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第一章
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三
タイマが八つを迎えたころ、次男の京也が、正式な坂島家の跡取りとして、育てられることになった。タイマは、人間どもが「奥の奥の部屋」と呼んでいる、屋敷の離れにある、小さな部屋をあてがわれ、そこで生活をすることになった。
わしは、縁側に腰かけたまま、朝の坂島の家内を眺めていた。下女が忙しなくかけてゆくなか、藍色の着物を翻しながら、長い廊下を歩いて、こちらに近づいてくる女がいた。このころになると、乳母も手を離したため、新しい世話係としての下女が、タイマの身の回りを整えることになったのだ。
「恭一郎さま、お食事でございます。何か、御用の際は、呼び鈴でお知らせくださいませ」
うやうやしく頭を垂れてからタイマの返事も聞かず、その場を後にする。離れに追いやられた化け物の世話をしたがる奇特な人間もいるのか。それとも、乳母と同じように仕事と割り切って行っているのか。後者だろうと思ったが、立ち去る女の横顔には、微かに明るい笑みが浮かんでいるようだった。なにがおかしいのか。わしは、首をかしげてそれを見送った。
「俺は、ずっと人間になりたかったんだ」
タイマは、縁側で憮然としていたわしの背中を、つま先でつついてきた。そのため、背中を通過した足の指が、ぬーっと、わしの腹から出てきた。眉間に皺をよせて振り返ると、タイマの顔を睨み上げた。
「前々からそうだとは思うとった」
「何がだ?」
「貴様は狂っとる」
「狂う?なぜ」
「なぜと言うこともない。そんな馬鹿なことを言うのは、気違いだ」
「どう馬鹿なのか、わからないな」
タイマは、白髪をかきあげると、縁側の上でしゃがみこんだ。暖かな日差しを受けて笑うと、藍色の着流しの袖に、腕をつっこんだ。
「俺の性質を覚えているか?」
「喰ったものをそのまま、自分の力にするんじゃろう。忘れるはずがない。こんな厄介な力さえなければ、わしは貴様を喰えた」と、言って舌を出した。
「そうだな。俺も、お前さえ喰えたら、きっと最強になれたんじゃないかと、時折思うぜ」
そう言って、するどい双眸を細めたタイマに、血の気が引いた。「冗談じゃないぞ」とつぶやいて、上体を後ろにそらし逃げる。三つ目を細めて、その冷徹な顔を見据えた。タイマはなんでもない風に、快活に笑いだすと「冗談だ、冗談だ」と言う。
「俺はお前より長生きだ」
「だから何じゃ」
「でも、喰わなくなったんだ」
「だから狂ってるんだ」
タイマは眉尻を下げて、少しだけ困ったように笑った。
「人の感情が、どういうものか知ってしまった。それで喰え、と言うほうがあんまり酷だ」
このときになって、なぜわざわざこんな話をはじめたのか、ようやく理解した。理解はしたが、わからない。わしは腕を組んだまま、しばらく黙りこんだ。
「それまで、全然わからなかった。なんで、腕を喰われて泣くのか。脅かしたらおびえるのか。わからないから面白かった。でも、人間を喰った時わかった、……ような気だけはするな」
同意しかねて黙っていたが、タイマは相変わらず愉快そうに笑っているだけだった。
「人間を喰って人の心を知ったが、俺は人ではない。心だけがある。だから人になりたくなったんだ。どんな生でもいいから本当の人間になって、死ぬ瞬間まで生きてみたいと思った」
「格好の良いことを言っとるが、結局は向こうで生きられなくなっただけだろう」
「まあ、そうだな」
「酔狂な奴だ」
ふと、これまでの妙な行動を思い出してようやく納得した。そして、横で嬉しそうに笑っているタイマを睨みつけて、低くうなった。
「利用したな」
「人聞きが悪い。はじめこそ、そんなつもりは無かったんだよ。あの赤ん坊をさ、なんとかしなくっちゃいけなかった。そしたら、お前が谷底にいたろう?それでピンときたんだ」
「どこまでも迷惑なやつだな」
「いいじゃないか。お互い助かったんだから」
飄々とした態度でそう言ったタイマの横面を、思いきりはり倒してやろうとしたが、それ以上に重要なことを思い出した。
「元凶の赤ん坊はどうした?」
「それが」
タイマは言い淀んで困ったように、眉間に皺をよせた。しばらく逡巡してからわしの顔を見て、ううん、とうなった。
「落としちゃったんだ」
そう言って苦笑したタイマの顔を、しばらく眺めてから、大きなため息をついて黙りこんだ。もはや、呆れて怒鳴る気力もなくなる。
「よろこべ。貴様は天災だ」
「天才?」
「そうだとも」
苛立ちに、牙をむき出しにして奴の顔を見ると、微笑を浮かべて「ありがとう」と、背筋の寒くなるようなことを言った。その何か企みのある笑顔を見ていると、心底から、ばかばかしくなってくる。わしは懐手をして、大きなため息を吐き出した。
「だから、ここの家の人間にはすまないと思うのだよ」
珍しく殊勝なことを言うじゃないか。ちら、とタイマの横顔を盗み見て、疑わしそうに眉根をよせた。
「それは本当か?」
「ほんの少しな」
「合い縁、奇縁も運のうちじゃ。たしかにこの家の人間は不幸だろうな。こんな化け物を生んで」
「そんならお前の運は最高だな。八枯れ」
「喰い殺すぞ」
「やれるものなら」
しずくを落としたように響くやわらかな笑い声は、やはり癪に障る。まるで本当の人のように振舞う化け物に、腹が立つ。わからぬと言ったくせに、なぜそんなにも人を許せるのか。まったく理解できない。する気もない。
「人は弱い」
「だからこそ感情の機微を持っている。あれは美しいものだよ」
わしは、タイマの持つ、浪漫的な感傷を鼻で笑った。
「馬鹿め。それは貴様が化け物だからじゃ。人は感情を持っていることを、あたりまえだと思うとる。あたりまえだと思う奴らは、あたりまえのものを尊べん。だからわしは人が嫌いじゃ」
「だが、弱いからこそやさしいんだ。俺やお前のようにしっかりしすぎていたら、冷たくていけない」
「違うな。しっかりしていても、やさしくはなれる」
余計なことを言った、とすぐ口をつぐんだ。しばらくわしの顔をじっと眺めていたが「やっぱり、お前は面白い奴だ」と、言って微笑した。その笑顔は光のようにまぶしく、だからわしはこいつが苦手なのだろうと思い、鼻を鳴らした。
タイマが八つを迎えたころ、次男の京也が、正式な坂島家の跡取りとして、育てられることになった。タイマは、人間どもが「奥の奥の部屋」と呼んでいる、屋敷の離れにある、小さな部屋をあてがわれ、そこで生活をすることになった。
わしは、縁側に腰かけたまま、朝の坂島の家内を眺めていた。下女が忙しなくかけてゆくなか、藍色の着物を翻しながら、長い廊下を歩いて、こちらに近づいてくる女がいた。このころになると、乳母も手を離したため、新しい世話係としての下女が、タイマの身の回りを整えることになったのだ。
「恭一郎さま、お食事でございます。何か、御用の際は、呼び鈴でお知らせくださいませ」
うやうやしく頭を垂れてからタイマの返事も聞かず、その場を後にする。離れに追いやられた化け物の世話をしたがる奇特な人間もいるのか。それとも、乳母と同じように仕事と割り切って行っているのか。後者だろうと思ったが、立ち去る女の横顔には、微かに明るい笑みが浮かんでいるようだった。なにがおかしいのか。わしは、首をかしげてそれを見送った。
「俺は、ずっと人間になりたかったんだ」
タイマは、縁側で憮然としていたわしの背中を、つま先でつついてきた。そのため、背中を通過した足の指が、ぬーっと、わしの腹から出てきた。眉間に皺をよせて振り返ると、タイマの顔を睨み上げた。
「前々からそうだとは思うとった」
「何がだ?」
「貴様は狂っとる」
「狂う?なぜ」
「なぜと言うこともない。そんな馬鹿なことを言うのは、気違いだ」
「どう馬鹿なのか、わからないな」
タイマは、白髪をかきあげると、縁側の上でしゃがみこんだ。暖かな日差しを受けて笑うと、藍色の着流しの袖に、腕をつっこんだ。
「俺の性質を覚えているか?」
「喰ったものをそのまま、自分の力にするんじゃろう。忘れるはずがない。こんな厄介な力さえなければ、わしは貴様を喰えた」と、言って舌を出した。
「そうだな。俺も、お前さえ喰えたら、きっと最強になれたんじゃないかと、時折思うぜ」
そう言って、するどい双眸を細めたタイマに、血の気が引いた。「冗談じゃないぞ」とつぶやいて、上体を後ろにそらし逃げる。三つ目を細めて、その冷徹な顔を見据えた。タイマはなんでもない風に、快活に笑いだすと「冗談だ、冗談だ」と言う。
「俺はお前より長生きだ」
「だから何じゃ」
「でも、喰わなくなったんだ」
「だから狂ってるんだ」
タイマは眉尻を下げて、少しだけ困ったように笑った。
「人の感情が、どういうものか知ってしまった。それで喰え、と言うほうがあんまり酷だ」
このときになって、なぜわざわざこんな話をはじめたのか、ようやく理解した。理解はしたが、わからない。わしは腕を組んだまま、しばらく黙りこんだ。
「それまで、全然わからなかった。なんで、腕を喰われて泣くのか。脅かしたらおびえるのか。わからないから面白かった。でも、人間を喰った時わかった、……ような気だけはするな」
同意しかねて黙っていたが、タイマは相変わらず愉快そうに笑っているだけだった。
「人間を喰って人の心を知ったが、俺は人ではない。心だけがある。だから人になりたくなったんだ。どんな生でもいいから本当の人間になって、死ぬ瞬間まで生きてみたいと思った」
「格好の良いことを言っとるが、結局は向こうで生きられなくなっただけだろう」
「まあ、そうだな」
「酔狂な奴だ」
ふと、これまでの妙な行動を思い出してようやく納得した。そして、横で嬉しそうに笑っているタイマを睨みつけて、低くうなった。
「利用したな」
「人聞きが悪い。はじめこそ、そんなつもりは無かったんだよ。あの赤ん坊をさ、なんとかしなくっちゃいけなかった。そしたら、お前が谷底にいたろう?それでピンときたんだ」
「どこまでも迷惑なやつだな」
「いいじゃないか。お互い助かったんだから」
飄々とした態度でそう言ったタイマの横面を、思いきりはり倒してやろうとしたが、それ以上に重要なことを思い出した。
「元凶の赤ん坊はどうした?」
「それが」
タイマは言い淀んで困ったように、眉間に皺をよせた。しばらく逡巡してからわしの顔を見て、ううん、とうなった。
「落としちゃったんだ」
そう言って苦笑したタイマの顔を、しばらく眺めてから、大きなため息をついて黙りこんだ。もはや、呆れて怒鳴る気力もなくなる。
「よろこべ。貴様は天災だ」
「天才?」
「そうだとも」
苛立ちに、牙をむき出しにして奴の顔を見ると、微笑を浮かべて「ありがとう」と、背筋の寒くなるようなことを言った。その何か企みのある笑顔を見ていると、心底から、ばかばかしくなってくる。わしは懐手をして、大きなため息を吐き出した。
「だから、ここの家の人間にはすまないと思うのだよ」
珍しく殊勝なことを言うじゃないか。ちら、とタイマの横顔を盗み見て、疑わしそうに眉根をよせた。
「それは本当か?」
「ほんの少しな」
「合い縁、奇縁も運のうちじゃ。たしかにこの家の人間は不幸だろうな。こんな化け物を生んで」
「そんならお前の運は最高だな。八枯れ」
「喰い殺すぞ」
「やれるものなら」
しずくを落としたように響くやわらかな笑い声は、やはり癪に障る。まるで本当の人のように振舞う化け物に、腹が立つ。わからぬと言ったくせに、なぜそんなにも人を許せるのか。まったく理解できない。する気もない。
「人は弱い」
「だからこそ感情の機微を持っている。あれは美しいものだよ」
わしは、タイマの持つ、浪漫的な感傷を鼻で笑った。
「馬鹿め。それは貴様が化け物だからじゃ。人は感情を持っていることを、あたりまえだと思うとる。あたりまえだと思う奴らは、あたりまえのものを尊べん。だからわしは人が嫌いじゃ」
「だが、弱いからこそやさしいんだ。俺やお前のようにしっかりしすぎていたら、冷たくていけない」
「違うな。しっかりしていても、やさしくはなれる」
余計なことを言った、とすぐ口をつぐんだ。しばらくわしの顔をじっと眺めていたが「やっぱり、お前は面白い奴だ」と、言って微笑した。その笑顔は光のようにまぶしく、だからわしはこいつが苦手なのだろうと思い、鼻を鳴らした。
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