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しおりを挟む雨が降る日は寒くて寂しい。
緋色は丸めた背中にひんやりした空気を感じて手元のジャケットをぎゅっと握り締めた。
くすんだ少しシックなピンクの大きめのジャケットは最近秋のお気に入りだ。
だから秋の匂いがすっかり生地に馴染んで緋色は一人きりの時は良くこれを抱きしめていた。
『早く帰るからいいこで待ってて』
そう言いながら春には重めのブルゾンを羽織って出かけて行った。
玄関のドアが開いたときに雨の音が聞こえてきたのを緋色は今も覚えている。
寒い寂しい。
秋が出かけて二日がたった。
早く帰ると言っていたのにという思いと何かあったのだろうかという不安とがないまぜになって何もできない。
「…寒い」
ぽつりと呟く。がらんとした部屋の静寂が緋色の小さな呟きをすぐにかき消す。
窓の外はまだ雨の気配が残っている。
部屋は暖まらない。たとえ起きて暖房をつけたところできっともっと寒いのだ。
「なんで帰ってきーへんの?秋」
じわりと目元に涙が滲む。
ピンクのジャケットに濃い染みができた。
今がいつで何時なのかも緋色にはわからない。
ただ秋の不在だけが緋色にとっての全てだった。
「……まさかこんなに遅くなるなんて」
秋はどんよりとした曇り空を見上げて大きくため息をついた。
雨こそ降ってないものの灰色の雲は厚く重く垂れこめておりいつ降りだしてもおかしくはない。
散り始めた桜の花がアスファルトに落ちて色を失う。
肩から下げた大きな黒いバッグの中に傘はない。
「…今から先生のとこに戻るのもな…」
秋は漫画家を目指すフリーのアシスタント兼モデルだ。
どっちも時間の融通が利くと思っていたが実際はモデルもアシスタントも急な呼び出しが多かった。
計画立てて仕事ができないためそろそろどちらに比重をおくか考えなければならなかった。
そもそもアシスタントの収入だけでは心もとないと始めたモデルだ。
切るならモデルの仕事だと思う。
だがチラシのモデルから始まった仕事は今や雑誌やショーにまで広がりを見せた。
事務所からはもっと本腰を入れないかと言われている。
アシスタントの仕事は目減りして今はもともと知人だった四条のところだけしか行ってない。
モデルの仕事が忙しくてそもそも漫画を描けていない。
「…どっちを選ぶべきなんだろ…」
ぽつりと頬に雨粒が落ちる。
四条のところからの帰り道。行きは雑誌の撮影だった。
とある有名女性モデルの恋人役で女性向けファッション雑誌のモデルの仕事だった。
もう一人元カレ役で秋とは違うタイプのモデルもいた。黒髪の凛々しい顔つきのモデルは初めて見る顔。
ろくすっぽ話もしないまま撮影は終わり家に帰ろうという時に四条から泣きつかれてアシスタントに向かった。
それから丸三日家を空けてしまい不安になる。
家には秋が漫画家の夢とモデルの仕事で悩むもう一つの原因がいる。
ぽつぽつとおちる雨粒が多くなる。街はみな小走りか傘を差し始めている。
四条のところに忘れた傘は次に行ったらもうないだろう。売れっ子漫画家の四条はアシスタントを多く抱えている。ごちゃまぜに置かれた傘がコンビニのビニール傘ではもう誰が誰のやら分からないのだ。
ぽつぽつと雨が秋の髪を服を濡らしていく。家で待つ彼がよく泣いて服を濡らしていたなと思い出す。
「早く帰らなきゃ」
寂しがりの彼が丸まって眠る姿を想像するのは難くない。
強まる雨足とともに足早に家に向かう。
彼が自分にべったり依存して生きているのをよくわかっている。
オメガはそもそもアルファに依存する傾向があるが、彼はそれが強かった。
彼を取り巻く環境が秋に依存させる結果になった。
パシャパシャとスニーカーの足元が水を跳ねていく。
デニムの裾が濡れても構わない。
秋の住むマンションが見えて片手が鍵を探る。
エントランスには誰もいない。
冷えた空気の中エレベーターを待つ時間もおしい。
扉が開いてすぐさま乗り込み5階のボタンを押した。
自分が進むべき道もまだ見えない。
家で待つ彼、オメガの緋色とのこともまだ見えない。
でも緋色は秋にとって大事な存在だ。緋色が秋に依存するように秋も緋色が手放せない。
けれどずっとこのまま緋色を隠して生きていけるわけじゃない。
緋色には生きていくべき世界がある。今は休んでいるだけだ。
秋は鍵を取り出す際にバッグに忍ばせた一枚のポストカードをちらりと見た。
それは1人のバレエダンサーのポストカード。緋色が踊る姿だった。
傷が癒えたら手を放してあげなければいけない。彼がいるべき、生きるべき世界へと。
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