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第一章
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二
食事は、父宗平が、下女に残り物を部屋に持って行かせていたが、食器などは明け方まで、片付けさせることはなかった。母の佳子でさえ、それを当然と考えていたので、隔離生活に関して物を言う者は一人も出てこなかった。むしろ、家のために生んだ長男が、とんだ化け物で、体裁が悪かったのだろう。姑に小うるさく嫌味を言われたせいか、タイマへの当たり方が甚だしいのも、この母佳子だった。
それと言うのも、嫌がらせの質の悪さである。時折、タイマの膳には、ネズミの死骸などが入っていた。言うまでもなく、佳子の仕業だった。タイマは椀の蓋を開けて、しばらくそれを眺めてから、指をつっこんだ。ネズミの尻尾をつまみ、くるくると回しながら残念そうにため息をついた。
「前なら問題なく喰えたのになあ。人間の体は弱い。ああ、もったいない」と、つぶやいた。
「よこせ。わしが喰う」
嬉々とした声を上げると、しぶしぶそれを放った。縁側の上で飛びあがって受け取ると、頭を噛み砕き、飲み込んだ。
「やはり、珍味。腹の足しにはならんな」と、ネズミの尻尾を口のはしから垂らしながら、笑った。それを見たタイマは、「贅沢な奴だな。でも、うまそうだ。汁だけでもすすれないかしら」と、よだれを垂らしていたので、一応止めておいた。
この家にとって何が不幸だったかと言えば、嫌がらせをものともしない、化け物の在り方だろうか。タイマはいつだって、不敵だった。どんなことも快活に笑い、「放っておけ、いつか慣れるか、厭きるさ。相手をするだけ無駄だ」と、言って余裕の表情を浮かべていた。それが一層、タイマの気味悪さを助長させていた。「なぜあの子供はこんな扱いをされて、へらへらできるのかしら。心持ちが悪い」下女などは、声をひそめてそのようなことを言う。
我慢をするほうが無駄なことではないか、と舌を出した。なぜ、恐れ戦かれる存在であるわしらが、貧弱な人間どもと、共生する必要があるのか。面倒なのだから、さっさと喰ってしまって、この家を奪えば良い話じゃ。そうして、人のフリをして人を喰えば良い。あいつも大分成長したのだ。いまならそれも可能じゃないか。
思いつくと行動が早い。喰おう喰おう、と夜を待った。おあつらえむきの、月のない真っ暗闇だ。整然と座席についていた佳子ら、数名の人間を障子の隙間からのぞき見る。念のため、一度廊下を見回して、タイマのいないことを確認し、黄色い息を吐き出した。
酸の霧は、辺りをおおい、じょじょに座敷内を黄色く満たしてゆく。灯りが消え、耳に届くはずの音が途切れ、人々はついに騒然となる。逃げようともがくが、視覚も聴覚もきかないのだ。すべって転んで、前にいた人間を巻き込み、下敷きにして、わめいていた。「助けて、こわい」と、言いながらも、あたふたと転げ回っているのは、佳子だった。なるほど、これはなかなか滑稽なものだ。タイマの前では毅然としていた割に、装甲はもろいんじゃないか。わしは、にやにやとしながら、無様な嘆きを眺めていた。
次は、肌にふれるはずの感触を無くし、過ぎてゆくはずの時間を消し、段々と純粋な「闇」をつくりだしていった。こちらの生物が、目を覆って逃げ出したくなるほどの世界を、わしはいとも容易く生み出すことができる。そうして、疲弊しきった人間どもの魂を、ぎりぎりにまで枯らして、しぼって、喰らう。それが、鬼本来の在り方なのだ。
だが、これも失敗に終わった。何を考えているのか、阿呆な天狗が邪魔をしたからだ。昔ほどとはゆかぬが、あいつにも、天狗の能力が残っていたらしい。タイマは、持っていた小さな団扇をあおぎ、屋敷内を荒々しい風の渦で満たした。食器は割れ、戸棚が壊れ、屋根瓦も数枚飛んで行った。
黄色い酸はかき消され、わしはその突風によって、屋根の上まではじき飛ばされてしまった。なるほど、清めの塩を混ぜたか。どうりで、足がひとつ欠けた訳だ。わしは、不機嫌そうに舌を打った。惜しいことをした。
タイマは庭先に飛び出すと、屋根の上に向かって声を張り上げた。
「余計なことをするな」
このときになって、はじめて苛烈な怒りの一片をのぞかせた。わしは、憮然として腕を組み、眉根をよせる。人間どもを叱ることはないくせに、なぜわしが叱られたのか、さっぱりわからなかった。なんだか、無性に腹が立ったので、しばらく口を訊かないことにした。
翌日になって、半狂乱になった佳子が問い詰めてきた。タイマはそれをのんびりと交わしていたが、宗平も一緒になって、それを責めた。あながち、間違いではないが、間違った確信を持って、この家の人間どもは、タイマのことを「禍」と考えるようになる。そのため、タイマの存在は無いものとされ、それは暗黙のうちに決まった。
食事は、父宗平が、下女に残り物を部屋に持って行かせていたが、食器などは明け方まで、片付けさせることはなかった。母の佳子でさえ、それを当然と考えていたので、隔離生活に関して物を言う者は一人も出てこなかった。むしろ、家のために生んだ長男が、とんだ化け物で、体裁が悪かったのだろう。姑に小うるさく嫌味を言われたせいか、タイマへの当たり方が甚だしいのも、この母佳子だった。
それと言うのも、嫌がらせの質の悪さである。時折、タイマの膳には、ネズミの死骸などが入っていた。言うまでもなく、佳子の仕業だった。タイマは椀の蓋を開けて、しばらくそれを眺めてから、指をつっこんだ。ネズミの尻尾をつまみ、くるくると回しながら残念そうにため息をついた。
「前なら問題なく喰えたのになあ。人間の体は弱い。ああ、もったいない」と、つぶやいた。
「よこせ。わしが喰う」
嬉々とした声を上げると、しぶしぶそれを放った。縁側の上で飛びあがって受け取ると、頭を噛み砕き、飲み込んだ。
「やはり、珍味。腹の足しにはならんな」と、ネズミの尻尾を口のはしから垂らしながら、笑った。それを見たタイマは、「贅沢な奴だな。でも、うまそうだ。汁だけでもすすれないかしら」と、よだれを垂らしていたので、一応止めておいた。
この家にとって何が不幸だったかと言えば、嫌がらせをものともしない、化け物の在り方だろうか。タイマはいつだって、不敵だった。どんなことも快活に笑い、「放っておけ、いつか慣れるか、厭きるさ。相手をするだけ無駄だ」と、言って余裕の表情を浮かべていた。それが一層、タイマの気味悪さを助長させていた。「なぜあの子供はこんな扱いをされて、へらへらできるのかしら。心持ちが悪い」下女などは、声をひそめてそのようなことを言う。
我慢をするほうが無駄なことではないか、と舌を出した。なぜ、恐れ戦かれる存在であるわしらが、貧弱な人間どもと、共生する必要があるのか。面倒なのだから、さっさと喰ってしまって、この家を奪えば良い話じゃ。そうして、人のフリをして人を喰えば良い。あいつも大分成長したのだ。いまならそれも可能じゃないか。
思いつくと行動が早い。喰おう喰おう、と夜を待った。おあつらえむきの、月のない真っ暗闇だ。整然と座席についていた佳子ら、数名の人間を障子の隙間からのぞき見る。念のため、一度廊下を見回して、タイマのいないことを確認し、黄色い息を吐き出した。
酸の霧は、辺りをおおい、じょじょに座敷内を黄色く満たしてゆく。灯りが消え、耳に届くはずの音が途切れ、人々はついに騒然となる。逃げようともがくが、視覚も聴覚もきかないのだ。すべって転んで、前にいた人間を巻き込み、下敷きにして、わめいていた。「助けて、こわい」と、言いながらも、あたふたと転げ回っているのは、佳子だった。なるほど、これはなかなか滑稽なものだ。タイマの前では毅然としていた割に、装甲はもろいんじゃないか。わしは、にやにやとしながら、無様な嘆きを眺めていた。
次は、肌にふれるはずの感触を無くし、過ぎてゆくはずの時間を消し、段々と純粋な「闇」をつくりだしていった。こちらの生物が、目を覆って逃げ出したくなるほどの世界を、わしはいとも容易く生み出すことができる。そうして、疲弊しきった人間どもの魂を、ぎりぎりにまで枯らして、しぼって、喰らう。それが、鬼本来の在り方なのだ。
だが、これも失敗に終わった。何を考えているのか、阿呆な天狗が邪魔をしたからだ。昔ほどとはゆかぬが、あいつにも、天狗の能力が残っていたらしい。タイマは、持っていた小さな団扇をあおぎ、屋敷内を荒々しい風の渦で満たした。食器は割れ、戸棚が壊れ、屋根瓦も数枚飛んで行った。
黄色い酸はかき消され、わしはその突風によって、屋根の上まではじき飛ばされてしまった。なるほど、清めの塩を混ぜたか。どうりで、足がひとつ欠けた訳だ。わしは、不機嫌そうに舌を打った。惜しいことをした。
タイマは庭先に飛び出すと、屋根の上に向かって声を張り上げた。
「余計なことをするな」
このときになって、はじめて苛烈な怒りの一片をのぞかせた。わしは、憮然として腕を組み、眉根をよせる。人間どもを叱ることはないくせに、なぜわしが叱られたのか、さっぱりわからなかった。なんだか、無性に腹が立ったので、しばらく口を訊かないことにした。
翌日になって、半狂乱になった佳子が問い詰めてきた。タイマはそれをのんびりと交わしていたが、宗平も一緒になって、それを責めた。あながち、間違いではないが、間違った確信を持って、この家の人間どもは、タイマのことを「禍」と考えるようになる。そのため、タイマの存在は無いものとされ、それは暗黙のうちに決まった。
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