王子と公爵令嬢の駆け落ち

七辻ゆゆ

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『君は王妃の器ではない。わかっているだろう』

 広がる防衛線を見ながら、ツァンテリは彼の言葉を思い出していた。
 どんなものでも、アベルトの言葉は覚えている。覚えていられるくらいにしか、聞けなかったとも言える。

(正しい。私は王を支えるようには育てられなかった)

 従順な母体であるけれど、ツァンテリの頭には王妃に必要のない知識が詰め込まれている。王をお飾りにして、ツァンテリが国を動かすための知識だ。
 王妃の器であるはずがない。

 けれどツァンテリは、アベルトを殺して国の頂点に立ちたいなどと思ったことはない。ないが、周りがそうさせる。そう望む。ツァンテリは逆らえない。

(本当に?)

 小高い崖の上から見下ろす、兵たちの頭はとても小さく、蟻の群れのようだ。それが人間だ。まるで波のように、小さな粒が集まって大きな流れになる。

「ツァンテリ」
「……ラードル様」
「勝手に外に出るな」
「申し訳ありません」

 ツァンテリは将来の夫に逆らわない。逆らえない。逆らおうなどと考えることもない。
 生まれたときから、ツァンテリは従順な姫だった。王妃の器ではないが、かといって、国を動かす器でもないのだ。

 そう思うと少し笑えた。
 足りないものばかりだ。

「どこに王家派の手のものがいるかわからない。ここは戦場だぞ」
「はい」

 戦場だ。ただし、アズラージアからの侵略を警戒してここにきたはずだった。なのに敵は王子だという。

「君が死ねばすべてが終わりだ。馬鹿なことはするな」
「はい」

 ツァンテリは残念に思った。
 彼女は従順な姫だが、命じられないことについては、自由に動くことができる。けれどするなと言われてしまえば、もう勝手に外に出ることはできない。

(殿下が、殺しに来てくだされば良いのに)

 思って少し嬉しくなった。
 もしかするとそれを楽しみに、こんな場所にいたのかもしれない。ツァンテリはラードルに従って、安全な場所にまで下がる。

「手間をかけさせないでくれ」
「申し訳ありません」
「外に出たかったのなら言え。君の望みはできるだけ叶えると言っているだろう」

 ラードルにしてみれば、ツァンテリのことがまるでわからなかった。

 わざわざ隣国にやってきて、大望はある。この国の王となるつもりだった。ラードルはしかし馬鹿ではないので、たとえツァンテリがただの母体だとしても、今の自分がそれ以下だということもわかっている。
 ツァンテリの機嫌をとって仲良くしていく必要がある。

 しかしツァンテリは従順であるけれど、表情に乏しく、何を思っているのかわからない。ただの駒として扱えるように思えて、ふいといなくなってしまいそうでもある。
 ラードルが王をめざすためには、ツァンテリをきちんと掌握しておかなければならない。

「君は何を望んでいるんだ?」

 ツァンテリは少し驚いた。
 ラードルが自分を思って言ったのではないことはわかるが、それでも、そんなことを聞いてくる人は初めてだった。

 聞かれて初めて考えたのだ。

(何を望んでいる?)

 望まれていることなら知っている。王の血筋を濃く継ぐものとして、次の王を産むことだ。そして公爵派に栄誉を与えることだ。
 では、自分が望むのは……。

「この国の安定です」

 嘘ではない。

(望むのは、国が安定すること。殿下が王になること。……でも、それはもうない未来かもしれない。アズラージア国は我が国を侮っている。他国もそうかもしれない)

 王への敬意を持たない下位貴族が動かす国だ。まとまっているはずがない。上位貴族は王へと暗殺者を送り、いまにも内乱が起こりそうだ。

 この国はもう終わりなのかもしれない。
 そう思ったとき、ツァンテリの胸は甘美に疼いた。そのくらいに、ツァンテリにとって自分の役目は重いものになっていた。
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