王子と公爵令嬢の駆け落ち

七辻ゆゆ

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 王家派のものたちはそうして婚約破棄を喜び、のんきにしていたが、そのうちに問題が明らかになった。

「治療ができない、だと?」
「はい、陛下、包帯や当て布に使えるものが少なく……」
「布さえないのか」

 王はげっそりとため息をつく。
 大領地を持ち、金を持つ上位貴族の意向によるものだろう、王城の様々な物資が滞っている。先日の手紙にも『どうやら王家に我々は必要がないようなので、これからはでしゃばらないようにする』などと書かれていたのだ。

「食事の質が落ち、庭に新しい花は増えない。肌触りの良いシーツもない、石鹸も嫌な匂いがする」
「は、しかし陛下、必要なものではないでしょう」
「それはそうだが」

 高級品は上位貴族が開発したり、後援したりしている。それらが王家に献上されなくなったのだ。
 庭師や料理人の腕は良いのだが、素材がよくない。

 一般的な物資は手に入るので、下位貴族からすれば充分だ。何がだめなのかもわかりはしない。
 しかし王は半分平民でも王なのだ。父が王であった頃に、最高級の良いものに囲まれた生活をしている。その生活を思えば、今はいかにも下級の生活だ。下位貴族の生活だということがわかってしまう。

 下位貴族で良いではないかと言われれば、暮らすのに不足はない。
 だが王だ。その肩には国民全員、そして貴族全員に対する責任が乗っている。他国が攻めてきたとして、狙われるのは王だ。外交の場だって、立派な姿をしていなければ侮られる。

 胃が痛い。

(ああもう嫌だ、さっさと退位してしまいたいが、そうなれば国はどうなる。アベルトはどうして婚約破棄などしたんだ? 馬鹿なのか? だが城には馬鹿ばかりだ。わからん、もう、何もかもめちゃくちゃだ)

 これだけ王が馬鹿にされているのだから、他国からすれば隙だらけだ。攻め入れば皆、王など捨てて逃げるかもしれない。
 そんな状況でこの、布不足だ。

「探せば古布くらいは集められると思いますが」
「はあ……不潔な布での手当では傷が悪化するだろう。士気も下がる。ひとまず危険のある訓練は中止させよ。練度は下がるだろうが負傷で兵力を減らすよりマシだ……」
「さすがは陛下、素晴らしいご決断です。兵士も休みが増えて喜ぶでしょう」
「休みが増えれば、食費も減りますね!」

 王はじっとりと嬉しそうな幹部たちを見た。
 みな下位貴族なので、考えが浅い。もちろん生まれで優劣が決まるわけではないが、優秀なものは下位貴族であっても上位貴族と縁を得るので、公爵派寄りなのだ。

(もうこうなれば他国からの襲撃があった時は、高位貴族の私兵に任せるほかない。では国を譲ったも同じではないか。ならばもう……)

 喜ぶ皆を前に、王は決意を固めた。




 その夜、眠っていたアベルトは目を覚ました。
 暗い寝室の中に誰かの気配がある。ついに暗殺者がたどり着いてしまったのかと、妙に冷静に思った時だ。

「アベルト。なぜ、ツァンテリ嬢との婚約を破棄したのだ」
「……父上!?」

 驚いて飛び起きた。
 夢かと思ったが、そうではない。王子の寝室に、寝室着の王がいるのだった。

「なぜ」
「こうでもしなければ、二人で話もできない」
「それはそうですが」
「アベルトよ、なぜだ。我が国がまともになるチャンスは、もはやお前とツァンテリ嬢との婚姻にしかなかった」

 王のそばにも王子のそばにも、明るいうちは人がいる。人払いをしようにも、誰が聞き耳を立てているかわからない状況だった。なにしろ王家への敬意というものがない。
 そして盗み聞きを悪びれもせず、会話に入ってこようとするのだ。もはや機密の話などできようはずがなかった。

「……そこにさえチャンスはないと確信したからです」
「それは……」
「ツァンテリが嫁いできても、どうせ誰も受け入れない。いびりにいびって殺してしまうかもしれない。そうなれば、さすがの公爵派も動くでしょう」
「お前が守ってやれば……」
「父上はできたのですか?」

 そう言われれば、沈黙するしかない。
 王は王妃のことを嫌ってはいなかった。むしろ自分のあまりに不安定な立場を支えてくれると、頼りにしていたのだ。周囲にいる下位貴族ではわからないことも教えてくれた。

 しかし、王妃は毒に倒れた。
 残されたアベルトは下位貴族に囲まれて育った。もはやかつての王家の姿をろくに覚えてもいない。

「だが、他にどうするつもりなのだ。他国から姫を娶るか?」
「いいえ父上、もはや、公爵派に譲位するべきかと」
「……お前……裏切るのか」
「誰を?」

 アベルトはまっすぐに聞いた。
 いったい自分たちがどこに所属しているのか、何を裏切ろうとしているのか。アベルトは父とそんな話をしたことがない。ふたりが腹を割って会話をする機会など、一度もなかったのだ。

 王という名の父は顔をしかめて唸った。
 母が平民であるというだけで、上位貴族は彼を嘲った。そんな者たちとやっていけるはずもなく、周囲にいるのは下位貴族ばかりになった。彼らがいなければ王として在れたかどうかもあやしい。

 だが今、下位貴族しかいない王城はひどいものだ。新興国でもこれほど王との垣根が低くはないだろう。
 毒殺や害意からは守られている。だがそのぶん囲い込まれ、好きに扱われているのだ。

「……ああ、私が間違えてしまったのだ。すまない、アベルト。だが、彼らに罪はない」
「本当にそうお思いですか」
「……」
「彼らは何の犠牲も払わぬままに、王を、国を、思いのままにできると思ってしまった。本来、国は誰のものでもない。王のものでもない。臣下のものでもない。けれど臣下が膝を折り、我々は王のものですと言うからこそ、王は国を動かすことができる」

 王は苦笑した。

「マリーエのようなことを言う」
「そうです。私は母を裏切りたくない」

 誰かを裏切りたいわけではないのだ。
 そう告げた息子に、王は目を閉じて静かに首を振った。

「……時間がほしい」
「もちろんです。陛下のお考えに、私が口を出せはしません」

 初めての、誰も邪魔することのない貴重な親子の時間は、そうして終わった。
 二度目は永遠になかった。
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