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バカなやつ
ローズの体温と呼吸、そして涙で、じんわりハルシェードの胸が暖かくなっていく。
「くそっ……」
「う、ぐす、さんじゅ、なな……」
「なに?」
「さんじゅうなな、集まってたの、もうすぐ、だったのに……!」
「……」
ハルシェードは言葉を失った。
ローズが署名活動をすると言ったとき、ハルシェードは止めなかった。どうせ失敗するのは目に見えていた。
ただ、自分よりバカがいることを心地よく思っただけだ。
「三十七人も……ハルくんの、ために……みんな……」
確かにハルシェードは、それほども署名は集まらないだろうと思った。皆、王家に媚びるばかりで、ハルシェードの気持ちなどどうでもよいのだ。
しかし三十七人。
平民ではない、学園に通う貴族子女の三十七人。
少なくはない。
だが何よりも、どうしてローズがそこまで必死になっているのか。
自分のことでもないのに。
そのことがハルシェードの心に響く。どうしようもなく重く。
「ローズ……」
「んっ、でも……でも、また、また集めるから!」
「……バカか」
「また集める、絶対! ハルくんになんて言われたって! だってハルくん、嫌なんでしょ? 嫌なことやる必要なんてないよ。あたしは、ハルくんを応援するよ」
そんなことを言ってくれた人はいない。
ずぶ濡れで、汚い女が、それでも必死に言い募るのだ。ハルシェードの胸にふつふつと、忘れていた、忘れようとしていた怒りが蘇る。そうだ。
どうして自分が、あのいけすかない女と結婚しないといけないのだ。
あの、ハルシェードの気持ちなどどうでもいいと思っていそうな女と。数カ月先、卒業のあとには確実に。
あの女に馬鹿にされながら生きていくなんてごめんだ!
「……ローズ。立てるか?」
「えっ、あ、うん」
「行くぞ」
「ハルくん……!?」
ハルシェードはしっかりとローズの腰に手を回し、校舎の中に入っていった。
「はい?」
「とぼけるな!」
「そうおっしゃられましても、困りますわ」
リツェルは書類をしっかり片付け、目の前の二人を見た。
ローズはなんだか汚い液体で全身濡れているし、髪までべちょべちょだ。それにくっついているハルシェードも、片側だけ汚れている。
どういう状況だろう。
とりあえず帰って着替えた方が良いと思う。生徒会室を汚されたら嫌だなと思うし。
「ローズを池に突き落とし、署名を奪った。お前以外に誰がこんなことをするというんだ!」
「……普通に他にいらっしゃるのでは?」
「なんだと?」
「殿下はお立場がお立場ですし、ローズさんも王家の婚約に異を唱える生徒と知られていますもの。邪魔したい方ならいくらでも思いつきますわ。聞きます?」
「はっ……聞いたところで、意味もないたわごとで時間稼ぎしようとしても無駄だ」
「はあ。それで、ご要件は?」
時間稼ぎされたくないなら、早急に要件を告げるべきだろう。
そう思って聞いてあげたのだが、ハルシェードがもごついた。どうやら勢いで来て、言うべきことを決めていなかったようだ。
「ひどい! あんな、あんなやり方、間違っています!」
かわりにローズが叫んだ。
自分の汚れを気にもかけないさまには、何らかの気迫は感じられた。そういう変な勢いはあるのだ。だから署名をそれなりに集められたのだろうな、とリツェルはそこについては少し感心している。
「暴力では何も解決しません!」
「そもそもわたくしではないと言っているのに、証拠もなく決めつけはよくないですよ。精神的暴力と言って良いです。わたくしを社会的に抹殺しようとしているのですから」
「はっ? な……」
「証拠がなくとも、お前の仕業であることは明らかだ!」
「殿下の頭の中ではそうなのでしょうねえ。それをみなさまが拝見できればよろしいですけれど」
どうせ説得できそうにもないので、リツェルは悪役っぽく言ってみた。実際、本音である。ハルシェードは本当に考えが足りない。
幼い頃から教師をつけられてきたけれど、こうなった。それは教師が王子に遠慮したせいかもしれないし、もともとの彼の質かもしれない。
どちらにしても、リツェルが付き合う義務はないのだ。
「証拠、とか……そういう話じゃありません。あたしは、もうこんなことしないでほしいだけです!」
「わあ」
リツェルはびっくりした。
ハルシェード以上に話を理解しない人がいた。そもそもリツェルがやったと確定しなければ「もうするな」という話は存在しないのだ。
「ローズさんを池に突き落とすな、ということでしたら、やらないと思いますよ。時間の無駄ですし」
リツェルはなんだか哀れみを感じ、ちょっと親身に言った。
「信じられるか!」
「だって署名の紙がなくなったところで、また書いて貰えばいいだけですもの。数百単位ならともかく、数十の署名なら、一日あればもとに戻せますわ」
署名者が後悔していなければ、とは、話の主軸ではないのでわざわざ言わない。
「それをまた奪うつもりだろう!」
「でしたらねえ、殿下がお持ちになればよろしいのですよ」
「……は?」
「殿下が常にしっかり抱えていれば、この学園にそれを奪えるものは存在しません。そうではなくて?」
「……そ、れは……そうだが……だが、どんな卑怯な手を使うつもりだ?」
「はあ」
リツェルはため息をついて立ち上がった。
「本当に、殿下は嫌う相手には何でもできてしまわれますのね。決めつけの冤罪も、罵倒も、生徒会の仕事を押し付けることも、自分の中で正しいから、罪悪感なんてまったくないのでしょうねえ」
「仕事を押し付けるなど……! 貴様が勝手に、奪ったのだろう! 生徒会を私物化して……!」
「では殿下にお返しします。まあ、これからですと、卒業パーティの準備くらいしかやることはありませんけれど」
「な……」
「そうですわね。これからはこの部屋で、ローズさんと一緒にしっかり署名をお守りになるとよろしいですわよ」
リツェルは本来なら生徒会長の座る椅子を、本来の持ち主に返し、生徒会室を出ていく。無言のファナも影のように付き従った。
「ま、待て!」
「リツェルさん! こんなことをしてたら、リツェルさんだって幸せになれないじゃないですかっ、どうしてわかってくれないんですか!」
「わかってくれない?」
最後に振り返って、汚れた二人を見た。
「殿下もよくそうおっしゃっていましたわ。お前は俺のことをわかってくれない、と。わたくしはそのたび、では殿下はわかっているのかしら、と思ってしまいましたの。最初の顔合わせから不機嫌そうにされてどういう気持ちになるか、ずっと会話を無視されてどう感じるのか、わかってやっておられたのかしら」
微笑む。
「本当、お似合いですわ」
「くそっ……」
「う、ぐす、さんじゅ、なな……」
「なに?」
「さんじゅうなな、集まってたの、もうすぐ、だったのに……!」
「……」
ハルシェードは言葉を失った。
ローズが署名活動をすると言ったとき、ハルシェードは止めなかった。どうせ失敗するのは目に見えていた。
ただ、自分よりバカがいることを心地よく思っただけだ。
「三十七人も……ハルくんの、ために……みんな……」
確かにハルシェードは、それほども署名は集まらないだろうと思った。皆、王家に媚びるばかりで、ハルシェードの気持ちなどどうでもよいのだ。
しかし三十七人。
平民ではない、学園に通う貴族子女の三十七人。
少なくはない。
だが何よりも、どうしてローズがそこまで必死になっているのか。
自分のことでもないのに。
そのことがハルシェードの心に響く。どうしようもなく重く。
「ローズ……」
「んっ、でも……でも、また、また集めるから!」
「……バカか」
「また集める、絶対! ハルくんになんて言われたって! だってハルくん、嫌なんでしょ? 嫌なことやる必要なんてないよ。あたしは、ハルくんを応援するよ」
そんなことを言ってくれた人はいない。
ずぶ濡れで、汚い女が、それでも必死に言い募るのだ。ハルシェードの胸にふつふつと、忘れていた、忘れようとしていた怒りが蘇る。そうだ。
どうして自分が、あのいけすかない女と結婚しないといけないのだ。
あの、ハルシェードの気持ちなどどうでもいいと思っていそうな女と。数カ月先、卒業のあとには確実に。
あの女に馬鹿にされながら生きていくなんてごめんだ!
「……ローズ。立てるか?」
「えっ、あ、うん」
「行くぞ」
「ハルくん……!?」
ハルシェードはしっかりとローズの腰に手を回し、校舎の中に入っていった。
「はい?」
「とぼけるな!」
「そうおっしゃられましても、困りますわ」
リツェルは書類をしっかり片付け、目の前の二人を見た。
ローズはなんだか汚い液体で全身濡れているし、髪までべちょべちょだ。それにくっついているハルシェードも、片側だけ汚れている。
どういう状況だろう。
とりあえず帰って着替えた方が良いと思う。生徒会室を汚されたら嫌だなと思うし。
「ローズを池に突き落とし、署名を奪った。お前以外に誰がこんなことをするというんだ!」
「……普通に他にいらっしゃるのでは?」
「なんだと?」
「殿下はお立場がお立場ですし、ローズさんも王家の婚約に異を唱える生徒と知られていますもの。邪魔したい方ならいくらでも思いつきますわ。聞きます?」
「はっ……聞いたところで、意味もないたわごとで時間稼ぎしようとしても無駄だ」
「はあ。それで、ご要件は?」
時間稼ぎされたくないなら、早急に要件を告げるべきだろう。
そう思って聞いてあげたのだが、ハルシェードがもごついた。どうやら勢いで来て、言うべきことを決めていなかったようだ。
「ひどい! あんな、あんなやり方、間違っています!」
かわりにローズが叫んだ。
自分の汚れを気にもかけないさまには、何らかの気迫は感じられた。そういう変な勢いはあるのだ。だから署名をそれなりに集められたのだろうな、とリツェルはそこについては少し感心している。
「暴力では何も解決しません!」
「そもそもわたくしではないと言っているのに、証拠もなく決めつけはよくないですよ。精神的暴力と言って良いです。わたくしを社会的に抹殺しようとしているのですから」
「はっ? な……」
「証拠がなくとも、お前の仕業であることは明らかだ!」
「殿下の頭の中ではそうなのでしょうねえ。それをみなさまが拝見できればよろしいですけれど」
どうせ説得できそうにもないので、リツェルは悪役っぽく言ってみた。実際、本音である。ハルシェードは本当に考えが足りない。
幼い頃から教師をつけられてきたけれど、こうなった。それは教師が王子に遠慮したせいかもしれないし、もともとの彼の質かもしれない。
どちらにしても、リツェルが付き合う義務はないのだ。
「証拠、とか……そういう話じゃありません。あたしは、もうこんなことしないでほしいだけです!」
「わあ」
リツェルはびっくりした。
ハルシェード以上に話を理解しない人がいた。そもそもリツェルがやったと確定しなければ「もうするな」という話は存在しないのだ。
「ローズさんを池に突き落とすな、ということでしたら、やらないと思いますよ。時間の無駄ですし」
リツェルはなんだか哀れみを感じ、ちょっと親身に言った。
「信じられるか!」
「だって署名の紙がなくなったところで、また書いて貰えばいいだけですもの。数百単位ならともかく、数十の署名なら、一日あればもとに戻せますわ」
署名者が後悔していなければ、とは、話の主軸ではないのでわざわざ言わない。
「それをまた奪うつもりだろう!」
「でしたらねえ、殿下がお持ちになればよろしいのですよ」
「……は?」
「殿下が常にしっかり抱えていれば、この学園にそれを奪えるものは存在しません。そうではなくて?」
「……そ、れは……そうだが……だが、どんな卑怯な手を使うつもりだ?」
「はあ」
リツェルはため息をついて立ち上がった。
「本当に、殿下は嫌う相手には何でもできてしまわれますのね。決めつけの冤罪も、罵倒も、生徒会の仕事を押し付けることも、自分の中で正しいから、罪悪感なんてまったくないのでしょうねえ」
「仕事を押し付けるなど……! 貴様が勝手に、奪ったのだろう! 生徒会を私物化して……!」
「では殿下にお返しします。まあ、これからですと、卒業パーティの準備くらいしかやることはありませんけれど」
「な……」
「そうですわね。これからはこの部屋で、ローズさんと一緒にしっかり署名をお守りになるとよろしいですわよ」
リツェルは本来なら生徒会長の座る椅子を、本来の持ち主に返し、生徒会室を出ていく。無言のファナも影のように付き従った。
「ま、待て!」
「リツェルさん! こんなことをしてたら、リツェルさんだって幸せになれないじゃないですかっ、どうしてわかってくれないんですか!」
「わかってくれない?」
最後に振り返って、汚れた二人を見た。
「殿下もよくそうおっしゃっていましたわ。お前は俺のことをわかってくれない、と。わたくしはそのたび、では殿下はわかっているのかしら、と思ってしまいましたの。最初の顔合わせから不機嫌そうにされてどういう気持ちになるか、ずっと会話を無視されてどう感じるのか、わかってやっておられたのかしら」
微笑む。
「本当、お似合いですわ」
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