のことを思い出しながら【Gezellig 】とのコラボパンの成功に向かって動いていることだろうな。

その後、久しぶりにみたCMで各々が改善点を出し合いながら、晴が面接で話してくれた点と照らし合わせ、そしてどのように印象付けるかを入念に話し合い、一息ついたところで、くぅぅーっと可愛らしく鳴いた晴のお腹の音で、俺たちは一旦休憩を取ることにした。

桜木部長は時計を見ながら、

「悪い、悪い。もう3時近いな。そりゃあ、腹も減るはずだな。早瀬、香月くん急いで社食に行こう!」

と俺たちにお腹の音を聞かれてまだ顔の赤い晴の手を取り、部屋を出た。

社員たちは皆、午後の業務に取り掛かっていて内勤しているものが数人いるが、残りの席は空席が目立つ。
みんな営業に出ているのだろう。

晴の赤い顔をみんなに見られずによかったと思いながら、俺たち3人で社食へと向かった。

この時間だからか社食内は閑散としていたが、うちの社食は定時まではいつでも空いているのでこの点は助かっている。
料理は完売しているものも多いが、晴好みのものは残っているだろうか?


「香月くん、お昼を待たせてしまったお詫びだ。なんでも好きなものを頼みなさい」

「わぁっ、いいんですか?」

晴は楽しそうに食券機を眺めているが、一番人気の豚の生姜焼きはやはり完売しているようだ。
まぁ、生姜焼きは一度食べているからいいとして、あとは何が残っているだろう……。

悩んでいると、

「今から昼食ですか?」

と声をかけられ、振り返るとそこには篠田さんの姿があった。

「ああ、篠田さん。お疲れさまです。ちょっと打ち合わせが伸びてしまって……」

と告げると同時に彼女の目線は食券機を眺める晴に注目していた。

「あら、晴くんじゃない! 久しぶりね」

その声に晴は食券機から目を移し、篠田さんを見て嬉しそうに微笑んだ。

「篠田さん、お久しぶりです。部長さんがお昼をご馳走してくださるんですよ」

晴の言葉に桜木部長は得意げな顔で篠田さんを見ていたが

「桜木さん! せっかく香月くんにご馳走するならもう少し早く来たら良かったのに」

と文句を言われ、少しかわいそうに思えた。

「ちょっと打ち合わせに熱中してしまってな、こんな時間になってしまったんだ。篠田さん、何かおすすめは残っていないか?」

「そうですね。あっ! ちょうどいいのがあるわ! 晴くん、チキン南蛮はどう?」

「チキン南蛮っ! 僕、大好きです!」

「桜木さんも早瀬さんもそれでいいかしら?」

「ああ、頼むよ」

「お願いします!」

俺たちの言葉を聞いて、篠田さんはウキウキとした様子で厨房へと入っていった。

「篠田さん、どれくらいでできる?」

「すぐ出せますから、ちょっと待っててくださいね」

もうすでにチキンを揚げている音がしてきている。
どうやら本当にすぐ出せるようだ。

晴を挟むように3人でカウンターに並ぶと、ものの数分でキチン南蛮が3皿やってきた。

「本当に早いな。これはメニューじゃないだろう?」

さっきの食券機にはチキン南蛮はどこにもなかったはずだ。

不思議そうに部長が尋ねると、

「ふふっ。実はお昼に上層部の方の会議でお弁当代わりに出してほしいって作った残りなんですよ。少し多めに作っていただけだから大丈夫です」

篠田さんは笑って答えていた。

そういえば、最近そんなことをやり始めたって聞いたな。
うちの社食の料理は味に定評があるから、他社のケータリングより早いし美味しいしで、会議でお弁当として出しても評判がいいらしい。
しかも上層部のお弁当用のものなら素材もいいものを使っているに違いない。

「晴くんにはこれ、サービスね」

トンとトレイに置いたのは、前回も晴にサービスで出してくれていた固めのプリン。

「わぁっ! ありがとうございます!」

晴は貰ったプリンを見て目を輝かせて嬉しそうに笑っていた。
こんな笑顔が見られるなら俺だっていつでもサービスしてしまうな。

篠田さんもすごく嬉しそうに晴を見ている。
もうすっかり晴のファンになってしまったらしい。

柔らかな日の当たる、社食の中でも一番の特等席に腰を下ろし、3人で食事を食べ始めた。

「これ、おいひいでふ」

相変わらずもぐもぐとリスのようにほっぺたを膨らませながら、チキン南蛮を頬張る姿が実に可愛らしい。
桜木部長もその姿を嬉しそうに見つめている。
自分の子どもでもみるようなその優しい眼差しに驚いてしまうほどだ。

あんまり見続けていると晴にまた注意されてしまうとでも思ったのか、桜木部長は晴に意識を向けながらも、自分も料理に口をつけた。

「ああ、美味しいな。このタレもタルタルソースも絶妙だな」

部長の言葉に俺も一口食べてみると、ジューシーな鶏肉の旨味に甘酢のタレが程よく絡んで、酸味の少ないタルタルソースのシンプルな味わいがさらに鶏肉を引き立てている。

「本当に美味しいですね、これは上層部も満足だったんじゃないですか」

「そうだな、うちの社食の料理の腕は最高だな」

みんなでこの料理に舌鼓を打ちながら、大満足のままに昼食を食べ終えた。
晴は食後のデザートに篠田さんから貰ったプリンを両手で大事そうに抱えながら、一口一口味わうようにゆっくりと食べるのを俺も部長も愛おしく感じながら見つめていた。
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