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37話 詠

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「これからは、夜空くんって、呼んで……いいですか」

 優木坂さんの柔らかい声が俺の耳を抜けて、脳みそを優しくくすぐる。その刺激は俺の体を、芯から身震いさせた。

「あ……あう……」

 頭に電流が流れたみたいにジーンとして、うまく口が回らない。
 それでも早く返答をしろと、脳の指揮系統が混乱したままに、硬直した体に指令をだした。

「い、いいでしゅ――」

 そのせいで半分無意識に声がでてしまった。
 
 本来ならここはカッコよく決めたかったのだけど、声は裏返っていたし、それに噛んでしまった。無様すぎて草。
 
 情けなさと恥ずかしさでカッと耳が熱くなる。日本が銃社会で、手元に拳銃があれば、こめかみを撃ちぬいていたかもしれない。大げさかもしれないけど、マジでそんな気分だった。

 だけど、そんな俺を見つめる優木坂さんの表情は、まるで夜空にまたた一等星いっとうせいのように、キラキラとかがやいていって。

「夜空――くん。夜空くん。夜空くんっ!」

 彼女はあふれんばかりの笑顔で、俺の名前を何度も呼んだ。

「夜空くーん!」
「ゆ、優木坂さん……! ちょっとストップ! さ、さすがにちょっと恥ずかしくなってきた!」
「えへへ、ヤダ。夜空くん!」
「そ、そんな……」

 彼女が俺の名前を呼ぶたびに、俺の心臓のBPMが跳ね上がっていく。そこまで暑くもないのに、じっとりと汗ばんできた。

 優木坂さんは、ひとしきり俺の名前を連呼した後、とりあえず満足したらしい。正面を向いてコーヒーをちょっと口にしてから、またと笑った。
 とりあえず、彼女の名前呼びの波状攻撃はじょうこうげきから解放されて、ほっと一息つく俺。
 だけど、それもつかの間、優木坂さんはこんなことを言い出した。

「夜空くん。もう一つお願いがあります」
「お願い?」
「うん。このお願いをするのは、今このタイミングしかないと思うから、思い切って言っちゃうね」

 そう宣言してから、ふぅと深呼吸をする彼女。それから再び俺の方に向き直った。

「私のことも、名前で――よみって呼んでほしい」
「え?」
「だって、私だけ夜空くんって呼ぶんじゃ不公平だよ」
「いや、別に、俺はそんなの気にしないけど」
「私が気にするの」

 優木坂さんはずいっと俺の方に身を乗り出してきた。彼女の態度や言葉からは謎のプレッシャーをヒシヒシと感じる。

 優木坂さんのことを下の名前で呼ぶのか。
 
 よ、詠さん。それとも詠ちゃん?

 心の中でつぶやいてみて、正直すっごく違和感を覚えた。

「やっぱり、これまでどおり優木坂さんじゃダメ?」
「ええ、そんなぁ……」

 俺がそういうと、優木坂さんはみるみるうちにシュンとした表情になる。
 そ、そんな顔をしないでおくれ。胸が痛くなる。

「いや、これは俺だけの考えかもしれないけれどさ。女子の名前の呼び方って、距離感がなかなか難しいんだって」
「えー、そうかな?」
「女子から男子の呼び方ってさ。ヘンな話、『くん』付けなら、苗字・名前どっちでもほどよい距離感に聞こえると思うんだ。だけど、男子から女子の呼び方って違くない? なんていうか、『さん』付けだと妙にかしこまりすぎてるし。かといって『ちゃん』付けだと距離が近すぎるっていうか……」

 大げさに身振り手振りしながら、必死になって自分の意図を優木坂さんに説明する。
 
 『詠さん』だとかえって距離が遠くなった気がするし、『詠ちゃん』だと馴れ馴れしいことこのうえない。このニュアンス、彼女に伝わるだろうか。

「じゃあさ、呼び捨ては?」
「へ?」
「呼び捨てで『詠』って呼んでよ。それなら、自然だと思うな」
「呼び捨て?」
「うん」

 優木坂さんはそう言ってニッコリと笑った。

「ねえ、一度呼んでみてほしいな」
「あーうー」

 俺はB級映画に出てくるゾンビみたいな唸り声をあげた。
 
 呼び捨て。それならまだ自然なのだろうか。わからない。答えがでない。あの恋愛漫画の主人公は、あのハーレム系ラノベの主人公は、ヒロインたちのことを何と呼んでいた。

 あー駄目だ。そうこう頭を悩ませている間にも、優木坂さんが期待に満ちたキラキラした瞳で俺を見つめてくる。このプレッシャーに、俺のよわよわハートは耐えられない。



「よみ……」



 俺は彼女のオーダーどおり、名前を呼び捨てで呼んでみた。

「なーに? 夜空くん」

「――ッ!」

 それに対して、小首をかしげて笑顔を向ける優木坂さん。
 反則だ! この笑顔! それにこの仕草! 一発退場レッドカードだ! コンチクショー! かわいい!

「ほら、自然な感じだよ!」
「でも、優木坂さんは――」
「名前」
「あ、ゴホン、詠、は、俺の事を君付けなのに、俺だけ呼び捨てなのは……」
「そんなこと私は気にしません! だから夜空くんも気にしちゃダメ!」
「そう?」
「そうだよ」

 そういって優木坂さ、あー、えーと、げふんげふん。
 は、ベンチから立ち上がると、大きくのびを一つした。
 のびをするとき、一瞬おっぱいが強調されるのを俺の曇りなきまなこは見逃さない。

「あーほんとによかった。ギクシャクしたままサヨナラにならないで」

 そう言って、詠は俺の方に向き直った。

「夜空くん。私に最高の一日を与えてくれて、どうもありがとう! 改めまして、また明日からもよろしくね!」

 詠はそう言って、にっこりと笑う。
 夜の帳が下りる中、彼女のその笑顔は、今日イチではなやいでいた。
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