暴君専務は溺愛コンシェルジュ

玉紀直

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1巻

1-3

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「相変わらず、今日もシッカリ記録しているんだな」

 タブレットを手に取った拓磨が、本日の電話リストをスクロールする。だが、ある一点で止まり、そこを凝視ぎょうししているようだった。

「〝センムノ アレ〟って、なんだ?」

 不思議そうな声に白々しらじらしさを覚え、久瑠美はわずかに口元をゆがめる。

「着信時間を見てください。身に覚えがあるのでは? 全部無言だなんて、なにかと思うじゃないですか。様子を知りたいのなら、そんなことをしなくたって……」
「なんのことだ? これが俺からの電話だとでも思っているのか?」
「違うのですか?」
「おまえの様子を気にするほど暇じゃない。そんな無駄なことをする気もない」

 カチンとくる、という感覚は、きっとこういうことなんだと久瑠美は思う。あんまりな言いかたをされて不快な気持ちになる。

「専務じゃないなら誰なんですか? おそらく以前からかかってきている電話だと思いますよ。〝センムノ アレ〟で登録してありましたから。てっきり、専務のプライベート用の電話番号なのかと思いました」

 なにか思い当たることがあったのか、それとも関心を失っただけなのか、拓磨はタブレットを置き、自分のデスクのほうへ歩いていく。

「さっさと飲んで帰れ。リストはあとで見ておく」
「専務は……」
「仕事だ」
「お忙しい専務を残して、秘書が帰るわけにはいきません」
「おまえに与えた仕事は定時までだ」

 せめてもの思いで口出ししてみたが、アッサリと返される。椅子に腰を下ろした拓磨は目の前のパソコンを起動させると、それっきり無言になり、久瑠美のほうを見ることもしない。
 なにを言っても無駄だろう。【センムノ アレ】という電話は、久瑠美の様子を探ろうとして拓磨がかけていたものではない。ということは、拓磨は本当に、まったくといっていいほど、秘書というものに興味も関心も持っていない。
 少しでも気にしてくれていると思った自分が馬鹿みたいだ。
 程よく甘かったはずのコーヒーが苦く感じられてきた。久瑠美はそれを一気に飲むと、早々に専務室を出た。


 ――久瑠美が専務秘書になって、早くも二週間が過ぎた。
 とはいっても、仕事は相変わらず電話番と、その他雑用だけで、秘書らしいことは一切させてもらえていない。

「すごいわ! 二週間も続いた人なんて、私、初めて見たわ!」

 ちょうど二週間目となる金曜日。定時を迎えたので帰ろうとした際、感動した様子で久瑠美の両手をつかんだのは、入社日の翌日、最初に声をかけてくれた美人の先輩――岸本百合きしもとゆりである。
 周囲にいた秘書課の面々からも、よくやったとばかりに拍手が沸き起こる。はた目には大袈裟おおげさな反応に見えるだろうが、これが決して大袈裟おおげさではないのだということを、久瑠美自身がよく知っていた。
 あの専務のもとで二週間も働いたのだ。自分で自分を褒めてあげたい。

「笹山さん、来週も来る? 来てくれる!?」
「ははははいっ、来ますっ」

 にらみつけるような必死な形相で言われ、思わず腰が引ける。しかし両手をつかまれているので逃げることはできなかった。
 これは、二週間も仕事が続いた変わり者をここで逃してなるものか、ということなのだろうか。
 久瑠美が戸惑っていると、その手をがっしりとつかんでいた手が離れ、鬼気迫る形相だった百合がパッと笑顔になった。

「よかった。じゃあ、来週は歓迎会ね」
「……え?」

 キョトンとする久瑠美をよそに、百合とその周囲は盛り上がる。

「平日だと各自の担当役員のスケジュールなんかも絡んでくるから、たぶん土曜日になっちゃうと思うけど、その辺は週明けにでも相談しましょう」

 周囲から「OK」「賛成」という声が飛び、通りすがりの課長からも「了解」の一言が出た。
 意味はわかるのだが、久瑠美は呆然としてしまう。
 なにせ歓迎されている、という実感はまだない。

「あの……、歓迎会って……」
「なにをビックリしているの? 笹山さんのに決まっているでしょう? こんなに頑張ってくれているんだもの、もう大丈夫よね? 辞めないわよね?」
「え……はい、あの……」
「よし、確かに聞いたわよ。お酒は大丈夫? なんでも飲めるほう? なんかかわいい雰囲気だから、サワーしか駄目ですぅ、とか言いそう」
「い、いいえ、結構いける口で……」

 意外な答えだったのか、「おおっ」と周囲が沸いた。加えてお酒に関してはうるさい、もとい精通しているらしい課長が話に加わり、さらに場は盛り上がって……
 久瑠美はこの日、帰宅の電車を数本逃すことになったのである。


 自分は、あの会社の秘書課の一員になれたのかもしれない。
 そんな実感が湧き、感動さえ覚える。
 頑張ろう。辞めないだけであんなに盛り上がってくれて、歓迎会まで開くと言ってくれた課員たちの期待に応えられるように。
 ――とはいえ……

「これ以上頑張りようがないのよ! ほんとっ!」

 苛立いらだちのままに叫び、久瑠美はひざの上にかかえていた細長いクッションにバフッとこぶしを入れた。
 八つ当たりよろしくボスボスとクッションを殴る久瑠美を見ながら、亜弥美がアハハと声をあげて笑う。

「久瑠美がこんなに荒れるなんて珍しいよね。よっぽど……なんだね、その専務」
「よっぽど、っていうかなんていうか、秘書っていう存在自体が、あの人の眼中にはないのよ。それじゃ頑張りようなんて……あーっ、もうっ」

 頑張りたいのに頑張れない。仕事がしたいのにさせてもらえない。複雑すぎるジレンマに奥歯を噛みしめ、久瑠美は上半身を倒してクッションに頭をうずめた。
 帰る間際に秘書課で話しこんでしまったこともあり、今日はアパートに帰るのが少し遅くなった。
 亜弥美の部屋の前を通り過ぎたとき、足音で気づいたのかドアが開き、「いつもより遅いから、どうしたのかと思った」と彼女が顔を出した。
 亜弥美も夕食はまだだというので、デリバリーでも頼んで一緒に食べよう、ということになったのである。
 着替えてから亜弥美の部屋へ行き、ピザやチキンをつまみながらビールを飲む。アルコールに流され……たわけではないと思うが、秘書課の面々が意外と気さくでいい人ばかりだという話から、いつの間にか拓磨に対する愚痴へと変わってしまったのである。

「でもさ、これまで一日で辞めた人ばかりなのに、久瑠美は二週間も続いているんでしょう? そのあたり、専務は認めてくれていないわけ?」

 亜弥美はローテーブルに置いたノートパソコンをカチャカチャと叩きながら、もっともなことを口にする。横にはコンパクトなデジカメがあるので、きっと画像の整理でもしているのだろう。
 向かい合わせになっているため、どんな画像かは見えないが、別に気にはならない。そんなものを気にする前に、頭の中は拓磨への苛立いらだちでいっぱいになっていた。

「認めていれば、なにかしら仕事を任せてくれるでしょう? あぁ、そうだ、電話のリストを作るのが上手いとは言われたわよっ」
「なんじゃそりゃ。でもさ、秘書としてやとわれたのに、これでお給料をもらうなんて申し訳なくて……とか、ちょっと謙虚なことでも言ってみたら?」
「とっくに言ったわよ。そうしたら……」

 あれは今週の初めだった。毎日電話番をしているが、ひっきりなしに電話がくるわけではないので、簡単な仕事でいいから任せてくれないかと頼んだ。すると……

『おまえの後ろにあるものはなんだ。ただの壁か? その書庫には、今まで俺が手掛けた案件や取引先の実績がファイリングされている。それらを読むということは、俺の仕事を知るということ、ひいてはこの会社を知るということだ。おまえにはそんな気概きがいもないのか』

 読め、なんて一言も言われたことはない。そのくらい自主的にやるつもりもないのかと言いたいのだろう。
 しかし、書庫の資料など入社から一週間で軽く網羅もうらした。
 そのことを言えば言ったで……

『一度目を通したくらいでわかった気になるな。暗記するつもりで読みこめ。違うものがいいのなら資料室に山ほどあるぞ。創業百年になるこの会社の歴史に触れてこい』

 秘書の仕事など、させる気は微塵みじんもないのがわかる。
 それでも「必要がないからクビだ」とまでは言わないので、少しは人としての情がある……と思いたい。

「でもね、その専務、一日じゅう外出しているんでしょう? 事務処理とかはどうしてるの? 手が回ってないんじゃないの?」
「事務処理も自分でやってるみたい。誰かが任されてるっていうのは聞かないし。あと、書庫にあるファイルの整理も全部専務がやってるらしくて……。なんなの、あの人……。実は分身の術とか使えるんじゃない?」
「それだったら、いくらでも一人で仕事ができるよねぇ」

 亜弥美は面白そうに声をあげて笑うが、久瑠美はいまいち笑えない。拓磨は一人で執務室にいるとき、こっそり分身しているんじゃないかと、本気で思ってしまう。
 思わず大きな溜息が出る。テーブルからチューハイの缶を取ろうとしたとき、亜弥美が笑顔でパソコンをくるりと回転させた。

「まあまあ、そんな暗い気分のときはさ、あたしのイチオシでも見てよ。ほら」

 モニターの中では、ちょうネクタイ姿の王子様系イケメンが微笑んでいる。バックにはズラリと並んだアルコールのボトル。どうやら亜弥美が足繁く通っている飲食店の店員らしい。

「ふぅん……。イケメンだけど、ちょっと素朴な感じ?」
「そこがまたいいのよ。でも、なに? その感動の〝か〟の字もないような反応。『うわぁ』って感動のあまり二度見しちゃうような、いい男だと思わない?」
「三度見か四度見はされるんじゃないかと思える上司を毎日見てるとね、顔の造りがいいってことに関してあまり感動しなくなるものなのよ」
「そんなにいい男なの? 久瑠美の上司」
「顔の造りはいいけど、性格は最悪だと思う」

 顔が綺麗なら心も綺麗……なんて言う人もいるが、そうとは限らないのだ。絶対に。
 あまり興味を持ってもらえなかったのが悔しいのか、亜弥美はパソコンの向きを直すと、壁際の本棚を挑戦的に指さした。

「イチオシが、そんな顔だけの男に負けたとあっちゃ悔しいわ。歴代の中で勝てるコいない? 粒ぞろいだよ~」

 亜弥美が示す本棚の下段には、彼女のお気に入りのショットを収めたアルバムがある。久瑠美も話のネタにパラパラと覗いたことはあるが、じっくりと見たことはない。
 久瑠美はチューハイ片手につんいで本棚に近づく。

「亜弥美ってさ、今はほわっとした優しい王子様タイプが好みでしょ? でも、昔は違ったよね?」
「ん~、ひと昔前はオラオラ系かなぁ……。まあ、世間的にも流行はやってたしね」

 下段の左端に薄いアルバムが三冊ある。一番端のものを引き抜くと、五年前から四年前の日付が書かれていた。

(五年前って……。二十歳はたちになったばかりじゃない)

 そのころから彼女にはイチオシ君がいたらしい。しかし二十歳はたちといえば、まだ大学生。亜弥美が学習塾でアルバイトをしていたのは知っているが、そのバイト代のほとんどはこっちの趣味に消えていたのではないだろうか。

(アイドルに入れこむのと比べたら、こっちのほうが身近な存在だし、まだマシ……なのかな)

 自分にはわからないと思いつつも、心の中で友を擁護ようごしておく。その場に座ってぺらっと開くと、いきなりブラックスーツ姿の集団が目に入った。
 全体的に白っぽい内装の部屋で、バックには鳥かごを思わせるような大きな窓。額縁がくぶちに金や銀の装飾がほどこされた絵画やフラワーテーブルがある。それほど大きくない丸テーブルには、レースのテーブルクロスが敷かれていた。
 ブラックスーツの集団といっても、よく見れば四人ほどが写っているだけ。すべて男性だ。メインで撮られている青年だけが、他の人とは少し違うものを着ていた。
 おそらくこの青年が、当時のイチオシ君だったに違いない。隠し撮りのように見えるのが気になるが、彼だけを写したものが他にもある。
 久瑠美はページをめくる手を止めた。そのまま写真に釘づけになってしまう。

(……似てる……?)

 湧き上がるのは、おかしな疑問。
 まさか……
 いや、そんなはずはない……

「あー、それ、懐かしいなぁ。トーマさんだ」

 横から亜弥美が覗きこんできて、久瑠美はビクッと震える。

「そんなにビックリしないでよ。いい男に見惚みとれちゃったから恥ずかしいの? そうだよねぇ、男に見惚みとれるなんて久瑠美のガラじゃないもんね」

 考え事をしていたときに声をかけられれば、誰だって驚く。しかし「考え事ってなに?」と聞かれると困るので、久瑠美はハハハと笑ってごまかした。

「……あの、亜弥美……。これは、ホストクラブかなんか?」
「違うよ、よく見て。窓の外が明るいでしょう? これはね、執事サロン」
「執事サロン……。執事喫茶、みたいなやつ?」
「似てるけど、ちょっと違うかな。なんていうか、執事喫茶より敷居が高くて、ちょっと高級っぽいんだよね。話しかたとか接しかたも、こっちが照れちゃうくらい決まっててさ。……なんとなくわかる?」

 まったくわからない……
 久瑠美は首を横に振る。亜弥美はその横に座り直し、写真を指さしながら説明してくれた。

「このトーマさんは、サロンのナンバーワンでチーフだった人。だからほら、彼だけ燕尾服えんびふくでしょう? 他のコはブラックスーツだけど」

 普通のスーツとは違う、という感想しかなかったが、言われてみれば上着のすそが後ろだけ長い。ネクタイも柔らかそうなスカーフタイだ。
 さらによく見ると、他の青年は白手袋をはめているが、彼だけ黒、それもショートタイプのものをはめていた。
 一人だけ特徴のあるスタイルなのに、そちらには目が行かない。久瑠美の視線は彼の顔に釘づけになったままだった。

「いつでも店にいるわけじゃないし、個室のお客さんからのご指名が多くて、ホールで姿を見られたらラッキー、って人だったなぁ。あたしもトーマさんに会いたくてさ、当時は毎日通ったわ」
「……あのさ、ここって、あの……いかがわしいサービスのある店……とかじゃないんだよね……?」

 非常に聞きづらいことなので、久瑠美の言葉は途切れがちになる。しかも聞いたそばから亜弥美がアハハと笑うので、もしや図星では? とドキリとした。

「うーん、そうだよねぇ。久瑠美みたいに興味のない人が個室って聞いたら、変なこと想像しちゃうよね。でも残念ながら、そういうサービスはないの。ちょっと特殊な喫茶店、って言いかたのほうがよかったかも」
「特殊な喫茶店……」

 似たようなものとしては、メイド喫茶あたりだろうか。行ったことこそないが、メイド姿の女の子がかわいくおもてなしをしてくれるらしい。
 それならこの執事サロンとやらも、執事姿のイケメンがおもてなしをしてくれる店だと考えればよいのだ。

(それにしたって……)

 久瑠美の目は〝トーマさん〟から離れない。その顔を見ているうちに、だんだん冷や汗が浮かんできた。

(どうして……こんなに似ているの)

 ――彼は、平賀専務にそっくりだ……

「とは、表向きの話でね」

 亜弥美の言葉に小さく身体が震える。特に驚いたわけではないのだが、考え事をしていたところに、意味深な言葉が聞こえたせいだ。

「もしかしたら、〝特別なおもてなし〟があったんじゃないか……って」
「特別なおもてなし?」
「会員になって常連になると、執事の指名とか予約とかができるんだけど、トーマさんは一番人気で、ほとんど個室指名だったのよ。その個室っていうのも、オーナーが認めたVIPしか入れないってやつだったし」
「個室っていっても、このお店はお昼の営業なんでしょう? そりゃ、閉店は夜だろうけど」
「人間の性欲に、朝も昼も夜も関係ないでしょ」
「せいよっ……」

 冗談半分だとわかっていても、言葉で聞くと生々しい。動揺した久瑠美を見て、相変わらずだなぁと言いたげな顔をした亜弥美だったが、少々神妙しんみょうな様子で話を続けた。

「裏でなにがあった、なんて知らないけどさ。でも、アットホームというか、人がみんなあったかいっていうか、すごく行きやすいお店だったんだよね。いい男を気取ってる、っていうより、人当たりのいい優しいイケメンばっかでさ。そのせいかな、お客は結構高齢のご婦人も多かったよ。……あんなことがなければ、まだ続いていたかもしれない」
「あんなことって? お店、今はないの?」
「ん~、オーナーはあご白髭しろひげが立派なおじいちゃんだったんだけどね、かなり高齢だったんだろうなぁ……急に亡くなったのよ。店もクラシックな感じで古かったし、まあ、またそれも雰囲気があってよかったんだけど」
「オーナーが亡くなって、店もなくなっちゃったってこと?」
「店を引き継ぐ人がいなかったんだろうねぇ。なんにしろもったいなかったわ~。またあんなお店発掘できないかなぁ。あのイケメンたちはどこへ行っちゃったんだろう。なんだかさ、この業界の貴重な人材を一気に失った気分よ」

 当時を思いだしたのか、亜弥美は心底残念そうに大きく息を吐く。それからチラリと久瑠美に視線をよこした。

「それにしても、久瑠美、そんなにトーマさんが気に入ったの? さっきからその写真ばっかり眺めてるじゃない」
「えっ……! いや、そういうわけじゃ……」

 眺めてはいた。ただ、気に入ったからではない。しかし亜弥美はなにを思ったか、腕を組んで満足そうにうなずく。

「わかる、わかる。いい男だよねぇ、トーマさん。ちょっと毒舌どくぜつなのがまた萌えたなぁ。基本的にはすごく優しい人だったし。そうか、そうか、久瑠美もやっと男の魅力に目覚めたか」
「男に目覚め……ちょっと、ヘンな言いかたしないでよっ」
「高校のときから友だちづきあいしてきて、久瑠美が真剣に男の顔を見つめてるなんて初めてよ。やっと……やっとかぁ、って思うじゃない」

 見つめていたというより、凝視ぎょうししていたというほうが正しい気がする。よく見ずにはいられない事態なのだから、仕方がないのだ。
 しかし、やっと男の魅力に目覚めたか、なんて言いかたをされると、自分はどれだけ男性に縁のない生活を送ってきたと思われているのだろう……と情けなくなってくる。
 ……とはいえ、間違いではないのだが……

「よし、お祝いだ、お祝い。とっておきの生ハム出してこよーかな。あっ、それと」

 亜弥美は横から手を伸ばし、写真を一枚ファイルから引き抜く。

「これ、あげるよ。あたしにとってトーマさんは昔の趣味だけど、それでも久瑠美と趣味が合うって、なんかすっごく嬉しいー」
「いっ、いらないよぉ、そんな」
「遠慮しないの。疲れてるときとか、いいいやしになるよー。ほらほら」

 久瑠美は頭をぶんぶんと振って遠慮するが、亜弥美は笑顔で写真を久瑠美のカットソーの首元に差しこむ。そして「生ハム出してくるねー」とご機嫌で立ち上がった。

「いらないってば……」

 キッチンに入っていく亜弥美を見ながら、久瑠美は困った声でつぶやく。
 そこでふと、あることを考えついた。
 首元に差しこまれた写真を取り出し、そこに写るトーマさんをにらむように見つめる。
 ――これは、使えるかもしれない。
 それを思いついてしまったからには、写真を返すわけにはいかない。
 久瑠美は写真を自分のバッグにしまいこみ、亜弥美の部屋でさらに一時間ほど過ごしてから、自分の部屋へ戻った。
 室内に入るとすぐにドアの鍵をかける。照明をけ、のろのろと部屋の中を進んだ。
 1LDKの部屋は間取りこそ亜弥美の部屋と変わらないものの、比較的小物が多く女性っぽさを思わせる彼女の部屋に比べ、久瑠美の部屋はとてもシンプルだ。
 男性っぽいというわけではないが、簡潔にまとまりすぎている。いつだったか亜弥美に、「新社会人の一人暮らしを想定したショールームみたい」と言われたことがあった。
 トーマさんの写真を片手に、その顔を眺めながら、久瑠美はカーテンを閉めようと窓辺に近づく。
 ふと、角のコーナーラックに置かれた電話が留守電のランプを点滅させていることに気づいた。
 再生してみると、伯母からの電話だ。新しい環境で働き始めた久瑠美を心配してかけてくれたものである。

『久瑠美ちゃんはしっかり者だから心配はないと思うけど、つらいことがあったらすぐに相談してね。約束よ』

 その言葉と優しい口調に、思わず涙が浮かぶ。『疲れているだろうから、かけ直さなくていいわよ』と言い添えられていたが、すぐにでも電話をかけたい衝動に駆られた。
 しかし、それは甘えだ。
 そんなことをすれば、ハッキリと言わなくたって、なにかつらいことがあるのだと伯母は察するだろう。
 しばらく電話を見つめるものの、久瑠美は意識的に目をそらしてカーテンを閉めた。

「ずるいかもしれないけど……」

 カーテンを握った手に力をこめる。眉を寄せて写真を見つめ、こうするしかないんだと、心の中で自分をかばうのだった。

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