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無自覚なお誘い
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理玖をアパートまで送っていたら、急に晴が理玖の家に泊まりたいと言い出した。
さっき晴たちをほったらかしにして緒方部長と田村さんとコソコソ話したりしていたから嫌われてしまったのだろう。
あの時も怒っていたようだったし……。
私としては、理玖が勝手に個人の連絡先を教えるような事態になっては、アルが怒るだろうと思ってそれを回避させるための行動だったのだが、晴としては除け者にされているような気持ちになっても仕方がない。
それでも理玖を田村さんの事務所所属にすることで、理玖の個人情報も守られる。
それにリヴィエラがアルの店があるビルにあるのだから、アルの目も届きやすい。
理玖が個人で緒方部長率いるリュウールとやりとりするよりは断然良い判断だったと思う。
今日の撮影は理玖がいたからこんなに早く終われたと言っても過言ではない。
しかも、前回の作品よりも数倍良い仕上がりだ。
永山があんなにも早くオッケーを出したことでもそれは明白だ。
撮影された写真を見て、緒方部長が次の撮影にも理玖をこさせたいと思うのは当然の結果だろう。
そして、まだ晴はもちろん、理玖も知らないことだが、あの時永山が撮影した写真の中に数枚理玖が一緒に撮られているものがある。
あれはきっとすごい作品になるはずだ。
そんなモデルを緒方部長はもちろん、田村さんが逃すわけはないと思った。
だからリヴィエラにと話を持っていったら、あっという間に話が進んだ。
リュウールにしてみれば、個人でやり取りした方がバイト代として支払う金額は安いだろうが、あれはあくまでも見学に来てもらうだけに過ぎない。
しかし、リヴィエラ所属にしておけば、見学途中で撮影したいと言われても、理玖は断ることなどできなくなるだろう。
理玖がリヴィエラの所属になるということはどちらにとってもプラスなのだ。
そんな大人のやりとりを晴たちに見せるのはなんだか純粋な2人を穢れさせるような気がして、コッソリと話していたのだがそれが晴の怒りのスイッチを押すことになるとは思いもしなかった。
理玖の家に泊まりたい――それは、私と同じ部屋に帰りたくない……そう遠回しに言われているのだと思った。
恐る恐る理由を問えば、やはり、私と別々の家に帰ってみたい……そう言われてしまったのだ。
確かにあのやり方は晴にしてみれば面白くないことだったのかもしれない。
そう反省して、謝って許してもらおうと思っていた。
だが、そうではなかったのだ。
晴は怒ってなどいなかった。
緊張しながら懲りもせず、もう一度問うてみれば、世間一般的な恋人が体験することをしてみたい……そんな嬉しい答えが返ってきたのだ。
別々の家に帰り、お互いの顔も見えないその時間……恋人に思いを馳せる。
数ヶ月前、あの時はまだ恋人ではなかったが、私が晴を電車の中で見かけて声をかけるまでの間、晴にそんな思いをしていたのを思い出した。
あの子に会いたい、あの子の声が聞きたい、明日こそは声をかけられるだろうか。
毎日毎日そんなことを思っていたのだ。
晴は理玖の家に泊まったその日は、あの頃の私のように晴は私のことを考えてくれるだろうか。
そう思ったら、私の口から
「理玖の家に泊まりに行ってきていいよ」
という言葉がこぼれてしまっていた。
「わぁ、いいの? 嬉しい!」
そんなに喜ばれると複雑な気もするが、いつも晴のいる生活に少し慣れてきたのは事実だ。
しかし、決してマンネリしているというわけではない。
晴がそばにいてくれることを当然のことだと思ったこともないし、私はいつだって晴がそばにいてくれるだけで気持ちが昂るのだ。
晴と恋人関係になってから離れて夜を過ごすという経験がないのだから、晴が理玖の家に泊まりに行く日は緊張するだろうな。
今まで付き合った子たちとはこんなに長い間一緒に過ごしたことは一度もなかった。
それどころか家に入れたことすらない。
プライベートに踏み込まれるのがあんなにも嫌だったというのに、晴は最初から家に連れ込んでしまっていたな。
それほどまでに晴を手放したくないと思ったのだ。
そんな晴と離れて夜を過ごす……想像するだけで長い夜になりそうな気がする。
しかし、これからもずっと一緒にいるのだからそんな経験も必要だろう。
「理玖と都合のいい日を決めるといい。私もその日はアルの家にでも泊まりに行ってみるか」
笑ってそう言ったのはただの冗談だったのだが、晴はそんな私の戯言を本気にして
「ああっ! それいいかも! 楽しそうっ!」
と意外と乗り気になっている。
まぁ、アルがオーケーしないだろう。
あそこは理玖との愛の巣だからな。
そういえば、理玖はいつでも大丈夫だと言っていたが、晴が泊まりに行くことをアルは了承するのだろうか?
理玖も意外と男心に疎いところがあるからな……。
晴のお泊まり計画が成就するかは微妙なところだな。
そんな話をしている間に、車は小蘭堂の地下駐車場へと到着した。
晴を連れて出社するのは久しぶりだな。
また騒ぎにならなければいいが……。
よし、手間はかかるが正面からではなく地下から直接行くことにしよう。
俺はご機嫌な晴を連れて地下の出入り口へと向かうと、早速警備員がやってきた。
「お疲れさまです。社員証のご提示お願いします」
俺が首にかけていた社員証を外している間に、晴は鞄から社員証を取り出していた。
この社員証はリュウールのモデル契約の時にうちで会議に参加できるようにと作った仮のものではなく、フェリーチェから正式に我が社にCM依頼があった際に、桜木部長が人事部に掛け合い、晴を限定社員として入社させたときに作ったものだ。
晴には知らせていないが、上層部のサインが入っているこの社員証はとんでもないV .I.P待遇が受けられることになっているらしい。
俺もどんな待遇が受けられるのかは実際に見たことがないのでわからないが、きっとこの警備員は驚くことだろう。
なんと言っても、どう見ても大学生……高校生にも見えるような晴がこんなにすごい社員証を提示してくるのだからな。
「おはようございます。よろしくお願いします!」
にこやかな笑顔を振りまいて晴が警備員に社員証を提示する。
彼は晴のその笑顔に顔を赤らめながら、社員証に目を向けた。
「はい。ありが――えっ??」
簡単に通そうとした彼が晴の社員証を二度見して、何度も晴と社員証とを見比べている。
晴はその対応にだんだん不安げな表情になってきて、
「あ、あの……何かおかしかったですか?」
と尋ねると、警備員の彼は『ひゃっ』と飛び上がらんばかりに身体を跳ねさせ、
「い、いいえ。な、何もおかしいところなどございません。ど、どうぞお通りくださいませ」
とまるで小動物のようにおどおどしながら晴を通らせた。
俺はそれに続いて社員証を提示し、警備員の彼に
「彼は特別な社員だからね、これからも時々ここを通らせてもらうから顔を覚えて応対を頼むよ」
と告げると彼は特別な任務でも請け負ったS.Pのように
「わかりました! この赤石にお任せください!!」
と鼻息荒く意気込んでいた。
いちいち提示するのが面倒だと思っていたが彼が入れてくれるのなら正面から入るより騒ぎにならないし、今度からここから入るのが楽でいいな。
晴の持っている社員証をかざし、上層部専用エレベーターに乗り込む。
これで6階の営業部オフィスまでノンストップで行ける。
午後近くになっているこの時間なら普通のエレベーターでもぎゅうぎゅう詰めということはないだろうが、それでも2人っきりで乗れることはまずないだろう。
ゆったりとした気分であっという間に6階へと到着した。
扉が開き、営業部オフィスへと進んでいると
「おおっ、早瀬。早いな! 撮影、もう終わったのか?」
と後ろから声をかけられた。
晴と2人でさっと後ろを振り向いたが、声の主は見なくてもわかっていた。
桜木部長だ。
「桜木部長、お疲れ様です」
一応頭を下げ、声はかけたものの桜木部長の視線は晴に釘付けになっている。
まぁ、そうだろうな……。
「桜木部長、おはようございます。今日はよろしくお願いします」
晴がにこやかに挨拶をすると、
「ああ、香月くん来てくれて嬉しいよ。フェリーチェの企画の方もだいぶ進んできているから、今日は一緒に打ち合わせに参加してくれ」
と肩にぽんぽんと手を置いて、嬉しそうに笑っていた。
ひとしきり晴との会話を楽しんでから、俺の存在を思い出したのか
「撮影の方はどうだった?」
と話を振ってきた。
「今回の出来は前回以上です。永山さんが早々に撮り終えて、太鼓判を押してくれました。見学に来てくれていた香月くんの友達が良い仕事をしてくれましてね、リュウールの緒方部長もかなり気に入って最後の撮影もぜひ来てくれとスカウトしてましたよ」
「香月くんの友達? へぇ、そんなに良い仕事をしてくれたのならうちとしてもお礼をしなければいけないな」
「彼はリヴィエラの田村さんもお気に入りのようで、トントン拍子にリヴィエラに所属することが決まりました」
「そうなのか? それはまたすごいな。後で詳しく話を聞かせてくれ」
とりあえず営業部オフィスに入ってからだと桜木部長は晴の手をとって、スタスタと入っていった。
俺は一瞬呆気に取られたものの、置いて行かれてなるものかと慌てて2人のあとを追った。
桜木部長に向けて『お疲れ様でーす』という声がいろんな方向からかけられた後、晴の存在に気付いたらしい面々が一気に黙り、騒々しい営業部オフィスがしんと静寂に包まれた。
「おい、お前たち。どうしたんだ?」
桜木部長が声をかけると、近くにいた社員が
「香月くん、久しぶりに見たらまたさらに綺麗になってるんでそりゃあ声も出ませんよ」
と頬を赤らめながら晴を見つめている。
晴は
「さすが営業さん、お世辞がうまいですね」
と本気にしていないが、あいつのあの目は本気だ。
あいつは可愛いものに目がないから注意しとかないといけないな。
まぁ、ここにいる間は桜木部長が目を光らせているから大丈夫だとは思うが……。
「香月くん、気にしないで。あっちで打ち合わせを始めよう」
「はい。失礼します」
晴は自分に視線を向けているみんなに向かって笑顔を浮かべ、桜木部長のあとをついて行った。
晴と桜木部長の姿が打ち合わせ用の個室に消えた瞬間、オフィス中がざわめき始めた。
「早瀬さん、香月くんまたしばらくうちに通うんですか?」
「ああ。特別な仕事を任されているからな。あれが終わるまでは打ち合わせや会議で顔を出すことになる」
「そうなんですか」
さっき晴にも話しかけていたこの社員、山根は晴の可愛い顔を拝めると喜色満面の笑みを浮かべている。
「香月くんは桜木部長を始め、上層部の秘蔵っ子だから手を出したら恐ろしい目に遭うぞ」
そう言ってやると、一気に顔色が悪くなった。
「まぁ、手を出さないのが身のためだな」
がっかりした山根に追い打ちをかけるようにいうと、はぁーっと大きなため息を吐きようやく仕事に取り掛かった。
俺は自分のデスクに着いて、必要な書類等を準備してから晴と桜木部長が打ち合わせに入った個室に向かった。
部屋に入ると、2人はもうすでに話が盛り上がっていて、俺が入ってきたことにも気づかないほどだった。
「部長、お待たせしました。書類をお持ちしました」
そう声をかけてようやく部長も晴も俺の方を向いてくれた。
「おお、早瀬。さぁ、こっちに座ってくれ」
「かなり話が弾んでいるご様子でしたが、フェリーチェの案件ですか?」
「いや、先に今日のリュウールのことを詳しく聞いてたんだ」
なるほど。だから少し晴の顔が赤いのか。
「今日の撮影データはいつくるんだ?」
「明日の午後には永山さんから送られてくる予定になっています」
「じゃあ、データが届き次第すぐにデザイン部に行って、第二弾のポスター作りに入ってもらえ。リュウールを最優先でやってもらうよう上層部から指示が入ってるから問題はないぞ」
「畏まりました」
「私も撮影に同行すればよかったな。香月くんの姿を直に見られたというのに……」
桜木部長はすっかり晴に心酔してしまっているな。
まさか恋愛感情などありはしないだろうが、晴を泣かせるようなことがあれば、俺の方が恐ろしい目に遭いそうだ。
さっき山根に冗談で言ったことが本気になりそうで怖い……。
「じゃあ、次は見にきてください。僕、知っている人が傍にいてくれた方が安心して緊張せずに撮影できそうです。
今日も友達が見にきてくれたからすぐに終われたし、桜木部長が見にきてくれたらもっと安心しますよ」
晴にはリップサービスなど存在しないから、これは全て晴の本心なのだろう。
こんなことを言われて断る人などいるわけがない。
晴の無自覚なお誘いに桜木部長はすっかりその気になってしまっていた。
さっき晴たちをほったらかしにして緒方部長と田村さんとコソコソ話したりしていたから嫌われてしまったのだろう。
あの時も怒っていたようだったし……。
私としては、理玖が勝手に個人の連絡先を教えるような事態になっては、アルが怒るだろうと思ってそれを回避させるための行動だったのだが、晴としては除け者にされているような気持ちになっても仕方がない。
それでも理玖を田村さんの事務所所属にすることで、理玖の個人情報も守られる。
それにリヴィエラがアルの店があるビルにあるのだから、アルの目も届きやすい。
理玖が個人で緒方部長率いるリュウールとやりとりするよりは断然良い判断だったと思う。
今日の撮影は理玖がいたからこんなに早く終われたと言っても過言ではない。
しかも、前回の作品よりも数倍良い仕上がりだ。
永山があんなにも早くオッケーを出したことでもそれは明白だ。
撮影された写真を見て、緒方部長が次の撮影にも理玖をこさせたいと思うのは当然の結果だろう。
そして、まだ晴はもちろん、理玖も知らないことだが、あの時永山が撮影した写真の中に数枚理玖が一緒に撮られているものがある。
あれはきっとすごい作品になるはずだ。
そんなモデルを緒方部長はもちろん、田村さんが逃すわけはないと思った。
だからリヴィエラにと話を持っていったら、あっという間に話が進んだ。
リュウールにしてみれば、個人でやり取りした方がバイト代として支払う金額は安いだろうが、あれはあくまでも見学に来てもらうだけに過ぎない。
しかし、リヴィエラ所属にしておけば、見学途中で撮影したいと言われても、理玖は断ることなどできなくなるだろう。
理玖がリヴィエラの所属になるということはどちらにとってもプラスなのだ。
そんな大人のやりとりを晴たちに見せるのはなんだか純粋な2人を穢れさせるような気がして、コッソリと話していたのだがそれが晴の怒りのスイッチを押すことになるとは思いもしなかった。
理玖の家に泊まりたい――それは、私と同じ部屋に帰りたくない……そう遠回しに言われているのだと思った。
恐る恐る理由を問えば、やはり、私と別々の家に帰ってみたい……そう言われてしまったのだ。
確かにあのやり方は晴にしてみれば面白くないことだったのかもしれない。
そう反省して、謝って許してもらおうと思っていた。
だが、そうではなかったのだ。
晴は怒ってなどいなかった。
緊張しながら懲りもせず、もう一度問うてみれば、世間一般的な恋人が体験することをしてみたい……そんな嬉しい答えが返ってきたのだ。
別々の家に帰り、お互いの顔も見えないその時間……恋人に思いを馳せる。
数ヶ月前、あの時はまだ恋人ではなかったが、私が晴を電車の中で見かけて声をかけるまでの間、晴にそんな思いをしていたのを思い出した。
あの子に会いたい、あの子の声が聞きたい、明日こそは声をかけられるだろうか。
毎日毎日そんなことを思っていたのだ。
晴は理玖の家に泊まったその日は、あの頃の私のように晴は私のことを考えてくれるだろうか。
そう思ったら、私の口から
「理玖の家に泊まりに行ってきていいよ」
という言葉がこぼれてしまっていた。
「わぁ、いいの? 嬉しい!」
そんなに喜ばれると複雑な気もするが、いつも晴のいる生活に少し慣れてきたのは事実だ。
しかし、決してマンネリしているというわけではない。
晴がそばにいてくれることを当然のことだと思ったこともないし、私はいつだって晴がそばにいてくれるだけで気持ちが昂るのだ。
晴と恋人関係になってから離れて夜を過ごすという経験がないのだから、晴が理玖の家に泊まりに行く日は緊張するだろうな。
今まで付き合った子たちとはこんなに長い間一緒に過ごしたことは一度もなかった。
それどころか家に入れたことすらない。
プライベートに踏み込まれるのがあんなにも嫌だったというのに、晴は最初から家に連れ込んでしまっていたな。
それほどまでに晴を手放したくないと思ったのだ。
そんな晴と離れて夜を過ごす……想像するだけで長い夜になりそうな気がする。
しかし、これからもずっと一緒にいるのだからそんな経験も必要だろう。
「理玖と都合のいい日を決めるといい。私もその日はアルの家にでも泊まりに行ってみるか」
笑ってそう言ったのはただの冗談だったのだが、晴はそんな私の戯言を本気にして
「ああっ! それいいかも! 楽しそうっ!」
と意外と乗り気になっている。
まぁ、アルがオーケーしないだろう。
あそこは理玖との愛の巣だからな。
そういえば、理玖はいつでも大丈夫だと言っていたが、晴が泊まりに行くことをアルは了承するのだろうか?
理玖も意外と男心に疎いところがあるからな……。
晴のお泊まり計画が成就するかは微妙なところだな。
そんな話をしている間に、車は小蘭堂の地下駐車場へと到着した。
晴を連れて出社するのは久しぶりだな。
また騒ぎにならなければいいが……。
よし、手間はかかるが正面からではなく地下から直接行くことにしよう。
俺はご機嫌な晴を連れて地下の出入り口へと向かうと、早速警備員がやってきた。
「お疲れさまです。社員証のご提示お願いします」
俺が首にかけていた社員証を外している間に、晴は鞄から社員証を取り出していた。
この社員証はリュウールのモデル契約の時にうちで会議に参加できるようにと作った仮のものではなく、フェリーチェから正式に我が社にCM依頼があった際に、桜木部長が人事部に掛け合い、晴を限定社員として入社させたときに作ったものだ。
晴には知らせていないが、上層部のサインが入っているこの社員証はとんでもないV .I.P待遇が受けられることになっているらしい。
俺もどんな待遇が受けられるのかは実際に見たことがないのでわからないが、きっとこの警備員は驚くことだろう。
なんと言っても、どう見ても大学生……高校生にも見えるような晴がこんなにすごい社員証を提示してくるのだからな。
「おはようございます。よろしくお願いします!」
にこやかな笑顔を振りまいて晴が警備員に社員証を提示する。
彼は晴のその笑顔に顔を赤らめながら、社員証に目を向けた。
「はい。ありが――えっ??」
簡単に通そうとした彼が晴の社員証を二度見して、何度も晴と社員証とを見比べている。
晴はその対応にだんだん不安げな表情になってきて、
「あ、あの……何かおかしかったですか?」
と尋ねると、警備員の彼は『ひゃっ』と飛び上がらんばかりに身体を跳ねさせ、
「い、いいえ。な、何もおかしいところなどございません。ど、どうぞお通りくださいませ」
とまるで小動物のようにおどおどしながら晴を通らせた。
俺はそれに続いて社員証を提示し、警備員の彼に
「彼は特別な社員だからね、これからも時々ここを通らせてもらうから顔を覚えて応対を頼むよ」
と告げると彼は特別な任務でも請け負ったS.Pのように
「わかりました! この赤石にお任せください!!」
と鼻息荒く意気込んでいた。
いちいち提示するのが面倒だと思っていたが彼が入れてくれるのなら正面から入るより騒ぎにならないし、今度からここから入るのが楽でいいな。
晴の持っている社員証をかざし、上層部専用エレベーターに乗り込む。
これで6階の営業部オフィスまでノンストップで行ける。
午後近くになっているこの時間なら普通のエレベーターでもぎゅうぎゅう詰めということはないだろうが、それでも2人っきりで乗れることはまずないだろう。
ゆったりとした気分であっという間に6階へと到着した。
扉が開き、営業部オフィスへと進んでいると
「おおっ、早瀬。早いな! 撮影、もう終わったのか?」
と後ろから声をかけられた。
晴と2人でさっと後ろを振り向いたが、声の主は見なくてもわかっていた。
桜木部長だ。
「桜木部長、お疲れ様です」
一応頭を下げ、声はかけたものの桜木部長の視線は晴に釘付けになっている。
まぁ、そうだろうな……。
「桜木部長、おはようございます。今日はよろしくお願いします」
晴がにこやかに挨拶をすると、
「ああ、香月くん来てくれて嬉しいよ。フェリーチェの企画の方もだいぶ進んできているから、今日は一緒に打ち合わせに参加してくれ」
と肩にぽんぽんと手を置いて、嬉しそうに笑っていた。
ひとしきり晴との会話を楽しんでから、俺の存在を思い出したのか
「撮影の方はどうだった?」
と話を振ってきた。
「今回の出来は前回以上です。永山さんが早々に撮り終えて、太鼓判を押してくれました。見学に来てくれていた香月くんの友達が良い仕事をしてくれましてね、リュウールの緒方部長もかなり気に入って最後の撮影もぜひ来てくれとスカウトしてましたよ」
「香月くんの友達? へぇ、そんなに良い仕事をしてくれたのならうちとしてもお礼をしなければいけないな」
「彼はリヴィエラの田村さんもお気に入りのようで、トントン拍子にリヴィエラに所属することが決まりました」
「そうなのか? それはまたすごいな。後で詳しく話を聞かせてくれ」
とりあえず営業部オフィスに入ってからだと桜木部長は晴の手をとって、スタスタと入っていった。
俺は一瞬呆気に取られたものの、置いて行かれてなるものかと慌てて2人のあとを追った。
桜木部長に向けて『お疲れ様でーす』という声がいろんな方向からかけられた後、晴の存在に気付いたらしい面々が一気に黙り、騒々しい営業部オフィスがしんと静寂に包まれた。
「おい、お前たち。どうしたんだ?」
桜木部長が声をかけると、近くにいた社員が
「香月くん、久しぶりに見たらまたさらに綺麗になってるんでそりゃあ声も出ませんよ」
と頬を赤らめながら晴を見つめている。
晴は
「さすが営業さん、お世辞がうまいですね」
と本気にしていないが、あいつのあの目は本気だ。
あいつは可愛いものに目がないから注意しとかないといけないな。
まぁ、ここにいる間は桜木部長が目を光らせているから大丈夫だとは思うが……。
「香月くん、気にしないで。あっちで打ち合わせを始めよう」
「はい。失礼します」
晴は自分に視線を向けているみんなに向かって笑顔を浮かべ、桜木部長のあとをついて行った。
晴と桜木部長の姿が打ち合わせ用の個室に消えた瞬間、オフィス中がざわめき始めた。
「早瀬さん、香月くんまたしばらくうちに通うんですか?」
「ああ。特別な仕事を任されているからな。あれが終わるまでは打ち合わせや会議で顔を出すことになる」
「そうなんですか」
さっき晴にも話しかけていたこの社員、山根は晴の可愛い顔を拝めると喜色満面の笑みを浮かべている。
「香月くんは桜木部長を始め、上層部の秘蔵っ子だから手を出したら恐ろしい目に遭うぞ」
そう言ってやると、一気に顔色が悪くなった。
「まぁ、手を出さないのが身のためだな」
がっかりした山根に追い打ちをかけるようにいうと、はぁーっと大きなため息を吐きようやく仕事に取り掛かった。
俺は自分のデスクに着いて、必要な書類等を準備してから晴と桜木部長が打ち合わせに入った個室に向かった。
部屋に入ると、2人はもうすでに話が盛り上がっていて、俺が入ってきたことにも気づかないほどだった。
「部長、お待たせしました。書類をお持ちしました」
そう声をかけてようやく部長も晴も俺の方を向いてくれた。
「おお、早瀬。さぁ、こっちに座ってくれ」
「かなり話が弾んでいるご様子でしたが、フェリーチェの案件ですか?」
「いや、先に今日のリュウールのことを詳しく聞いてたんだ」
なるほど。だから少し晴の顔が赤いのか。
「今日の撮影データはいつくるんだ?」
「明日の午後には永山さんから送られてくる予定になっています」
「じゃあ、データが届き次第すぐにデザイン部に行って、第二弾のポスター作りに入ってもらえ。リュウールを最優先でやってもらうよう上層部から指示が入ってるから問題はないぞ」
「畏まりました」
「私も撮影に同行すればよかったな。香月くんの姿を直に見られたというのに……」
桜木部長はすっかり晴に心酔してしまっているな。
まさか恋愛感情などありはしないだろうが、晴を泣かせるようなことがあれば、俺の方が恐ろしい目に遭いそうだ。
さっき山根に冗談で言ったことが本気になりそうで怖い……。
「じゃあ、次は見にきてください。僕、知っている人が傍にいてくれた方が安心して緊張せずに撮影できそうです。
今日も友達が見にきてくれたからすぐに終われたし、桜木部長が見にきてくれたらもっと安心しますよ」
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主人公である佐倉 晴翔(さくら はると)は、顔がコンプレックスで、何をやらせてもダメダメな高校二年生。前髪で顔を隠し、目立たず平穏な高校ライフを望んでいる。
しかし、そんな晴翔の平穏な生活を脅かすのはこの男。幼馴染の葉山 蓮(はやま れん)。
蓮は、イケメンな上に人当たりも良く、勉強、スポーツ何でも出来る学校一の人気者。蓮と一緒にいれば、自ずと目立つ。
だから、晴翔は学校では極力蓮に近付きたくないのだが、避けているはずの蓮が晴翔にベッタリ構ってくる。
そして、ひょんなことから『恋人のフリ』を始める二人。
そこから物語は始まるのだが——。
実はこの二人、最初から両想いだったのにそれを拗らせまくり。蓮に新たな恋敵も現れ、蓮の執着心は過剰なモノへと変わっていく。
素直になれない主人公と人気者な幼馴染の恋の物語。どうぞお楽しみ下さい♪
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