身代わりの花嫁は狼王子の甘いフェロモンに本命認定されました

波木真帆

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与えられた役目

厨房の床にわざとつけられた黒い油汚れを濡雑巾で必死に擦る。
冷たい冬の冷気を閉じ込めたような床はつめたく、かじかんだ手は思うように動かない。
息を吹きかけても、指先の感覚は戻らなかった。
這いつくばって必死に擦るが、身体はどんどん冷えていく。

「掃除、まだ終わらないの? 本当、あんたってグズね」

背後から落ちてきた声に、ミロはびくりと肩を震わせた。
振り返らなくても分かる。姉のリリアナだ。

「申し訳ありません。なかなか汚れが落ちなくて……」

床に這いつくばったまま、頭を下げる。
くすり、と小さな笑い声が降ってきた。

「穢れたものが触れた場所は、余計に汚れるものよ」

その言葉が胸に突き刺さり、胸の奥が焼けるように熱くなる。

穢れている……それは、ミロが娼婦の子だからだ。
侯爵家の血を引いていると理由だけで引き取られた、この家にとって余計な存在。
だから、義母にも兄と姉にも虐げられて育ってきた。

家族で食卓を囲んだことは一度もない。
言葉を交わすことさえ稀で、唯一血が繋がっているはずの父でさえも、ミロを見るたびに露骨に顔を歪める。
与えられた部屋は、使用人たちが暮らす屋根裏の一室。ここで、ミロは息を潜めて生きるしかなかった。

穢れた子は、この屋敷でミロを形容する時に使われる言葉。
雑巾をぎゅっと握りしめる。指先が白くなるほど力を込めても、胸の奥の痛みは消えてくれない。
それでも、ミロはここ以外行く場所がなかった。

「お父さまが呼んでいるわ。そこの掃除はそのままでいいから、すぐに来なさい」

「はい……」

リリアナはそれ以上、ミロに視線を向けることなく、靴音を響かせて去っていった。
静まり返った厨房は、先ほどよりもずっと冷たく感じられた。

応接室の扉の前で、ミロは一度深く息を吸った。
叩こうとした手が、わずかに震える。

大丈夫……怒られるだけ。それだけのこと。いつものことだから。
そう自分に言い聞かせて、控えめに扉を叩いた。

「入りなさい」

低く、感情のない声が返ってくる。
扉を開けた瞬間、ミロは驚いた。

父とリリアナだけでなく、母と兄・ウェズリーの姿もある。
家族全員が一斉にミロを見つめる。
こんなこと、今まで一度もなかった。

一斉に向けられる視線に息が詰まる。
いつも向けられる嫌悪感の中に、なんとなく喜びが混じっている気がして違和感を覚える。
いつもの叱責の場とは違う。張り詰めた、どこか重たい空気。
一体、何が起こっているんだろう。

あまりにもいつもと違いすぎて、恐怖に足が動かない。
茫然とその場に立ち尽くしていると、

「何をしている。そんなところに突っ立っていないで、さっさと中に入れ!」

父の声に急かされ、ミロは慌てて室内に入り、その場で膝をついた。
額が床に触れるほど、深く頭を下げる。

「お、お呼びでしょうか」

顔を上げることは許されない。視線は床に落としたまま尋ねた。

一瞬の静寂の後、父がゆっくりと口を開いた。

「ローゼンベルク侯爵家の一員として、お前に役目を与える」

思いがけない言葉に、ミロは一瞬だけ顔を上げそうになり、慌てて抑えた。

役目。そんなものを与えられたことは、一度もない。

「は、はい」

動揺を隠せないまま返事をすると、父は淡々と続ける。

「グラウヴェルク王国から、婚姻の申し出があった」

その国の名を聞いた瞬間、背筋がぞくりとした。
グラウヴェルク王国は、独自の進化を果たした獣人の国。
獣の耳と尾を持つ、人ならざる者たちの国だ。

幼い頃から、使用人たちが囁いていた噂を思い出す。

鋭い牙を持ち、夜になると本性を現す。人を喰うこともある、と。

怖い……
思わず、指先に力が入る。

「相手は第二王子、名はカイ。狼の血を引く男だ」

狼という言葉に身体がこわばる。だがそれ以上に引っかかったのは、男という言葉。

「あの、相手さまが男性なら、僕では……」

相手さまが承知しないだろう。
慌てて顔を上げると、言い終わる前に鋭い声が落ちた。

「口答えするな!」

「も、申し訳ありません」

慌てて頭を下げると、父は話を続けた。

「本来はリリアナに来た縁談だ。だが、リリアナは気が進まぬようでな」

そう告げる父の横から、小さく鼻で笑う音がした。

「当然でしょう? あんな獣の国、わたくしが行く場所ではないわ。あんたならお似合いだけど」

リリアナは、いつものように高慢な口調でミロを嘲笑う。

「我が家としても、大切な娘を獣に嫁がせるわけにはいかない。お前が行け」

その言葉は、あまりにもあっさりと告げられた。

「ですが……」

思わず顔を上げると、父の冷たい目と真っ直ぐに視線がぶつかった。

「何度も言わせるな。お前が、リリアナの代わりに嫁ぐ。これは決定事項だ」

「で、ですが……私は……」

男だ。そう言いかけた言葉は、最後まで出てこなかった。

「あちらは血を重んじる国だ。お前でも一応条件は満たしている」

「そうよ。男でも問題ないわ。女として装えばいいのよ」

父の隣に座る、血のつながらない母が笑って言う。

「あの娼婦女の血を引いて、顔立ちは無駄に整っているもの。黙っていれば分からないでしょう」

その無駄に・・・という言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。

「断ることは許されない」

父の声が、静かに響く。

「これは家のためだ」

家のため。その言葉は、いつもミロを縛る。
この屋敷にいる理由も、逆らえない理由も、すべてその一言で決められてきた。

家のため。そう言われたら、ミロには拒否する資格が、ない。

「承知、いたしました」

そう答えた自分の声は、驚くほど静かだった。

「話は終わりだ。出て行け」

追い立てられるように部屋を出たあと、ミロはしばらくその場に立ち尽くしていた。
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